米の原爆投下「しょうがない」、ソ連参戦防ぐためと久間防衛相。君は人非人だ。(哲




2007ソスN7ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0172007

 扇風機大き翼をやすめたり

                           山口誓子

はどの家にもあった扇風機の姿を、最近はそれほどには見かけなくなりました。エアコンの便利さは理解するものの、目の前で必死に風を送り続ける扇風機の姿には、それなりに愛着を抱きます。風の向きを変えるためにひたすら首を振り続ける様子も、どこかかわいらしく、生き物に喩えられるのも分かるような気がします。掲句の扇風機は、そういった畳の上に置かれる式のものではなく、天井からぶら下がっている天井扇と呼ばれるもののようです。鳥が翼を休めているようだと言っています。優雅な姿を連想させるものとして喩えられています。上空から滑空してきて、静かに地上に降り、羽を休めている様子がはっきりと想像されます。「大き」という形容が、鳥にも扇風機にもぴたりと当てはまっています。まさに大きな「空」が、句を包みこんでいるようです。涼しさを送り続けたのちにスイッチを切られ、やっと羽をのびのびと休ませてほっとしている様子が、たしかに命ある物のように感じられます。言われてみればなるほどという比喩です。風を送り届ける機械にまで及んでいる作者の優しさが、句にも生命を与えています。『作句歳時記 夏』(1989・講談社)所載。(松下育男)


June 3062007

 天瓜粉子供の頃の夕方よ

                           杉本 零

瓜粉(てんかふん)、いわゆるベビーパウダーのようなもので夏季。昨年八月に新増俳が始まって、一年になろうとしている。担当させていただくと決まって、それまであまり読むことのなかった句集その他を読むようになり、最初に惹かれた句集が、この杉本零(ぜろ)氏の『零』だった。昭和六十三年に、五十五歳で亡くなった氏の遺句集である。この句は「慶大俳句」時代の一句。〈よく笑ふ停學の友ソーダ水〉〈見廻して卒業式の上の空〉など学生らしい句の中に混ざり、ふっとあった。子供の頃、といってもこの時まだ二十代、そう遠い昔ではないはずだが、そこに戦争をはさんでいることを思うと、長い時間の隔たりがあるような気持になったのかもしれない。兼題句ではないだろうか、「天瓜粉」の言葉から、心に浮かんだ風景があったのだろう。風呂上がりにつかまえられてはたかれる昔の天瓜粉には、黄烏瓜の独特の匂いがあった。日が落ちかけて涼しい風が吹くともなく吹いてくる夏の夕方、天瓜粉の匂いとともに、縁側に置かれた蚊取り線香の匂い、さっとやんだ夕立あとの土の匂い、記憶の底にある夏の匂いがよみがえってくる。同じ頃の句に〈草紅葉愉しき時はもの言はず〉〈寒燈やホームの端に来てしまひ〉『零』(1989)所収。(今井肖子)


June 2962007

 汗のシャツぬげばあらたな夕空あり

                           宮津昭彦

語に「あり」と一字字余りで置かれた言葉が作者の実感を刻印する。「夕空あたらしき」などの定型表現にはない力強さが生じる。「あらたな夕空」は明日への決意に通じる。汗が労働の象徴だった時代はとうの昔に過ぎ去った。都市化のエネルギーの象徴だった煙突やダムやトンネルはいつのまにか環境破壊の悪者に役どころを変えている。勤勉も勤労も真実も連帯もみんなダサイ言葉になった。死語とはいわないけど。これらの言葉を失った代わりに現代はどういう生きるテーマを得たのだろう。そもそも生きるテーマを俳句に求めようとする態度が時代錯誤なのかな。否、「汗」と言えば労働を思うその連想がそもそも古いのか。だとすると、汗と言えば夏季の暑さから生じる科学的な生理現象を思えばいいのか。それが季題の本意だという理由で。何でシャツは汗に濡れたのか。やはり働いたからだ。テニスやサッカーやジョギングではなく、生きるための汗だ。そんなことを思わせるのはみんなこの「あり」の力だ。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)




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