j句

July 0172007

 扇風機大き翼をやすめたり

                           山口誓子

はどの家にもあった扇風機の姿を、最近はそれほどには見かけなくなりました。エアコンの便利さは理解するものの、目の前で必死に風を送り続ける扇風機の姿には、それなりに愛着を抱きます。風の向きを変えるためにひたすら首を振り続ける様子も、どこかかわいらしく、生き物に喩えられるのも分かるような気がします。掲句の扇風機は、そういった畳の上に置かれる式のものではなく、天井からぶら下がっている天井扇と呼ばれるもののようです。鳥が翼を休めているようだと言っています。優雅な姿を連想させるものとして喩えられています。上空から滑空してきて、静かに地上に降り、羽を休めている様子がはっきりと想像されます。「大き」という形容が、鳥にも扇風機にもぴたりと当てはまっています。まさに大きな「空」が、句を包みこんでいるようです。涼しさを送り続けたのちにスイッチを切られ、やっと羽をのびのびと休ませてほっとしている様子が、たしかに命ある物のように感じられます。言われてみればなるほどという比喩です。風を送り届ける機械にまで及んでいる作者の優しさが、句にも生命を与えています。『作句歳時記 夏』(1989・講談社)所載。(松下育男)


July 0872007

 氷屋の簾の外に雨降れり

                           清崎敏郎

供の頃、母親のスカートにつかまって夕方の買い物についてゆくと、商店街の途中に何を売っているのか分からない店がありました。今思えば飾り気のない壁に、「氷室」と書かれていたのでしょう。その店の前を通るたびに、室内に目を凝らし、勝手な空想をしていたことを思い出します。氷屋というと、むしろ夏の盛りに、リヤカーで大きな氷塊を運んできて、男がのこぎりで飛沫を飛ばしながら切っている姿が思い浮かびます。掲句に心惹かれたのは、なによりも視覚的にはっきりとした情景を示しているからです。冷え切った室内の暗い電球と、そこから簾(すだれ)ごしに見る外の明るさの対比がとても印象的です。先ほどまで暑く陽が差していたのに、降り出した雨はみるみる激しくなってきました。夕立の雨音の大きさに比べて、簾のこちら側は、あらゆる音を吸収してしまうかのような静けさです。目にも、耳にも、截然と分けられた二つの世界の境い目としての「簾」が、その存在感を大きくしてぶら下がっています。夏の日の情景が描かれているだけの句なのに、なぜか心が揺さぶられます。それはおそらく、傘もささずに急ぎ足で、簾のそとを、若かった頃の母が走りすぎていったからです。『現代の俳句』(1993・講談社)所載。(松下育男)


July 1572007

 隣る世へ道がありさう落し文

                           手塚美佐

語は「落し文」、夏です。おそらく歳時記を読むことがなければ、出会うことのなかった名前です。動物です。昆虫のことです。オトシブミ科というものがあるということです。辞書を調べると、「クヌギ・ナラなどの葉を巻いて巻物の書状に似た巣を作り、卵を産みつける。その後、切って地上に落とす」とあります。なんとも風流な名前です。むろん虫にとっては、「落し文」だのなんだのという理屈は関係ないのですが、卵を葉に巻くという行為は、自分の子を守ろうとする本能に支えられてのものであり、その名に負けぬ深い思いを、感じることが出来ます。巻いた葉に文字は書かれていなくても、その行為には、親の切なる願いが込められていることは間違いがありません。掲句、「隣る世」とは、次の世代とでもいう意味でしょうか。作者は「落し文」を地上に見つけて、この文が宛てられた先の世界を想像しています。「隣」という語が、子が親に接触するあたたかな近さを感じさせます。さらに作者自身の生きてゆく先の可能性をも、明るく想像しているのでしょうか。虫にとっては手元から「落す」という行為ですが、それはまぎれもなく子を、自然の摂理へ両腕を挙げて捧げあげることの、言い換えのように感じられます。『生と死の歳時記』(1999・法研)所載。(松下育男)


July 2272007

 うつす手に光る蛍や指のまた

                           炭 太祇

しかちょうど一年前の暑い盛りだったと思います。日記をめくってみたら7月16日の日曜日でした。腕で汗をぬぐいながら歩いていると、前方を歩く八木幹夫さんの姿を見つけたのです。後を追って、神田神保町の学士会館で開かれた「増俳記念会の日」に参加したのでした。その日の兼題が「蛍」でした。掲句を読んでそれを思い出したのです。あの日、選ばれた「蛍」の句を、清水さんが紹介されていた姿を思い出します。さて、「うつす」は「移す」と書くのでしょうか。しずかにそっと壊さないで移動することを言っているのでしょう。それでも、わざわざひらがなで書かれているので、「映す」という文字も思い浮かびます。手のひらに蛍がその光で、姿を反映している様です。つかまえた蛍を両手で囲えば、「指のまた」が、人の透ける場所として目の前に現れます。こんなに薄い部位をわたしたちの肉体は持っていたのかと、あらためて気付きます。句はあくまでもひっそりと輝いています。思わずからだを乗り出して目を凝らしたくなるようです。蛍をつかまえたことのないわたしにも近しく感じるのは、この句が蛍だけではなく、蛍に照らし返された人のあやうさをも詠んでいるからなのです。『俳句鑑賞歳時記』(2000・角川書店)所載。(松下育男)


July 2972007

 ひきだしに海を映さぬサングラス

                           神野紗希

ったりとした日常の世界から、容易に創作の場へ飛び移ることの出来る言葉があります。「ひきだし」も、そのような便利な言葉のひとつです。おそらく、そこだけの閉じられた世界というのが、作者の想像を刺激し、ミニチュアの空間を作り上げる楽しみをもたらすからなのです。ただ、そのような刺激はだれもが同じように受けるものです。「ひきだし」を際立たせて描くためには、それなりに独自の視点を示さなければなりません。掲句に惹かれたのは、おそらくひきだしの中に込められた夏の海のせいです。思わず取っ手に手をかけて、こちらへ大きく引き出してみたくなります。「映さぬ」と、否定形ではありますが、言葉というものは不思議なもので、「海を映さぬ」と書かれているのに、頭の中には、はるかに波打つ海を広げてしまうのです。同様にその海は、サングラスにもくっきりと映り、細かな砂までもが付いているのです。夏も終りの頃に詠まれた句でしょうか。すでに水を拭い去ったサングラスが、無造作にひきだしに放り込まれています。その夏、サングラスがまぶしく映したものは、もちろん海だけではなかったのでしょう。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 0582007

 君だつたのか逆光の夏帽子

                           金澤明子

帽子といえば、7月25日にすでに八木忠栄さんが「夏帽子頭の中に崖ありて」(車谷長吉)という句を取り上げていました。同じ季語を扱っていますが、本日の句はだいぶ趣が異なります。句の意味は明瞭です。夏の道を歩いていると、向こうから大きな帽子を被った人が近づいてきます。歩き方にどこか見覚えがあるようだと思いながら、徐々にその距離を狭めてゆきます。だいぶ近くなって、ちょうど帽子のつばに太陽がさえぎられ、下にある顔がやっと見分けられて、ああやっぱり君だったのかと挨拶をしているのです。逆光のせいで、まっ黒に見えていた人の姿が、本来の人の色を取戻してゆく過程が、見事に詠われています。「君だったのか」の「のか」が、話し言葉の息遣いを生き生きと伝えています。「君」がだれを指しているのかは、読み手が好きなように想像すればよいことです。大切な異性であるかもしれませんが、わたしはむしろ、気心の知れた友人として読みたいと思います。「君だったのか」のあとは、当然、「ちょっと一杯行きますか」ということになるのでしょう。「暑いねー」と言いながら、二人連れ立ってそこからの道を、夏の日ざしを背に受けながら同じ方向へ向ってゆくのです。もちろん帽子の下の頭の中には、すでに冷えたビールが思い浮かべられています。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1282007

 窓あけば家よろこびぬ秋の雲

                           小澤 實

めばだれしもが幸せな気分になれる句です。昔から、家を擬人化した絵やイラストの多くは、窓を「目」としてとらえてきました。位置や形とともに、開けたり閉じたりするその動きが、まぶたを連想させるからなのかもしれません。「窓あけば」で、目を大きく見開いた明るい表情を想像することができます。ところで、家が喜んだのは、窓をあけたからなのでしょうか、あるいは澄んだ空に、ゆったりとした雲が漂っているからでしょうか。どちらとも言えそうです。家が喜びそうなものが句の前後から挟み込んでいるのです。「秋の」と雲を限定したのも頷けます。春の雲では眠くなってしまうし、かといって夏でも冬の雲でもだめなのです。ここはどうしても秋の、空を引き抜いて漂わせたような半透明の雲でなければならないのです。その雲が細く、徐々に窓から入り込もうとしています。家の目の中に流れ込み、瞳の端を通過して行く雲の姿が、思い浮かびます。「よろこぶ」という単純で直接的な表現が、ありふれたものにならず、むしろこの句を際立たせています。考え抜かれた末の、作者のものになった後の、自分だけの言葉だからなのでしょう。『合本 俳句歳時記』(1998・角川書店)所載。(松下育男)


August 1982007

 八月をとどめるものとして画鋲

                           篠原俊博

から小学校の近くには、かならず小さな文房具屋があったものです。売っているのはもちろん勉強に使う物たち。鉛筆であり、消しゴムであり、帳面であり、画用紙であるわけです。小さな間口から急いで走りこみ、始業時刻に間に合うようにあわてて必要なものを買って走り出した日を思い出します。いつの頃からか、文房具はおしゃれな小物になり、時に気どった英語で呼ばれるようになり、派手な絵や柄が付くようになりました。掲句で扱われている「画鋲(がびょう)」という言葉は、濁音の多い音そのままに、今でも時代に取り残されたように使われています。けれど姿だけは、平らで金属そのままの愛想のないものから、最近は色の鮮やかなものが売られるようになりました。この句を読んですぐに思い浮かべたのは、壁にかかったカレンダーです。高層マンションの一室でしょうか。窓が大きく開けられ、さわやかな風が吹き込んでいます。風に揺れる海の絵を見つめる目は、窓の向こうの本物の海をも視野に入れているのかもしれません。12の月を綴じた暦の、もっとも明るく、外へこぼれだしそうなのが「八月」です。画鋲はここで、カレンダーを壁に留めているだけではないようです。八月にあった大切な出来事を、作者の「記憶」にしっかりと留める役割をも果たしています。指に力を込めて、決して忘れないように。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 2682007

 くちばしがふと欲しくなり秋日和

                           皆吉 司

や多くの家が犬や猫を飼うペットブームですが、私が子供の頃には、家で飼っている生き物といえば、せいぜい金魚や小鳥でした。もちろん、それほどに心を通わせることはなく、生活する場の風景のようにして、そちらはそちらで勝手に生きているように思っていました。それでも、からの餌箱をつつくすがたに驚き、あわてて餌を買いに行ったことがありました。その必死な動作に、道すがら、申し訳なく感じたことを憶えています。くちばしを持つ動物はいろいろありますが、掲句を読んで思ったのは、当時飼っていた小鳥のことでした。止まり木の上で、薄いまぶたをじっと閉じている姿を見るのが好きでした。あるいは、首を、あごの中に差し込むようにして折り曲げる小さな姿にも、惹かれていました。人という動物は、言うまでもなくやわらかい口を持っています。どんな言葉も発することができ、どのような食物も取り込むことのできる、便利な形をしています。作者はなぜか、そんな口に違和感を持ったようです。ふと、堅い部位を顔の中央に突出させたくなったのでしょうか。しかしこの願望は、それほどに深刻なものではなく、穏やかな秋日和に、のんびりと見つめていた小鳥の姿から、思いついただけなのかもしれません。それでも、人が鋭いくちばしを持った姿は、ひどく悲しげに見えるのではないかと、思うのですが。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)


September 0292007

 縄とびの縄を抜ければ九月の町

                           大西泰世

年の夏の暑さは尋常ではありませんでした。昔は普通の家にクーラーなどなかったし、わたしが子供の頃もたしかに暑くはありました。しかしそのころの夏は、どこか、見当の付く暑さでした。今年の、39度とか40度とかは、どう考えても日本の暑さとは思えません。そんな記録尽くめの夏も、時が経てば当然のことながら過ぎ去ってゆきます。掲句、こんなふうに出会う9月もよいかなと、思います。遠くに、縄跳びをしている子供たちの姿が見えます。夕方でしょうか。縄を持つ子供が両側に立って、大きく腕をまわしています。一人、一人と順番に、その縄に飛び込んでは、向こう側へ抜けてゆく、その先はもう9月をしっかりと受け止めた町なのです。縄跳びの縄が、新しい季節の入り口のように感じられます。飛び上がる空の高さと、9月という時の推移の、両方を感じさせる気持ちのよい句です。陽が沈むのが日に日に早くなり、あたりも暗くなり始めました。今日の遊びもおしまいと、誰かが言い、縄跳びの縄は小さく丸められます。帰ってゆく子供たちのむかう家は、もちろんあたらしい季節の、中にあるのです。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)


September 0992007

 颱風へ固めし家に児のピアノ

                           松本 進

摩川のほとり、大田区の西六郷に住んでいた頃、台風が来るというと、父親は釘と板を持って家を外から打ち付けたものでした。ある年、ちょうど家の改築をしている時に大きな台風がやってきて、強い風に家が揺れ、蒲団の中で一晩中恐い思いをしたことがあります。掲句の家庭にとっては、まだそれほど状況は差し迫ってはいないようです。台風に備えて準備を終えた家の中で、子供が平然とピアノを弾いています。狭い日本家屋の、畳の一室にどんと置かれているピアノが目に浮かぶようです。この日は台風の襲来を前に、窓を閉め、更に雨戸を閉め、外部への隙間という隙間を埋めたわけです。完璧に外の物音を遮断した中で、ピアノの音が逃げ場もなく、部屋の内壁に響き渡っています。流麗にショパンでも弾いてくれるのならともかく、ミスタッチを繰り返すバイエルをえんえんと聴かされるのは、家族とはいえ忍耐が要ります。それでも、数日後にレッスンが予定されているのなら、台風が来ていようと、子供にとってその日の練習は欠かせません。ピアノのおさらいという「日常」に、時を選ばず襲ってくる「日常の外」としての颱風。その対比が句を、奥深いものにさせています。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


September 1692007

 秋風のかがやきを云ひ見舞客

                           角川源義

昨年の年末に、鴨居のレストランで食事をしているときに、突如気持が悪くなって倒れてしまいました。救急車で運ばれて、そのまま入院、検査となりました。しかし、検査の間も会社のことが気になってしかたがありません。それでもベッドの上で、二日三日と経つうちに、気に病んでいた仕事のことが徐々に、それほど重要なことではないように思われてきました。病院のゆったりとした時間の流れに、少しずつ体がなじんできてしまっているのです。たしかに病室の扉の内と外とには、別の種類の時間が流れているようです。掲句では、見舞い客が入院患者に、窓の外の輝きのことを話しています。とはいっても、見舞い客が、ことさらに外の世界を美しく話したわけではないのでしょう。ただ、たんたんと日常の瑣末な出来事を語って聞かせただけなのです。見舞い客が持ち込んだ秋風のにおいに輝きを感じたのは、別の時間の中で育まれた病人の研ぎ澄まされた感覚のせいだったのです。おそらくこの患者は、長期に入院しているのです。秋風のかがやきを、もっともまぶしく受け止められるのは、秋風に吹かれることのない人たちなのかもしれません。入院患者のまなざしがその輝きにむかおうとしている、そんな快復期のように、わたしには読み取れます。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)


September 2392007

 夕刊に音たてて落つ梨の汁

                           脇屋義之

を食べた汁が新聞に落ちる、それだけのことを描いただけなのに、読んだ瞬間からさまざまな思いが湧いてきます。句というのは実に不思議なものだと思います。たしかに梨を食べるのは、日が暮れた後、夕食後が多いようです。一日の仕事を終えてやっと夕飯のテーブルにつき、軽い晩酌ののち、ゆっくりと夕刊を開きます。そこへ、皿に載った四つ切の梨が差し出されます。蛍光灯の光が、大振りな梨の表面を輝くばかりに照らしているのは、果肉全体にゆき渡ったみずみずしさのせいです。昨今の政治情勢でも読みふけっているのでしょうか。「こんなふうに仕事を放り投げられたら、ずいぶん楽だろうなあ」とでも思っているのでしょうか。皿のあるあたりに手を伸ばし、梨の一切れを見もせずに口に運び、そのままかぶりつきます。思いのほか甘い汁が口を満たし、その日の疲れを薄めるように滲みてゆきます。意識せずに口を動かす脇から、甘い汁がこぼれ落ち、気が付けば新聞を点々と黒く染めています。静かな夜に好きな梨を食することができるというささやかな幸せが、新聞記事の深刻さから、少しだけ守ってくれているように感じられます。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


September 3092007

 口中へ涙こつんと冷やかに

                           秋元不死男

語は「冷やか」です。秋、物に触れたときなどの冷たさをあらわしています。しかし、この句が詠んでいるのはどうも、秋の冷やかさというよりも、個人的な出来事のように感じられます。なにがあったのかはわかりませんが、目じりから流れ出た涙が、頬を伝い、口へ入ってゆくことに不思議はありません。しかし、口をわざわざ「口中」と言っているところを見ると、かなりの量の涙が口の中へ落ちていったようです。それにしても、「こつん」という擬声語がここに出てくることには、ちょっと驚きます。そもそもこの「こつん」という語は、かたい物が当たってたてる音です。作者はそれを知って使っているわけですから、作品への思いいれは、この語に集中していると言えます。涙をかたいものとして感じる瞬間、というのはどのような場合なのでしょうか。涙さえかたいものとして感じるほどに、頬も、口の中も、敏感になっているということなのでしょうか。もしそうならば、あながち「冷やかに」が季節と無縁とは言い切れません。自身の存在を、季節の移ろいのようにやるせなく感じる時、湧き出た涙はその人にとって、かたく感じるものなのかもしれません。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 07102007

 眼鏡はづして病む十月の風の中

                           森 澄雄

の句に「病む」の一語がなければ、目を閉じてさわやかな十月の風に頬をなぶらせている人の姿を想像することができます。たしかに十月というのは、暑さも寒さも感じることのない、わたしたちに特別に与えられた月、という印象があります。澄んだ空の下を、人々は活動的に動きまわることができます。そんな十月に、句の中の人は病んでいるというのです。季節の鮮やかさの中で、病と向きあわざるをえないのです。そこには、めぐり来る季節との、多少の違和感があるのかもしれません。病院の帰り道、敷地内につくられた花壇のそばの道で、句の人は立ち止まります。立ち尽くした場所で、明るい風景から目をそらすように、ゆっくりと眼鏡を外します。医者に言われた言葉を思い出しながら、これからこの病とどのように折り合ってゆこうかと、風の中でじっと考えているのです。病を持つことによって、この季節の中にいることの大切さが、よりはっきりと見えてくるようです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 14102007

 涙腺を真空が行き雲が行く

                           夏石番矢

画や音楽の魅力を、詩や俳句に引き移してみるという試みは、容易ではありません。たいていの場合、思うほどにはその効果を出すことができないものです。ジャンルの違いは、それほどに単純なものではないようです。せいぜいが発想のきっかけとして、利用するに留めておいた方がよいのかもしれません。掲句の「雲」から、マグリットの絵を連想した人は少なくないと思います。連想はしますが、句は、独自の表現空間を広げています。作者が、絵画を発想のきっかけにしたかどうかはともかく、言葉は、その持てる特性を見事に発揮しています。目につくのは、「涙腺」と「真空」の2語です。叙情の中心にある「涙」という語を使いながらも、あくまでもしめりけを排除しています。真空と雲が、乾いた空間にひたすらに流れてゆく姿は、日本的叙情から抜け出ようとする意気込みが感じられます。雲は、どの季節にもただよっていますが、句に満ちた大気の透明感は、つめたい秋を感じさせます。それにしても、涙腺を流れてきた真空と雲は、頬を伝ってどこへ、こぼれて行ったのでしょうか。『現代の俳句』(2005・講談社)所載。(松下育男)


October 21102007

 ジャムのごと背に夕焼けをなすらるる

                           石原吉郎

日も休日出勤の帰りに、横浜へ向かう東横線の中で、つり革につかまったまま正面から顔を照らされていました。夕焼けといえば、本来は夏の季語ですが、どの季節にも夕焼けはあり、季にそれほどこだわることもないかと思い、この句を取り上げました。その日の東横線は、ちょうど多摩川の鉄橋を渡っているところでした。急に見晴らしがよくなった土手の向こうの空から、赤い光が、車中深くにまで差し込んできていました。夕焼けなんて、特段めずらしくもないのに、なぜか感慨にふけってしまいました。さて掲句です。夕焼けの赤い色の連想から、ジャムが出てきたのでしょう。そのジャムの連想から、「なすらるる」が思い浮かべられたのです。そして一つ目の連想(夕焼け)と、二つ目の連想(なすらるる)をつなげれば、なるほどこのような句が出来上がってくるわけです。一日の終わりの、家に向かって歩いている風景が思い浮かびます。つかれているのです。夕焼けでさえ、荷物のようにその重みを、背中にもたせかけてくるようです。「なすらるる」という表現は、俳句の言葉としては、多少重いかもしれません。というのも、ここでなすりつけられているのは、「ジャム」や「夕焼け」だけではないからなのです。しかしこれは、詩人石原吉郎に対する、わたしの深読みなのかもしれません。『石原吉郎全集3』(1980・花神社)所収。(松下育男)


October 28102007

 埴輪の目色無き風を通しけり

                           工藤弘子

輪と土偶と、いつも区別がつかなくなってしまいます。土偶は縄文時代のもので、一方埴輪は、古墳時代のものだということです。素焼きの焼き物です。「ドグウ」にしろ「ハニワ」にしろ、口に出せばどこかさびしげな響きをもった音です。ここで詠われているのはおそらく「人物埴輪」。目と口に穴をうがたれた、単純な表情のものです。単純なゆえに、かえって見るものの想像をかきたてるものがあります。まぶたも唇も無い、ぽっかりと開いた目と口の穴が、私たちに語りかけるものは少なくありません。掲句、季語は「色なき風」、単色の冷たさで吹きつのる秋の風を意味しています。「色無き」は「風」にかかっていますが、埴輪の目の、無表情の「無」にも通じているようです。風は埴輪の外から、目を通し口を通して、何の抵抗も無く内部へ入り込んでゆきます。それだけのことを詠っている句ではありますが、読者としては、どうしても「人物埴輪」を、生きた人の喩えとして見てしまいます。秋の日の、冷たい風の中に立つ自分自身の姿に照らし返してしまいます。日々、複雑な感情と体の構造を持つ「人」の生も、吹く風に向かうとき、単純な一個の「もの」に帰ってゆくようです。さまざまに悩み、さまざまに楽しむ個々の生も、時がたてば、この埴輪の表情ほどに単純なものに、帰してしまうものかもしれません。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 04112007

 林檎もぎ空にさざなみ立たせけり

                           村上喜代子

象そのものにではなく、対象が無くなった「跡」に視線を向けるという行為は、俳句では珍しくないようです。およそ観察の目は、あらゆる角度や局面に行き渡っているようです。句の意味は明解です。林檎をもぐために差し上げた腕の動きや、林檎が枝から離れてゆく動きの余波が、空の広がりに移って行くというものです。現実にはありえない情景ですが、空を水に置き換えたイメージはわかりやすく、美しく想像できます。似たような視点から詠まれた句に、「梨もいで青空ふやす顔の上」(高橋悦男)というのもあります。両句とも、本当にもいだのは果物ではなく、青空そのものであると言いたかったのでしょう。「地」と「絵」の組み合わせを、果物にしたり、空にしたり、水にしたりする遊びは、たしかに飽きることがありません。もぎ取った空に、大きく口をあけてかぶりつけば、そこには果肉に満ちた甘い水分が、今度は人に、さざなみを立てはじめるようです。『合本俳句歳時記第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


November 11112007

 温めるも冷ますも息や日々の冬

                           岡本 眸

句に限らず、日々の、なにげない所作の意味を新しい視点でとらえなおすことは、創作の喜びのひとつです。作者自身が、「そうか、そんな見方があったのか」と、書いて後に気づくこともあります。掲句を読んで最初に感じたのは、なるほど「息を吐く」ことは、ものを温めもし冷ましもするのだったという発見でした。そしてこういった句を読むたびに、どうしてそんなあたりまえのことに今まで気づかなかったのかと、自分の鈍感さを思い知らされるのです。「温める」は、冬の寒さの中で頬を膨らませて、自分の体の中の温かみを掌に吹きあてる動作を言っているのでしょう。一方「冷ます」は、たとえばテーブルに載ったコーヒーカップの水面へ、横から冷たい息を送ることでしょうか。でも、いったんは冷ましたコーヒーも、結局は体の中に流れ込んで、人を温めることに結びついてゆきます。全体が、人の動作のやさしさを感じさせてくれる、てのひらで包み込むような句になっています。ところで、「冬の日々」ではなく、なぜ「日々の冬」という言い方をしているのでしょうか。理由はともかく、小さく日々に区切られた冬が想像されて、わたしはこの方が好きです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 18112007

 悲しみの目のきは立ちしマスクかな

                           老川敏彦

こ数年のことですが、町を歩いていて奇異に感じることの一つに、先のとがったマスクがあります。とくに花粉の季節には、マスクをしている人が、まるでみんなで口を尖らせて歩いているように見えるのです。そんな人が集団でいると、文明が確実に人の姿を変えつつあるのかと、たかがマスクひとつに、不安な思いがわいてきます。掲句のマスクはどちらなのでしょうか。冬の、風邪の季節のものであるならば、昔からある、口にぴたりと接触するタイプのものなのかもしれません。吐く息が布にあたってすぐに戻る、その温かみは、今は病の内にあるのだという思いを、マスクを通して確認させられているように感じます。句はいきなり、「悲しみ」という強い表現で始まっています。明確な、言い換えれば選択肢を狭める語を使用しています。ただ、語の意味は明確ですが、その分、語られている対象は隠されているというわけです。目が感情を表すのは言うまでもないことです。しかし、顔の、ほかの部分を隠すことによって、目が表現しようとしている「悲しみ」が、さらに鮮明に表れてくることを、この句は語っています。隠すことによって、あるいは語らないことによって、より深い表現を獲得する。創作の不思議さを、感じさせる句でもあります。『現代俳句歳時記』(1993・新潮社)所載。(松下育男)


November 25112007

 檸檬抛り上げれば寒の月となる

                           和田 誠

檬の季語は秋ですが、ここでは、抛り上げられた空の季節、つまり冬の句とします。果物を抛り上げる図というと、わたしはどうしてもドラマ「不ぞろいの林檎たち」のタイトルバックを思い出します。また、「檸檬」という語からは、高村光太郎の「レモン哀歌」が思い出されます。そしてどちらの連想からも、甘く、せつない感情がわいてきます。句は、そのような感傷的なものを排除して、見たままを冷静に描いています。ドラマや詩とは違う、俳句というものの表現の直接性が、潔く出ているように思います。檸檬を月に見たてることには、たしかに違和感はありません。こぶりな大きさと、あざやかな黄色、また硬質で起伏のある質感は、形こそいびつではありますが、月を連想させるには充分すぎるほどの条件を備えています。抛り上げる「動き」と、上空でとまった時の「静止」。レモンの明るい「黄色」と、夜空の暗い「黒」。手で触れつかむことができる檸檬と、けっして手には触れることのない上空の月。これらの対比が効果的に、句の中に折りこまれています。そういえば、食べかけのレモンを聖橋から捨てる、という歌がありました。掲句のすっきりとしたたたずまいにもかかわらず、私の思いはどうしても、そんな湿った情感に向かってしまいます。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


December 02122007

 床に児の片手袋や終電車

                           小沢昭一

業柄、決算期には仕事を終えるのが夜遅くなり、渋谷駅で東横線の終電車に飛び乗ることも少なくはありません。朝の通勤ラッシュには及ばないまでも、終電車というのはかなりの混みようです。それも仕事帰りの勤め人だけではなく、飲み屋から流れてきた男女も多く、車内はがやがやとうるさく、本を読むこともままなりません。それでもいくつかの大きな乗換駅を過ぎるころには、車内の混雑もそれほどではなくなってきます。それまで、大きな体のサラリーマンの背中に押し付けられていた顔も、普通の位置に戻ることができました。前の席が空いて、ああ極楽極楽と座った目の先に、小さなかわいらしい手袋が落ちています。そういえばあの混雑の中に、子供を抱いた女性がいたなと、思い出します。もうどこかの駅で降りてしまったもののようです。おそらく、子供だけが、手袋が落ちた瞬間に「あっ」と思ったのでしょう。「おかあさん」と知らせるまもなく、母親は人ごみに押されるままに、電車を下りてしまったのです。終電車という熱気のなかの雰囲気、抱かれた子供の、落ちてゆく手袋への視線、子供を抱きかかえて乗り物に乗ることの不自由さ、などなど、さまざまな思いがない交ぜになって、この句は感慨深いものを、わたしに与えてくれます。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


December 09122007

 右ブーツ左ブーツにもたれをり

                           辻 桃子

語はもちろんブーツ。なにしろこの句にはブーツしか描かれていません。その単純明快さが、読んでいて頭の中をすっと気持ちよくしてくれます。我が家も私以外は女性ばかりなので、冬になるとよく、このような光景を目にします。ただでさえ狭いマンションの玄関の中に、所狭しと何足ものブーツがあっちに折れ曲がったりこっちに折れ曲がったりしています。そのあいだの狭いスペースを探して、わたしは毎夜靴を脱ぐ羽目になります。たかが玄関のスペースのことですが、どこか家の力関係を表しているようで、あまり気持ちのいいものではありません。最近はブーツを立てておくための道具も(かわいい動物の絵などが描かれているのです)できているようで、この折れ曲がりは、我が家では見ることがなくなりました。右ブーツが左ブーツにもたれているといっています。「折れ曲がる」でもなく「倒れる」でもなく「もたれる」ということによって、どこか人に擬しているように読めます。ブーツそのものが、そのまま女性を連想させ、そこから何か物語めいた想像をめぐらすことも可能です。しかしここは、単にブーツがブーツにもたれているという単純で、それだけにユーモラスな様子を頭に思い浮かべるだけでよいのかなと、思います。それでちょっと幸せで、あたたかな気持ちになれるのなら。『微苦笑俳句コレクション』(1994・実業之日本社)所載。(松下育男)


December 16122007

 さう言へばこけしに耳のない寒さ

                           久保枝月

う言えば、(と、わたしも同じようにはじめさせてもらいます)わたしが子供のころには、畳の部屋によく、飾り棚が置いてありました。今のように部屋にゆったりとしたソファーが置いてあったり、あざやかな柄のカーテンがついていたりということなど、なかった時代です。飾り棚と言っても、作りはいたって簡単で、ガラス扉の向こうには、たいていいくつかのこけしが、そっと置いてあるだけでした。来る日も来る日も同じガラスの向こうに、同じこけしの姿を見ている。それがわたしの子供のころの、変化のない日常でした。思えば最近は、こけしを目にすることなどめったにありません。ああそうか、こけしには耳がなかったんだと、あらためて作者は思ったのです。作者が「寒さ」を感じたのは、「こけし」であり、「耳」であり、「ないこと」であったようです。そしてその感覚は、自分自身にも向けられていたのかもしれません。耳という部位を通して、こけしであることと、ひとであることを、静かに比べているのです。「さう言へば」という何気ない句のはじまり方が、どこか耳のないこけしに、語りかけてでもいるように読めます。『微苦笑俳句コレクション』(1994・実業之日本社)所載。(松下育男)


December 23122007

 短日や電車の中を人歩く

                           河合すすむ

つか新聞で読んだのですが、「冬の鬱」という病気があるそうです。眠気がひどく、食欲が増すということで、普通の鬱とは違うのだと書いてありました。日が短くなるのが原因なのだそうです。個人的な事情や悩みからではなく、季節がもたらすこのような病に、しらずしらず私たちは抵抗していたのかと、思ったものです。クリスマス、大晦日、正月と、この時期に賑わしく人々が集おうとするのも、心を明るい方向へ向かわせたいというけなげな願いからきているのかもしれません。さて、本日の句です。季語はまさに「短日」。たしかにこのごろは、私の働くオフィスの大きなガラス窓も、午後も4時半を過ぎれば早々と暗くなり始めます。これほどの日の長さかと、仕事に疲れた顔を窓に向けては、時の過ぎるのを惜しく思います。句の中の人は、電車に乗っていてさえ、かぎりある「時」を大切に使おうとしているようです。電車の中を歩いているのは、到着駅で降りる場所を、少しでも改札の近くへ持って行きたかったからなのでしょうか。あるいは、なにか気にかかることでもあって、移動する車両の中でさえ、いてもたってもいられなかったのでしょうか。どのような理由であれその歩みは、過ぎ去る「時」を追いかけているように、思われます。『観賞歳時記 冬』(1995・角川書店)所載。(松下育男)


December 30122007

 改札に人なくひらく冬の海

                           能村登四郎

つて、混雑した改札口で切符の代わりに指を切られたという詩を書いた人がいました。しかし、自動改札が普及した昨今では、もうそのような光景を見ることはありません。掲句、改札は改札ですが、描かれているのは、都会の駅とはだいぶ趣が異なっています。側面からまっすぐに風景を見渡しています。冬の冷たい風が吹き、空一面を覆う厚い雲が、小さな駅舎を上から押さつけているようです。句が、一枚の絵のようにわたしの前に置かれています。見事な描写です。北国のローカル線の、急行の停まらない駅でしょうか。それほどに長くはないホームには、柱に支えられた屋根があるのみで、海への視界をさえぎるものは他にありません。改札口には、列車が来る寸前まで駅員の姿も、乗客の姿も見えません。改札を通るのは、人々の姿ではなく、ひたすらに風だけのようです。冬の冷たさとともに、すがすがしい広さを感じることができるのは、「ひらく」の一語が句の中へ、大きな空間を取り込んでいるからなのでしょう。『現代俳句の世界』(1998・集英社)所載。(松下育男)




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