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June 2362007

 漂著のバナナの島は地図になし

                           風 石

後生まれの私でも子供の頃、バナナはみかんやりんごよりも高級品だった。熱を出すと食べられる、というあれである。かつての住まいの庭には、柿、枇杷、夏みかん、いちじく、梅、桑などが実っていたが、バナナはその横文字の響きと、強い香りと甘みが、遠い外国、それも熱帯のジャングルを想像させるのだった。実芭蕉(みばしょう)という和名を知ったのはつい最近、俳句では夏季に分類されている。ばなな、という音には、鼻にぬけるようなとぼけた感じもあるのだが、この句が作られたのは、太平洋戦争も終末に向かっていた昭和十九年である。その年の「ホトトギス」六月号の巻頭の一句であり、作者の出身地の所には、○○船、とある。船の名称は軍事機密、作者も、風石、とだけあり定かでない。太平洋上の小さい島に漂著(ひょうちゃく)した経緯がどういったものだったのか、そこで詠まれた句がどうやって日本へ届いたのか。そんな境遇を余儀なくされながら、俳句を詠むことで、ひとりの人間としての自分と向き合っていられたのかもしれない。今日、六月二十三日は、沖縄慰霊の日。日本で唯一、地上戦となった沖縄では、犠牲者の数二十万人以上であったという。「夾竹桃の花を見ると玉音放送を思い出す」という言葉が記憶にあるが、バナナの島、太平洋、南国、常夏、などから戦争を連想する世代は、確実に少なくなっていく。「ホトトギス巻頭句集」(1995・小学館)所載。(今井肖子)


June 2262007

 思ひ出すには泉が大き過ぎる

                           加倉井秋を

入観というもの。俳句をつくる上でこんなに邪魔になるものはない。泉といえば即座に水底の砂を吹き出して湧き出てくる小さな泉を思ってしまう。先入観、即ち、先人の見出したロマンを自分の作品に用いるのは共通認識を見出すのがた易いからだ。共通認識を書くのは安堵感が得たいため。そうよね、と顔見合わせてうなずくためだ。そこに自己表現はあるのか。共通認識の何処が悪い、むしろそこにこそ俳句の庶民性、俳諧性が存するのだと、居直りとも逆切れとも取れる設定が、季題の本意という言い方。われら人間探求派は季題をテーマからは外したが、人間詠というテーマの背景としてはそれを援用している。寺山修司の「便所から青空見えて啄木忌」のように季題の本意を逆手に取って、古いロマンを嗤う方向もあるが、これも逆手に取ったというあざとさが臭う。中心に据えようと援用しようと逆手に取ろうと、「真実の泉」には届かない。目の前の泉そのものを書き取る。答はすぐそこにありそうなのだが、実は何万光年もの距離かもしれない。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


June 2162007

 地下鉄にかすかな峠ありて夏至

                           正木ゆう子

えば地下鉄ほど外界から切り離された場所はないだろう。地下鉄からは光る雲も、風に揺らぐ緑の木々も見えない。真っ暗な軌道を轟音とともに走る車両の中では外の景色を見て電車の上り下りを感じることはできない。地下鉄にも高低差はあるだろうが、電車の揺れに生じる微妙な変化を身体で感じるしかないのだ。その起伏を表すのに人工的な地下鉄からは最も遠い「峠」という言葉にゆきあたったとき、作者は「ああ、そういえば今日は夏至」と改めて思ったのかもしれない。昼が最も長く夜が最も短いこの日をピークに昼の長さは短くなってゆく。しかし「夏至」という言葉にその頂点を感じても太陽のあり方に目に見える変化が起こるわけではない。「かすかな峠ありて夏至」と少し間延びした言葉の連なりにその微妙な変化を媒介にした地下鉄の起伏と太陽の運行との結びつきが感じられる。都会生活の中では、自然の変化を肌で感じられる場所はどんどん失われている。だが、味気ない現実に閉じ込められるのではなく作者は自分の身体をアンテナにして鉄とコンクリートの外側にある季節の変化を敏感に受信している。「かすかな」変化に敏感な作者の感受性を介して都会の暗闇を走る地下鉄は明るく眩しい太陽の運行と結びつき、それまでとは違う表情を見せ始めるのだ。『静かな水』(2002)所収。(三宅やよい)




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