Nq句

July 0272007

 娘が炊きし味は婚家の筍飯

                           矢崎康子

語は「筍飯」で夏。といっても、もう時期的には遅いかな。筍飯にする孟宗のそれは五月ごろが旬だから。さて、掲句、類句や似た発想の句は山ほどありそうだ。「筍飯」を「豆ご飯」や「栗ご飯」と入れ替えても、句は成立する。が、作者はそんなことを気にする必要はない。また読者も、そうした理由によってこの句をおとしめてはならない。そんなことは些細なことだ。人のオリジナリティなどは知れているし、ましてや短い詩型の俳句においては、類想をこわがっていては何も詠めないことになってしまう。思ったように、自由気ままに詠むのがいちばんである。母の日あたりの句だろうか。久しぶりに婚家から戻ってきた娘が、台所に立ってくれた。筍飯は、母である作者の好物なのだろう。だから嫁入り前の娘にも、味付けの仕方はしっかりと仕込んであったはずだ。が、娘がつくってくれたご飯の味は、作者流のそれとは違っていたというのである。明らかに、嫁ぎ先で習ったのであろう味に変わっていた。そのことによる母としての一抹の寂しさと、娘が親離れして大人になったこととのまぶしさの間の、瞬時の心の行き交いが、この句の「味」の全てである。味の違いに気づかぬふりをして、きれいに食べている母親の優しさよ。俳誌「日矢」(2007年7月号)所載。(清水哲男)




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