「6・15」と聞いて反応する人も少なくなりました。樺美智子さんの名前にすらも。(哲




2007ソスN6ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1562007

 老婆外寝奪はるべきもの何もなし

                           中村草田男

婆だから「奪はるべきもの」がない、乙女ならあるのかと読むと、そこまで言うかという気になるが、この句の狙いはそんな卑俗なところにはないことにやがて気づいた。この句は本来の裸の人間が持っている天賦の聖性について言っているのだろう。飼っている犬が食べ物をねだるとき、喜ぶとき、糞尿をするとき、ふと聖なる存在を感じるのと同じ。羞恥心も遠慮もない赤裸々な姿が、逆に我等人間のひねくれ方を映し出す。理知なるものがいかに人間の聖性を侵食したかを教えてくれるのだ。赤ん坊が大人につきつける聖性も同様。人間の原初の在り方を草田男は一貫して問うている。そういう一貫した思想を俳句の中に盛ろうとすれば表現は通常観念色、説教色に染まるものだが、草田男はそうならない。外寝という季題を配して現実的な風景のリアリティを構成する。虚子門草田男が、最後まで「写生」を肯定していた所以である。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


June 1462007

 黴の花イスラエルからひとがくる

                           富沢赤黄男

断すると黴の生える季節になった。黴は陰気の象徴であるとともに、「黴が生える」「黴臭い」といった言葉は転じて「古くなる」「時代遅れになる」といった意味で使われることが多い。「黴の花」というけれど、黴は胞子によって増殖するので、花は咲かない。歳時記の例句を見ると、ものの表面に黴が一面に広がった状態を「黴の花」と形容しているようだ。現在のイスラエルの建国は1948年。この句が作られた昭和10年代、「イスラエル」は現実には存在しない国名だった。ローマ帝国に滅ぼされ、長らく国を持たず千年にわたって流浪の民となったユダヤ人が夢見た「乳と蜜の流れる王国」は聖書の中にしか存在しない幻の国だった。眼前の事実からではなく、言葉やイメージから発想する方法をとっていた作者は、実際の花として存在しない「黴の花」を咲かせることで、時空をワープして古代人がぬっと現れる不思議な仮想空間を作りだそうとしたのだろうか。言葉と言葉を結び付けることで見えない世界を見ようとした赤黄男の言葉の風景は60年のち現実のものとなった。しかし幻影が事実となった今も、「イスラエル」と「黴の花」の取り合わせはこの句に謎めいた雰囲気を漂わせているようだ。『現代俳句の世界16』(1985)所収。(三宅やよい)


June 1362007

 夏山のかぶさつてゐる小駅かな

                           田中冬二

蒼と緑が繁り盛りあがり、緑がしたたらんばかりの夏山である。大波がうねるように濃い緑が暑さをものともせず起ちあがり、覆いかぶさって、麓の小さな駅を一呑みにせんばかりの勢いである。まかなかワイドな景色ではないか。小駅を配したことによって、対比的に夏山がいっそう大きく感じられる。のみならず「かぶさつてゐる」という描写によって、夏山があたかも巨大な生きもののようにダイナミックに感じられる。信州あたりの実景かもしれない。かぶさるような山の緑に、今にも圧しつぶされそうになっている小さな駅に対する、作者の慈しみの心を看過してはなるまい。冬二の詩にも同じような心を読みとることができる。私事で恐縮だが、中学生の頃にアンソロジーで出会った詩集『青い夜道』のなかの詩が気に入って、まめにノートに書き写したりした一時期があった。「ぢぢいと ばばあが/だまつて 湯に入つてゐる」なんて短詩は、掲出句の世界と今やとても近いものに感じられる。こうした何のてらいもない句が、何かの拍子に人の心に覆いかぶさってくることだってあり得る。うれしいことだ。冬二には、ほかに「白南風や皿にこぼれし鱚(きす)の塩」という夏の句もある。『行人』(1946)『麦ほこり』(1964)二冊の句集があり、俳句について冬二はこう述べている。「これまで俳句を詩作の側、時にそのデッサンとして試作してきたが、本格的の俳句は決して生やさしいものでない」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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