今日からまた暑くなりそう。梅雨入りは週末ごろか。さあ校了日間近で忙しいぞ。(哲




2007ソスN6ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1162007

 螢火に男の唇の照らさるる

                           折井眞琴

の「男」が作者とどういう関係にあるのかは、わからない。でも、そのほうが良い。見知らぬ男というわけにはいくまいが、恋人や愛人のたぐいでもないだろう。作者に掌のなかでか、虫かごのなかでか、明滅している蛍を気軽に見せてくれるほどの近しさの男である。親族や兄弟かもしれないし、単なる隣近所の知りあいかもしれない。男が見せようと近づけてきたのは「螢火」であるのだが、のぞき込もうとした作者は、蛍の光よりも、それに照らされた男の「唇」に目がいってしまった。すなわち、それまでには感じたことのなかった人に、一瞬生の「男」を感じたのである。それがどうしたということでもないのだけれど、このように相手が突然突出して異性化する瞬間は、男女を問わず、誰にも思い当たるフシはあると思う。その瞬きする間ほどのエロスを、作者はよく形象化し得ている。同工の句に「弟の指美しき梅雨の家」もあって、作者の腕前もさることながら、このような内容をさらりと表現せしめる俳句という様式には、感じ入らないわけにはいかない。『孔雀の庭』(2007)所収。(清水哲男)


June 1062007

 金魚屋のとゞまるところ濡れにけり

                           飴山 實

ういえばかつては金魚を、天秤棒に提げたタライの中に入れ、売っている人がいたのでした。実際に見た憶えがあるのですが、テレビの時代劇からの記憶だったのかもしれません。考えてみれば、食物でもないのに、小さな生命が路上で売り買いされていたのです。たしかに「金魚」というのは、命でありながら同時に、水の中を泳ぐきれいな「飾り物」のようでもあります。掲句の意味は解説するまでもなく、金魚売りがとまったところに、タライの水が道にこぼれ、濡れた跡がついているというものです。どうということのない情景ですが、水がこちらまで沁みてくるような、しっとりとした印象を持ちます。こぼれた水は夏の道に、濃い斑点のように模様を描いています。句から見えてくるのは、どこまでも続くひと気のない広い道です。道の両側には軒の低い家々が建ち並んでいます。目をこらせば、かなり遠くまで行った金魚売の後姿が見えます。揺れる水を運ぶ人の上に、夏の日差しが容赦なく照りつけています。「キンギョエー、キンギョー」物売りのための高い声は、命のはかなさに向けて、ひたすら叫ばれているようにも聞こえてきます。『現代の俳句』(2005・講談社)所載。(松下育男)


June 0962007

 眼のほかは長所なき顔サングラス

                           吉村ひさ志

どいこと言うなあ…クスッとしつつ思った。眼のほかに長所がない、と断言しているのだ。しかしよく考えると褒めているのだとわかってくる、よほど素敵な眼の持ち主なのである。目、でなく、眼であるから、その眼差しにまた表情のある魅力的な女性(おそらく)なのだろう。これがもし、眼のほかに、であったとしたら、まああえて長所をあげるなら眼だね、と、「長所なき顔」が強調される。それを、眼のほかは、と、限定の助詞「は」にしたことで、魅力的な眼が強調され、サングラスをはずしたその眼をあれこれ想像しつつ、個性的であろうその女性への作者の親愛の情もうかがえる。成瀬正としに〈サングラス瞳失せても美しや〉という正攻法の一句があるが、掲句の味わいは捨てがたい。句集に並んで〈団扇手に今は平和な老夫婦〉とある。団扇という季題も効いているが、やはり、「は」という助詞がうまく働いている一句と思う。あとがきに、「大方の季題を理解し、見たまま、思ったことを五・七・五で表現するのには、五十年の句歴が必要であるとの思いである。」とある作者だが、昨年二月急逝されたと聞く。享年八十歳。あとがきにはまた、句集の名は、作者が愛した故郷群馬のぶな林からとった、とも。〈踏む音の独りの時の登山靴〉『ぶな(木ヘンに無)林』(1999)所収。(今井肖子)




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