Nj句

July 0272007

 娘が炊きし味は婚家の筍飯

                           矢崎康子

語は「筍飯」で夏。といっても、もう時期的には遅いかな。筍飯にする孟宗のそれは五月ごろが旬だから。さて、掲句、類句や似た発想の句は山ほどありそうだ。「筍飯」を「豆ご飯」や「栗ご飯」と入れ替えても、句は成立する。が、作者はそんなことを気にする必要はない。また読者も、そうした理由によってこの句をおとしめてはならない。そんなことは些細なことだ。人のオリジナリティなどは知れているし、ましてや短い詩型の俳句においては、類想をこわがっていては何も詠めないことになってしまう。思ったように、自由気ままに詠むのがいちばんである。母の日あたりの句だろうか。久しぶりに婚家から戻ってきた娘が、台所に立ってくれた。筍飯は、母である作者の好物なのだろう。だから嫁入り前の娘にも、味付けの仕方はしっかりと仕込んであったはずだ。が、娘がつくってくれたご飯の味は、作者流のそれとは違っていたというのである。明らかに、嫁ぎ先で習ったのであろう味に変わっていた。そのことによる母としての一抹の寂しさと、娘が親離れして大人になったこととのまぶしさの間の、瞬時の心の行き交いが、この句の「味」の全てである。味の違いに気づかぬふりをして、きれいに食べている母親の優しさよ。俳誌「日矢」(2007年7月号)所載。(清水哲男)


July 0972007

 箸とどかざり瓶底のらつきように

                           大野朱香

語は「らつきよう(らっきょう・辣韮)」で夏。ちょうど今頃が収穫期だ。らっきょうに限らず、瓶詰めのものを食べていると、こういうことがよく起きる。最後の二個か三個。箸をのばしても届かない。で、ちょっと振ったりしてみるのだが、底にへばりついていて離れてくれない。食べたいものがすぐそこにあるのに、取ることができない事態には、かなり苛々させられる。心当たりがあるだけに、この句には誰でもがくすりとさせられてしまうだろう。何の変哲もない「そのまんま」の出来事を詠んでいるだけなのだけれど、何故か可笑しい。こういうことを句にしてしまう作者の目の付け所自体が、ほほ笑ましいと言うべきか。大野朱香の既刊句集について、この句が収められた新刊句集の栞で小沢信男が書いている。「無造作に読めて、気楽にたのしい。しかも存外な魅力を秘め、いや、秘めてなぞいないのがチャーミングなのですよ」。この言い方は、掲句にもぴったりと当てはまる。言い換えれば、作者の感受性は、素のままで常に俳句の魅力を引き出す方向に働くということなのだろう。「節穴をのぞけば白き花吹雪」、「へたりをる枕に月の光かな」。小沢信男は「なにやら不穏な大野朱香の行く手に、たのしき冒険あれ!」と、栞を結んでいる。『一雫』(2007)所収。(清水哲男)


July 1672007

 三伏や弱火を知らぬ中華鍋

                           鷹羽狩行

語は「三伏(さんぷく)」で夏。しからば「三伏」とは何ぞや。と聞くと、陰陽五行説なんぞが出てきて、ややこしいことになる。簡単に言えば、夏至の後の第三の庚(かのえ)の日を「初伏」、第四のその日を「中伏」、立秋後の第一の庚の日を「末伏」として、あわせて三伏というわけだ。「伏」は夏(火)の勢いが秋(金)の気を伏する(押さえ込む)の意。今年は、それぞれ7月15日、7月25日、8月14日にあたる。要するに、一年中でいちばん暑いころのことで、昔は暑中見舞いの挨拶を「三伏の候」ではじめる人も多かった。そんな酷暑の候に暑さも暑し、いや熱さも熱し、年中強火にさらされている中華鍋(金)をどすんと置いてみせたところが掲句のミソだ。弱火を知らぬ鍋を伏するほどの暑さというのだから、想像するだけでたまらないけれど、たまらないだけに、句のイメージは一瞬にして脳裡に焼き付いてしまう。しかもこの句の良いところは、「熱には熱を」「火には火を」などと言うと、往々にして教訓めいた中身に流れやすいのだが、それがまったく無い点だ。見事にあつけらかんとしていて、それだけになんとも言えない可笑しみがある。その可笑しみが、「暑い暑い」と甲斐なき不平たらたらの私たちにも伝染して、読者自身もただ力なく笑うしかないことをしぶしぶ引き受けるのである。こうした諧謔の巧みさにおいて、作者は当今随一の技あり俳人だと思う。『十五峯』(2007)。(清水哲男)


July 2372007

 割り算の余りの始末きうりもみ

                           上野遊馬

でもそうだろうが、苦手な言葉というものがある。私の場合は、掲句の「始末」がそうである。辞書で調べると、おおまかに四つの意味があって、次のようだ。(1)(物事の)しめくくりを付けること。「―を付ける」(2)倹約すること。「―して使う」(3)結果。主として悪い状態についていう。「この―です」(4)事の始めから終わりまで。……ところが私には、どうも(2)の意味がしっくり来ない。そのような意味で使う地方や環境にいなかったせいだと思う。小説などに出てくると、しばしば意味がわからずうろたえてしまう。この句の「始末」も(2)の意味なのだろう。が、一読、やはり一瞬うろたえた後で、やっと気がつき、はははと笑うような「始末」であった。要するに「きうりもみ」は、「割り算の余り」の部分を「倹約」したような料理だということのようだ。どうしても割り切れずに余った部分は、紙の上の割り算であれば放置することも可能だけれど、それでもそれこそ割り切れない思いは残るものである。ましてや、現実の食べ物であるキュウリにおいておや。ならば、他の料理の使い余しのキュウリは、「始末」良く「きうりもみ」にして食べてしまおう。そう思い決めて、せっせと揉んでいるところなのである。「(胡)瓜揉み」なる夏の季語があるほどに、昔は一般的な料理だったが、いまの家庭ではどうなのだろうか。あまり作らないような気もするが、むろんこれは掲句と関係のない別の問題だ。俳誌「翔臨」(第59号・2007年6月)所載。(清水哲男)


July 3072007

 遣り過す土用鰻といふものも

                           石塚友二

日は「土用丑の日」、鰻の受難日である。街を歩いていると、どこからともなく鰻を焼く美味しそうな匂いが漂ってくる。そういえば今日は「土用丑の日」だったと気づかされ、さてどうしようかと一瞬考えたけれど、やっぱり止めておこうと作者は思ったのである。土用鰻の風習をばかばかしいと思っているわけでもなく、べつに鰻が嫌いなわけでもない。できれば「家長われ土用鰻の折提げて」(山崎ひさを)のように折詰にしてもらって買って帰りたいところだが、手元不如意でどうにもならない。その不如意ぶりが「土用鰻『といふもの』」と突き放した言い方によく表われている。止めの「も」では、さらに土用鰻ばかりではなく、他の「もの」も遣り過して暮すしかない事情を問わず語り的に物語らせている。鰻の天然ものがまだ主流だったころの戦後の句だろう。普段でも高価なのに、丑の日ともなればおいそれと庶民の財布でどうにかなる代物ではなかったはずだ。スーパーマーケットなどで、外国の養殖ものが比較的安価で手に入るいまとは大いに違っていた。そんな作者にも、こういう丑の日もあった。掲句を知ってから読むと、なんとなくほっとさせられる。「ひと切れの鰻啖へり土用丑」。『合本・俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


August 0682007

 子の墓へうちの桔梗を、少し買いそえて持つ

                           松尾あつゆき

日広島忌。松尾あつゆき(荻原井泉水門)は三日後の長崎で被爆し、三人の子供と妻を失った。「すべなし地に置けば子にむらがる蝿」「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」。掲句は被爆後二十二年の夏に詠まれた。作者の置かれた状況を知らなくても、「少し買いそえて」の措辞から、死んだ子に対する優しくも哀切な心情がよく伝わってくる。この無残なる逆縁句を前にして、なお「しょうがない」などと言える人間がいるであろうか。「老いを迎えることのできなかった人びとの墓前に佇む時、老年期を持てることは一つの『特権』なのだ、という思いに強くとらわれる」(「俳句界」2007年8月号)と、私と同年の天野正子は書く。老いが「自明の過程」のように語られる現在、この言葉の意味は重い。「子の墓、吾子に似た子が蝉とっている」。掲句と同時期に詠まれた句だ。生きていれば三人ともに二十代の大人になっているはずだが、死者はいつまでも幼くあるのであり、そのことが作者はもとより読者の胸を深くゆさぶってくる。今朝は黙祷をしてから、いつもより少し遅いバスに乗って出かける。『原爆句抄』(1975)所収。(清水哲男)


August 1382007

 涼み台孫ほどの子と飛角落

                           辻田克巳

台将棋を楽しむ人の姿を見かけなくなった。どころか、日常会話で将棋の話が出ることも珍しい。漫画のおかげでひところ囲碁がブームになったけれど、その後はどうなっているのだろう。いまや遊び事には事欠かない世の中なので、面倒な勝負事を敬遠する人が増えてきたということか。将棋や囲碁の魅力の一つは、掲句のように世代を越えて一緒に遊べることだ。私も小学生のころには、近所の若い衆やおじさんなどとよく指した。指しながらの会話で、大人の世界を垣間見られるのも楽しかった。私は弱かったが、同級生にはなかなか強いのがいた。大人と対戦しても、たぶん一度も負けたことはなかったはずだ。あまりに実力が違うと、句のように、飛車や角行を落としてハンデをつけてもらう。作者は孫ほどの年齢の子にとても歯が立たないので、飛車も角行も落としてもらって対戦している。これは相当なハンデでですが、それでも形勢不利のようですね。こういうときに大人としては口惜しさもあるけれど、私にも覚えがあるが、指しているうちに相手に畏敬の念すら湧いてくることがある。確かに人間には、こちらがいくら力んでもかなわない「天賦の才」というものがあるのだと実感させられる。おそらくは作者にもそうした思いがあって、むしろ劣勢を心地よく受け止めているのではなかろうか。句から、涼しい風が吹いてくる。『ナルキソス』(2007)所収。(清水哲男)


August 2082007

 輪ゴム一山八月の校長室

                           横山香代子

者は教師だったから、このとき何かの用事で校長室に入ったのだろう。「八月」なので夏休み中であり、校長室の主は不在だ。その昔、私が中学生だった頃に一度か二度、校長室なる厳めしそうな部屋に呼ばれて入ったことがあるけれど、壁にかけられていた歴代校長の肖像写真(画)を除いては、何があったのかは覚えていない。緊張していたせいもあるのだろうが、校長室なんて部屋にはもともと特殊なものは置かれていないのが普通のようだ。職員室のような雑然とした趣はない。もちろん生徒の目と教師の目とでは、同じ校長室に入ったとしても見るところは異なるはずだが、掲句の「輪ゴム一山」となれば、誰だって不思議に思う。なぜ、校長の机の上に輪ゴムが、それも一山も置いてあるのだろうか。謎めいて写る。でも、この句はそうした謎に焦点を当てているわけではない。そうではなくて、夏休み中の学校全体の雰囲気を、校長室の輪ゴムの山からいわばパラフレーズしてみせているのだ。日常とは切れている時空間のありよう……。たまに会社に休日出勤しても、これに類したことを体験することがある。『人』(2007)所収。(清水哲男)


August 2782007

 何の包みか母の外出曼珠沙華

                           窪川寿子

とさらに「母の外出」と書くくらいだから、彼女はめったに外出しないのだろう。もはや相当な高齢の故なのかもしれない。その母が珍しく外出することになり、しかも大きな風呂敷「包み」を手にしている。普段であれば「お母さん、それなあに」くらいのことは、気の置けない母娘なのだし気軽に聞いてしまうはずなのだが、このときに限っては聞くのがなんとなく憚られた。家族同士ではあっても、相手の常ならぬ気配を察して、こういうことはまま起きるものだ。むろん、母親の外出先も聞けなかったはずである。そうはいっても、そんなに深刻に母親のことを心配しているわけでもない。包みの中身がちょっと気掛かりなために、作者は母を見送る姿勢のまま、何だろうなあとぼんやり心当たりを考えている。気がつけば、その母が遠ざかっていく道のあちこちには、いつの間にか「曼珠沙華」がぽつりぽつりと咲いているのであった。暑い暑いと言っている間に、もう自然は秋の装いを整えはじめていたのだ。作者はここでふっと普段通りの自分に立ち戻り、さながら人生の秋を行くような母の小さな後ろ姿に「気をつけてね」と微笑したのだったろう。小さな詩型が書かしめた小さなドラマだ。『甲斐恋』(2007)所収。(清水哲男)


September 0392007

 颱風のしんがりにして竿竹屋

                           青木恵美子

近は夏でもやってくるが、「颱風(台風)」は秋の季語だ。ちょうどいま今年の9号が、はるか太平洋沖を西南西に向かって進んでいる。掲句は上陸した台風が思う存分荒れ狂って去っていった後の情景。ともに強かった風雨がぴたりと止んで、にわかに嘘のように日も射してきた。窓を開けて表を見ると、まだ木々からはぼたぼたと水滴が落ちており、あたりには吹き飛ばされた植木鉢やゴミ屑などが散乱している。やれやれ後片づけが大変だなと思っていると、どこからともなく竿竹屋の売り声が流れてきた。まるで颱風など来なかったかのような、のんびりとした売り声だ。ほっとさせられるようなその声に、思わずも作者は微笑したのであろうが、しかし身に付いた俳句的な物の見方が微笑を微笑のままでは終わらせなかった。すなわち、竿竹屋もまた颱風のウチと捉えたのである。竿竹屋は颱風で傷んだ竿竹などの買い替え需要を狙っているのだからして、やはりこれは颱風とは切り離せないと思ったのだ。「しんがり」が、実に良く作者の心持ちを表している。俳句的滑稽味に溢れ、しかも人情のありどころを的確に述べた秀句である。『玩具』(2007)所収。(清水哲男)


September 1092007

 秋草の押し花遺りて妻の忌や

                           伊藤信吉

者は詩人として著名だった。父親(美太郎)が俳句を趣味としていたので、作句はその遠い影響だろうか。あるいは師であった萩原朔太郎や室生犀星の影響かもしれない。亡くなる前年には、地元(群馬県)の俳誌「鬣TATEGAMI」にも同人参加している。信吉はこの頃になって弟の秀久と相談し、父親と息子二人の合同句集の発刊を計画したのだったが、制作半ばで他界した。九十五歳(2002年8月3日)。掲句は妻を亡くして、だいぶ経ってからの作だろう。いわゆる遺品などはすっかり片づけられており、妻を偲ぶよすがになる具体物はないはずだったのだが、ある日古い本のページの間からだろうか、ひょっこり故人の作った「押し花」が出てきた。こういうものは、遺品のたぐいとは違って、なかなかに整理しづらい。立派に故人の制作物だからである。以後、作者は大切に保管し、妻の命日がめぐってくるたびに飽かず眺め入ったのだろう。上手な句とは言えないけれど、第三者から見れば何の変哲もない一葉の押し花に見入る老人の姿に、名状し難い切なさを感じる。あえて下五に置かれた「妻の忌や」の「や」に万感の情がこめられている。伊藤秀久編『三人句集』(2003・私家版)所載。(清水哲男)


September 1792007

 毎日が老人の日の飯こぼす

                           清水基吉

日「敬老の日」は、かつては「老人の日」と言った。この句は、その当時の作句だろう。その前は「としよりの日」だった。年月が経つうちに、だんだん慇懃無礼な呼び方に変わってきたわけだ。それはそのまま、国家の老人政策のありように対応している。いいじゃないか、「こどもの日」があるんだから「としよりの日」だって。でも、そのうちに「こどもの日」も改称されて、「こどもを大事にする日」「こどもを愛する日」なんてことになるかもしれない。最近の世情からすると、これもまんざら冗談とは言い切れまい。歳をとるといろいろな場面で、こんなはずではなかったがという失敗をやらかすようになる。飯をこぼすのもその一つで、私もときどき娘から叱られている。何故、こぼすのか。よくわからないけれど、幼児がこぼす原因とは根本的に違うようだという感じはある。幼児は経験不足からこぼすのであり、老人はたぶん経験に追いつかない身体機能の低下のせいで齟齬を来すのだ。おまけに、そのことを意識するから、かえって失敗が多くなる。無意識では満足に飯も口に運べなくなるのが、老人である。今日はそういう人たちを大事にするようにと、国家が定めた日だ。こんな祝日は、海外にはないそうだ。「毎日が老人の日」である作者にとっては、自嘲的にならざるを得ないのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 2492007

 それとなく来る鶺鴒の色が嫌

                           宇多喜代子

句の技法用語では何と言うのか知らないが、たまにこういう仕掛けの句を見かける。まず「それとなく来る」のは「鶺鴒(せきれい)」だ。読者は「そう言えば鶺鴒は『それとなく』来る鳥だな」とすぐに合点して、それこそ「それとなく」次なる展開を待つ。で、「鶺鴒の色」と来ているから、ここでおそらくは読者の十人が十人ともに、この句の行方がわかったような気にさせられてしまう。鶺鴒には「石叩き」の異名もあるように、尾の振り方に特長があり、俳句でも尾の動きを詠んだ句が多いのだが、作者はあえてそれを避け、「色」の美しさや魅力を言うのだろうと思ってしまうのだ。ところが、あにはからんや、作者はその「色が嫌(いや)」とにべもないのだった。すらすらっと読者を引き込んできて、さいごにぽんとウッチャリをくらわせている。つまり、読者の予定調和感覚に一矢報いたというわけだ。世のつまらない句の大半は、季語などを予定調和的にしか使わないからなのであって、そういう観点からすると、掲句はそうした流れに反発した句、凡句作者・読者批判の一句とも言えるだろう。よく言われることだが、日本語には最後まで注意を払っていないと、とんでもない誤解をすることにもなりかねない。俳句も、もちろん日本語だ。ただそれにしても、鶺鴒の色が嫌いな人をはじめて知った。勉強になった(笑)。「俳句」(2007年10月号)所載。(清水哲男)


October 01102007

 秋灯目だけであくびしてをりぬ

                           田中久美子

わず、笑わされてしまった。ありますねえ、こういうことって……。この句の主体は作者だろうか、それとも他者だろうか。どちらでも良いとは思うけれど、後者のほうがより印象的になる。他者といっても、もちろん家族ではないだろう。多少とも、他人に気を使わなければならない場所での目撃句だ。たとえば会社での残業だとか、夜の集会だとか、そういったシチュエーションが考えられる。懸命に眠さをこらえている様子の人がいて、気になってそれとなく見やると、欠伸の出そうな口元のあたりをとんとんと軽く叩きながらも、しかし「目」は完全に欠伸をしてしまっていると言うのである。涼しい秋の夜の燈火は、人の目を冴えさせるというイメージが濃いのだが、それだけに、逆にこの句は説得力を持つ。「秋灯(あきともし)」といういささかとり澄ましたような季語に、遠慮なく眠さを持ってきた作者の感性は鋭くもユニークだ。かつて自由詩を書いていた田中久美子が、このような佳句をいくつも引っさげて戻ってきたことを、素直に喜びたい。そのいくつか。〈夢ばかり見てゐる初夢もなく〉〈一筆のピカソ一生涯の蜷〉〈太テエ女ト言ハレタ書イタ一葉忌〉『風を迎へに』(2007)所収。(清水哲男)


October 08102007

 流星やいのちはいのち生みつづけ

                           矢島渚男

語は「流星(りゅうせい)」で秋。流れ星のこと。流星は宇宙の塵だ。それが何十年何百年、それ以上もの長い間、暗い宇宙を漂ってきて地球の大気圏に入ったときに、燃えて発光する。そして、たちまち燃え尽きてしまう。この最期に発光するという現象をとらまえて、古来から数えきれないほどの詩歌の題材になってきたわけだが、その多くは、最後の光りを感傷することでポエジーを成立させてきた。たとえば俳句では「死がちかし星をくぐりて星流る」(山口誓子)だとか「流れ星悲しと言ひし女かな」(高浜虚子)だとかと……。しかし、この句は逆だ。写生句だとするならば、作者が仰いでいる空には、次から次へと流星が現れていたのかもしれない。最期に光りを放ってあえなく消えてゆく姿よりも、すぐさま出現してくる次の星屑のほうに心が向いている。流星という天体現象は、生きとし生けるもののいわば生死のありようの可視化ともいえ、それを見て生者必滅と感じるか、あるいは生けるものの逞しさと取るのか。どちらでももとより自由ではあるが、あえて後者の立場で作句した矢島渚男の姿勢に、私などは救われる。みずからの遠くない消滅を越えて、類としての人間は「いのち」を生みつづけてゆくであろう。このときに、卑小な私に拘泥することはほとんど無意味なのではないか。そんなふうに、私には感じられた。うっかりすると見逃してしまいそうな句だが、掲句はとても大きいことを言っている。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)


October 15102007

 穴惑顧みすれば居ずなんぬ

                           阿波野青畝

語は「穴惑(あなまどい)」で秋、「蛇穴に入る」に分類。そろそろ蛇は冬眠のために、その間の巣となる穴を見つけはじめる。しかし「穴惑」は、晩秋になっても入るべき穴を見つけられず、もたもたしている蛇のことだ。山道か野原を歩いていて、作者はそんな蛇を見かけたのだろう。もうすぐ寒くなるというのに、なんてのろまな奴なんだろうと思った。でも、そんなに気にもとめずにその場を通り過ぎた作者は、しばらく行くうちに、何故かそいつのことが心に引っかかってきてしまい、どうしたかなと振り返って見てみたら、もう影もかたちもなかったと言うのである。このときに「顧みすれば」という措辞が、いかにも大袈裟で可笑しい。柿本人麻呂の「東の野にかぎろひの立つみえてかへりみすれば月かたぶきぬ」でどなたもご存知のように、この言葉はただ単に振り返って見るのではなく、その行為には精神の荘重感が伴っている。蛇には申し訳ないけれど、たかが蛇一匹を振り返って見るようなときにはふさわしくない。そこをあえて「顧みすれば」と大仰に詠むことによって、間抜けでどじな蛇のありようを暗にクローズアップしてみせたのだ。いかにもこの作者らしい、とぼけた味のある句である。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


October 22102007

 淋しき日こぼれ松葉に火を放つ

                           清水径子

語はそれとはっきり書かれてはいないが、状況は「落葉焚き」だから「落葉」に分類しておく。となれば季節は冬季になってしまうけれど、この場合の作者の胸の内には「秋思」に近い寂寥感があるようなので、晩秋あたりと解するのが妥当だろう。ひんやりとした秋の外気に、故無き淋しさを覚えている作者は、日暮れ時にこぼれた松の葉を集めてきて火を放った。火は人の心を高ぶらせもするが、逆に沈静化させる働きもある。パチパチと燃える松葉の小さい炎は、おそらく作者の淋しさを、いわば甘美に増幅したのではあるまいか。この句には、下敷きがある。佐藤春夫の詩「海辺の恋」がそれだ。「こぼれ松葉をかきあつめ/をとめのごとき君なりき、/こぼれ松葉に火をはなち/わらべのごときわれなりき」。成就しない恋のはかなさを歌ったこの詩の終連は、「入り日のなかに立つけぶり/ありやなしやとただほのか、/海べのこひのはかなさは/こぼれ松葉の火なりけむ」と、まことにセンチメンタルで美しい。たまにはこの詩や句のように、感傷の海にどっぷりと心を浸してみることも精神衛生的には必要だろう。『清水径子全句集』(2005・らんの会)所収。(清水哲男)


October 29102007

 稲無限不意に涙の堰を切る

                           渡辺白泉

の句について福田甲子雄は「昭和三十年の作であることを考えて観賞しなければならないだろう」と、書いている。そのとおりだとは思うが、しかし福田が言うような「食糧事情の悪さ」が色濃く背景にあるとは思わない。「稲無限」はどこまでも連なる実った稲田を指しており、そのことが作者に与えたのは、豊饒なる平和感覚だったのではなかろうか。戦前には京大俳句事件に関わるなど、作者は大きな時代の流れに翻弄され、またそのことを人一倍自覚していたがゆえに、若い頃からの生活は常にある種の緊張感を伴わざるを得なかったのだろう。それが戦後もようやく十年が経ち、だんだんと世の中が落ち着きはじめたころ、作者にもようやく外界に対する身構えの姿勢が溶けはじめていたのだと思われる。そんな折り、豊かに実った広大な稲田は、すなわち平和であることの具体的な展開図として作者には写り、そこで一挙にそれまでの緊張の糸が切れたようになってしまった。この不意の「涙」の意味は、そういうことなのではあるまいか。ここで作者は過去の辛さを思い出して泣いたというよりも、これは思いがけない眼前の幸福なイメージに愕然として溢れた涙なのだと私には感じられる。長年の肩の力が一挙にすうっと抜けていくというか、張りつづけてきた神経の関節が外れたというか……。。そんなときにも、人は滂沱の涙を流すのである。福田甲子雄『忘れられない名句』(2004)所載。(清水哲男)


November 05112007

 影待や菊の香のする豆腐串

                           松尾芭蕉

蕉の句集を拾い読みしているうちに、「おっ、美味そうだなあ」と目に止めた句だ。前書に「岱水(たいすい)亭にて」とある。岱水は蕉門の一人で、芭蕉庵の近くに住んでいたようだ。「影待(かげまち)」とは聞きなれない言葉だが、旧暦の正月、五月、そして九月に行われていた行事のことである。それぞれの月の吉日に、徹夜をして朝日の上がるのを待つ行事だった。その待ち方にもいろいろあって、信心深い人は坊さんを呼んでお経をあげてもらうなどしていたそうだが、多くは眠気覚ましのために人を集めて宴会をやっていたらしい。西鶴の、あの何ともやりきれない「おさん茂兵衛」の悲劇の発端にも、この影待(徹夜の宴会)がからんでいる。岱水に招かれた芭蕉は、串豆腐をご馳走になっている。電気のない頃のことだから、薄暗い燈火の下で豆腐の白さは際立ち、折りから菊の盛りで、闇夜からの花の香りも昼間よりいっそう馥郁たるものがあったろう。影待に対する本来の気持ちそのままに、食べ物もまた清浄な雰囲気を醸し出していたというわけである。その情況を一息に「串」が「香」っていると言い止めたところが、絶妙だ。俳句ならでは、そして芭蕉ならではの表現法だと言うしかないだろう。それにしても、この豆腐、美味そうですねえ。『芭蕉俳句集』(1970・岩波文庫)所収。(清水哲男)


November 12112007

 忘られし田河水泡いくたび冬

                           小林洸人

者は大正九年生まれだから、昭和六年から「少年倶楽部」に連載された田河水泡の漫画「のらくろ」にはリアルタイムで出会っていることになる。まさに熱狂的に受け入れられた漫画だったと聞くが、昭和十三年生まれの私の子供時代にも多少はその残響のようなものが感じられた。今日でも「のらくろ」のキャラクターを知る人は少なくないと思うが、その作者名は句の言うようにほとんど忘れられてしまっていると言ってよいだろう。冗談ではなく、掲句を読んで「田河水泡」を人の名前ではなく、自然の一部だと受け止める人もいるはずだ。すなわち、失われた自然を詠んだ句だと……。いかに一世を風靡した人の名前だとはいっても、よほどの名前でないかぎり、やがては忘れられてしまうのが運命だ。そのことに作者は、「のらくろ」を愛読した自分の少年期の日々が重なり、もろともに忘れられたという喪失感を味わっているようである。「冬いくたび」は、水泡の命日(1989年12月12日)が冬だったので、とりわけ冬になるとそのことを思い出すというのであろう。水泡ばかりではなく、いまや「冒険ダン吉」の島田啓三や「タンク・タンクロー」の坂本牙城も忘れられ、ずっと新しい「赤胴鈴之助」の武内つなよしですらあやしいものだ。それが世の常であるとしても、なんだか口惜しい。『塔』(2007)所収。(清水哲男)


November 19112007

 ふたりから離れ毛糸を編みはじむ

                           恒藤滋生

っかり見過ごしてしまいそうな句だが、なかなか面白いなと立ち止まらされてしまった。表面的な情景としては何の変哲もないのだけれど、しかしそれは不思議な心理的空間と重なっている。この不思議は、主として「ふたり」という曖昧な表現に起因するのだろう。読者には「ふたり」がどんな人たちなのか、男なのか女なのか、はたまた老若いずれなのかなども一切わからない。もちろん、関係も不明だ。つまりそれらのことを、作者は急に毛糸を編みはじめた人を通して垣間見せているわけで、この毛糸編む人の心理の忖度のしようによって、「ふたり」は何通りにも解釈できることになる。そこが掲句の不思議な味を醸し出している。毛糸を編むという行為は自分の殻に閉じこもるそれでもあるので、「ふたり」を離れた気持ちもわかるような気はするが、気がするだけで、そう簡単に結論が下せるものでもない。単に、編み上げる時間が迫っているだけかもしれないからだ。いずれにしても、この「ふたり」の存在があって、この句は奇妙な味を得ることになった。こんな「毛糸編む」(冬の季語)の句は、はじめてである。俳誌「やまぐに」(第11号・2007年11月発行)所載。(清水哲男)


November 26112007

 ターザンに使われぬまま枯かずら

                           五味 靖

などの世代にとって戦後最初のヒーローといえば、間違いなく、映画の「ターザン」だったろう。私は学校の巡回映画で見た。アフリカの未開の地で類猿人に育てられた彼は、実は英国貴族の末裔という設定だ。彼は人間の言葉がしゃべれない。猛獣との闘いのときなどに「アーーアアァ」という雄叫びをあげるくらいで、あとは人間には意味不明の「言語」を発するのみである。ジャングルを移動するのに、ターザンはいたるところにぶら下がっている植物の蔓を利用して、木から木へと猛スピードで飛び移ってゆく。まことに格好がよろしい。全国の子供たちが、それを真似て遊んだものだった。ターザンのように高いところまでは飛べないけれど、それでも私たちは必死に蔓にしがみつき、「アーーアアァ」と叫びながらわずかな距離を飛んだだけで、すっかりターザン気分になれたのである。敗戦後の何もない時代、それ以上に何もなく裸で活躍するターザンに、私たちがあこがれたのは当然だったと思う。掲句の「ターザン」は、だからワイズミュラーの演じた映画のターザンではなく、その頃の男の子たちを指している。そしていま、往年のターザン「たち」はみな、とっくに還暦を過ぎてしまった。もはや蔓につかまり雄叫びをあげる者などはいなくなり、「かづら」などは誰にも見向きもされないままに枯れてゆくばかり。まさに「昔の光、いまいずこ」ではないか、そんな感慨が読み込まれている句である。「あいずみ文芸」(第二号・2007年10月発行)所載。(清水哲男)


December 03122007

 賀状書きつゞく鼠の尾のみえて

                           井沢唯夫

の秋に、新俳句人連盟から『新俳句人連盟機関誌「俳句人」の六〇年』をいただいた。全792ページという、掌に重い大冊である。連盟60年の歴史的記述や座談会も貴重で興味深く読んだが、なかで圧巻は「俳句人」の毎号の目次がすべて往時のままに図版で掲載されている部分だ。創刊号(1946年11月)の目次を見ると、日野草城、西東三鬼、石田波郷、橋本多佳子らが作品を寄せている。その後の連盟の歩みからすると、かなり異質な寄稿者たちとも思えるが、敗戦直後の特殊事情が大いに関係していたのだろう。見ていくとしばらくガリバン刷りの時期もあって、先人の労苦がしのばれる。ところで掲句だが、1979年5月号の目次欄に掲載されていた。したがって作句は前年末と推定されるが、ぱっと目に留まったのは、もちろん来年が鼠の年(子年)だからだ。あと半月もすると、多くの人たちがプリントされた「鼠(の尾)」の絵に半ばうんざりしながら賀状書きに励むことになる。何の疑いもなく、私はそのように微笑しつつ読み、しかし念の為にと調べてみたら、1979年は未年であり、作者の書いている賀状に鼠の絵などはあり得ないことがわかった。つまり、作者が詠んだのは本物の鼠(の尾)だったというわけだ。わずか三十年ほど前の話である。鼠がこれほどに人の身近にいたとは、とくに若い人には信じられないだろう。もう少しのところで、私はとんでもない誤読をやらかすところだった。今現在のあれこれだけを物差しに、昔の俳句を読むのは危険なのだ。その見本のような句と言うべきか。(清水哲男)


December 10122007

 歳晩の夕餉は醤油色ばかり

                           櫂未知子

はそうでもないかもしれないが、昔の「歳晩(年の暮)」の食卓情景は、たしかにこういう感じだったと懐かしく思い出す。歳晩の主婦は、なにかと新年の用意に忙しく、あまり日々の料理に気を遣ったり時間をかけたりするわけにはいかなかった。必然的に簡単な煮しめ類など「醤油色」のものに依存して、そそくさと夕餉をやり過す(笑)ことになる。煮しめと言ったつて、正月用の念入りな料理とはまた別に、ありあわせの食材で間に合わせたものだ。したがって押し詰まれば押し詰まるほどに、食卓は醤油色になっていき、それもまた年の瀬の風情だと言えば言えないこともない。昔はクリスマスを楽しむ風習もなかったから、師走の二十日も過ぎれば、毎日の夕餉の食卓はかくのごとし。農家だったころの我が家は、晦日近くになると、夕餉の膳には餅が加わり、これまたこんがり焼いて醤油色なのである。食べ物のことだけを言っても、このように歳末の気分を彷彿とさせられるところが、俳句の俳句たる所以と言うべきである。「俳句界」(2007年12月号)所載。(清水哲男)


December 17122007

 クリスマスケーキ買いたし 子は散りぢり

                           伊丹三樹彦

リスマスケーキとは、つまりこういうものである。むろん買って帰ってもよいのだが、老夫婦だけのテーブルに置くのはなんとなく侘びしい。ケーキのデコレーションが華やかなだけに、である。子供たちがまだ小さくて、夫婦も若かった頃には、ケーキを食卓に置いただけで家の中がはなやいだ。目を輝かせて、大喜びする子供たちの笑顔があったからだ。その笑顔が、親にとってはケーキよりももっと美味しいものだったのだ。そんなふうだった子供らも、やがて次々に独立して家を離れていった。詩人の以倉紘平は「どんな家にも盛りの時がある」と書いているが、まことにもってその通りだ。毎年年末には、作者のような思いで、ケーキ売り場を横目に通り過ぎる人は多いだろう。私も既に、その一人に近い。伊丹三樹彦、八十七歳。この淋しさ、如何ともなし難し。もう一句。「子が居る筈 この家あの家の門聖樹」。『知見』(2007)所収。(清水哲男)


December 24122007

 立読みの女が日記買ひにけり

                           長谷川和子

者は書店員なのだろう。そうでなければ、「立読み」が気になるわけがない。句意は明瞭だが、なんとなく可笑しい句だ。店に入ってきてから、「女」は相当に長い時間しつこく立読みしている。店員としては、かなり苛々させられる「客」だ。そんなにその本が読みたければ、買って帰ればよいものを。よほど懐がさびしいのだろうか、それとも……などと気になって、ときどきちらちらと視線を送っている。早く出ていって欲しいな。営業妨害とまでは言えなくとも、とにかく邪魔っけだ。と、なおも苛々が募ってきた矢先のこと、件の女性がぱたっと立読みを止め、日記帳のコーナーからさっと一冊を取り出すや、真っすぐにレジに向かって買って行ってしまったと言うのである。おそらく、安くはない一冊だったのだろう。作者はそんな彼女の後ろ姿に、口あんぐり。ほっとしたような、してやられたような、なんとも言えない妙な気分がしたはずである。小さな職場での小さな出来事にしかすぎないけれど、大袈裟に言えば、この句は人間という生き物のわかりにくさを実に的確にスケッチしている。まことに、人は見かけによらないのである。ところで、日記帳は多くこのように書店で売られているが、果たして日記帳は「本」なのだろうか。私には「ノート」と思えるのだが、だとすれば何故文具店にはあまり置かれていないのだろう。なんてことがそれこそ気になった時期があって、そのときの私なりの一応の結論は、博文館日記全盛の頃からの名残りだろうということだった。つまり昔から、日記帳は流通の経路が文具とは別のルートを通っていたので、それがそのまま現代に及んでいるというわけだ。そう言えば、書籍の流通業者には、本の中身なんぞはどうでもよろしいというようなところがある。『現代俳句歳時記・冬』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


December 31122007

 どこを風が吹くかと寝たり大三十日

                           小林一茶

のときの一茶が、どういう生活状態にあったのかは知らない。世間の人々が何か神妙な顔つきで除夜を過ごしているのが、たまらなく嫌に思えたのだろう。なにが大三十日(大晦日)だ、さっさと寝ちまうにかぎると、世をすねている。この態度にはたぶんに一茶の気質から来ているものもあるだろうが、実際、金もなければ家族もいないという情況に置かれれば、大晦日や新年ほど味気ないものはない。索漠鬱々たる気分になる。布団を引っかぶって寝てしまうほうが、まだマシなのである。私にも、そんな大晦日と正月があった。世間が冷たく感じられ、ひとり除け者になったような気分だった。また、世をすねているわけではないが、蕪村にも「いざや寝ん元日はまた翌のこと」がある。「翌」は「あす」と読む。伝統的な風習を重んじた昔でも、こんなふうにさばさばとした人もいたということだ。今夜の私も、すねるでもなく気張るでもなく、蕪村みたいに早寝してしまうだろう。そういえば、ここ三十年くらいは、一度も除夜の鐘を聞いたことがない。それでは早寝の方も夜更かしする方も、みなさまにとって来る年が佳い年でありますようにお祈りしております。『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます