yあq句

July 0372007

 風ここに変り虚のかたつむり

                           柚木紀子

書きに「谷川岳一の倉沢から幽の沢へ」とある。虚には「うつせ」のルビ。一の倉沢から幽の沢は、北アルプスの穂高、劔岳とともに、日本三大岩場と称するほど人気があるといわれる岩場だ。登山とはまったく縁のない生活をしているが、昨年7月同地を歩く機会を得た。一の倉沢出合まで車で、そこから一時間ほどの登山ともいえぬトレッキングだったが、幽の沢では一気に風の気配が変わり、足元から吹き上がる風に押し戻されるように思えた。ここから先へ行くのか、と山に念を押されているような風である。ここで頷いてしまう者たちが、山に魅入られてしまうのだろう。山肌に打ち付けられた何枚ものプレートは、「魔の山」の異名を持つ谷川岳で遭難したクライマーたちの発見された場所だという。発見される場所が集中しているのは、まるで山が自ら、魅入られた者たちの弔い場所を定めているかのようだ。渦巻きのなかに溶けて消えてしまったようなかたつむりの骸(むくろ)が、ここで落としていった命の器に思えてくる。〈土に置く山の鎮めの桃五つ〉〈いましがた虹になりたる雫かな〉駐車場に戻ると、涙が固まってできたような雪渓を前に、呆然と絶壁を見あげる人たちの姿を見た。『曜野』(2007)所収。(土肥あき子)


July 1072007

 自転車のおばちゃん一列雲の峰

                           児玉硝子

然を守るエコライフが信条の世のおばちゃんたちは自転車が大好きだ。前後に荷物を乗せ、左右のハンドルにも買い物袋を下げ、確固たるリズムでペダルを漕いで突進する。おばちゃんはいつも急いでいる。青信号が点滅すると、途端になんとしてでも今ここで渡らなくてはいけないような切羽詰まった何ごとかに迫られる。おばちゃんはたくましい二の腕を夏の日にさらし、しかし、日焼けにも気を使う女心も忘れてはいない。車の邪魔にならないように歩行者レーンを走りながら、てくてく歩く人々を甲高いベルで押しのける。礼儀を重んじるのか、気にしないのか、危険なのか、安全なのか。しぶしぶ停まった赤信号で、空に貼り付く白い雲を満足そうに見上げる。まるでおばちゃんの手によって空に干されたような立派な入道雲である。そこでふと思い至ってしまったのである。おばちゃんとは。私の愛おしい一部分であるおばちゃんとは。一列のおばちゃんたちはいっせいに、これから辻征夫の詩に登場する偉大な「ボートを漕ぐおばさん」に変身すべく急いでいるのだ。(ボートを漕ぐ不思議なおばさん→ 鈴木志郎康さんのHP)はやくあのこのうちへ行かなくちゃ 、と。『青葉同心』(2004)所収。(土肥あき子)


July 1772007

 涼しさよ人と生まれて飯を食ひ

                           大元祐子

外なことに「涼」とは夏の季題である。暑い夏だからこそ覚える涼気をさし、手元の改造社「俳諧歳時記」から抜くと、「夏は暑きを常とすれど、朝夕の涼しさ、風に依る涼しさ等、五感による涼味を示す称」とあり、前項の「釜中にあるが如き」と解説される「暑き日」や「極暑」の隣にやせ我慢のように並んでいる。食事をすると体温はわずかに上昇する。これは「食事誘発性体熱産生反応」という生理現象だという。掲句では「飯を食う」という手荒い言葉を用いることによって、食べることが生きるために必要な原始的な行動であることを印象付けている。また、その汗にまみれた行為のなかで、今ここに生きている意味そのものを照射する。体温が上昇する生理現象とはまったく逆であるはずの涼しさを感じる心の側面には、喜びがあり、後悔があり、人間として生きていくことのさまざまな逡巡が含まれているように思える。ものを食うという日常のあたりまえの行為が、「涼し」という季題が持つやせ我慢的背景によって、知的動物の悲しみを伴った。そういえば、汗と涙はほとんど同じ成分でできているのだった。大元祐子『人と生まれて』(2005)所収。(土肥あき子)


July 2472007

 もう少しの力空蝉砕けるは

                           寺井谷子

の一生は地中で7年、地上で2週間といわれている。なかには地中暮らしが13年、17年などという強者もいるが、それでもやはり地上の命は同じようにわずかなものだ。蝉という昆虫を感傷的に捉える理由は、この地上での命の短さにあるが、空蝉(抜け殻)が与える視覚的な衝撃も大きく影響しているように思える。無事蝉となった抜け殻を手に乗せそっと握るとき、ふと力を込めて壊してしまいたい衝動にかられる。それは深い渓谷に片足だけそっと差し出す行為にも似て、「しないけれどしてみたらどうだろう」と思うだけで心が騒ぐ。抜け殻なのだから、よもや粉々に壊してしまったとしても、それを残酷な行為とはいえないだろう。しかし、わずかな力の付加を思い留まらせているのが、蝉そのものの形、それも祈るような姿のまま凍り付いている物体への哀憐であろう。わずかな命と引き換えに羽を得た生き物は、その抜け殻さえも殉教者の衣のように神々しく思える。一方、それを引き裂いてしまいたいと思う危うい心に、さまざまなしがらみの中で生きていかねばならぬ人間の悲しいほどまっとうな感情を覚えるのだ。『母の家』(2006)所収。(土肥あき子)


July 3172007

 空缶にめんこが貯まり夏休み

                           山崎祐子

月20日あたりから始まる夏休みもそろそろ序盤戦終了。身体が夏休みになじんでくる頃だ。めんこ、と聞いて懐かしく思うのはほとんど男性だろう。わたしには弟がいたので、めんこ遊びのおおよそは知っているが、実際に触ったことはないように思う。長方形や丸形の厚紙でできた札を地面に打ちつけ、相手の札を裏返す。裏返ったら自分の物にすることができるので、茶筒などに入れ、まるでガンマンのように持ち歩いていた。気に入りの札をなにやら大切そうに机の端から端まで並べている弟を見て、つくづく男の子には男の子の遊びがあるものなのだ、などと思ったものだ。おそらく掲句の母親もそう感じたのではないだろうか。自分の知らない遊びに夢中になっているわが子に、成長した少年の姿を見つけ誇らしく、また、ずっと遠くにあると思っていた親離れが案外近づいてきていることを知る。掲句の少年は、9月になって新学期が始まってもまだまだ気分は夏休みのままらしく〈筆箱に芋虫を入れ登校す〉とあり、母親にひとしきりの悲鳴を与えたようだ。とはいえ、いまやどこを見ても小型のゲーム機を手にしている子供ばかり。現在めんこ販売の主流は大人のコレクションが中心となっているという。『点晴』(2005)所収。(土肥あき子)


August 0782007

 水銀の玉散らばりし夜の秋

                           佐藤郁良

の夜にどことなく秋めいた感じを受けることを「夜の秋」と称する。もともとが個人の受ける「感じ」が主体であるので、しからばそれをどのように表現するかが勝負である。歳時記の例句を見ると長谷川かな女の〈西鶴の女みな死ぬ夜の秋〉、岡本眸の〈卓に組む十指もの言ふ夜の秋〉などが目を引く。どちらも無常を遠くに匂わせ、移ろう季節に重ねるような背景である。一方、掲句は目の前の様子だけを言ってのけている。しかも、体温計をうっかり割って、水銀が一面に散らばってしまうというのだから、その様子はたいへん危険なものだ。水銀が有毒であることは充分理解しつつも、その玉の美しさ、おそるおそる爪先で寄せればひとつひとつがふつりとくっつき合う様子は不思議な魅力に満ちている。多くの経験者には、この液体である金属の持つあやしい状景がはっと頭に浮かぶのではないだろうか。そして、それがまことにひやっとした夜の感触をうまく呼び寄せている。『海図』(2007)所収。(土肥あき子)


August 1482007

 白蝶に白蝶が寄り盆の道

                           福井隆子

の行事は、先祖を敬うという愛情を芯にしながらも、地方によってその表現方法はさまざまである。数年前、沖縄県石垣島で伝統的な「アンガマ」を目の当たりにすることができた。旧盆の三日間、あの世からこの世へ精霊たちが賑やかに来訪し、きわめて楽し気にあちらの生活を語ってまわるという、いかにも南国らしい行事である。先頭の若者は、ウシュマイ(お爺)とウミー(お婆)の面を付け、昔ながらの島言葉を操り、踊り歌いながら新盆を迎えた家々を訪問する。輝く月に照らされ、使者たちの行列は家から家へ、黒々とした健やかな影を引きながら未明まで続く。考えてみれば、お盆にこの世を訪問する死者とは、明るい浄土を成し得た幸せな者たちである。個々の悲しみはさておき、空中に浮遊する明るい魂に囲まれている楽しさに、思わず長い行列の最後尾に加わり、満天の星の下を歩いていた。掲句の白蝶は、ふと眼にした景色を写し取りながら、美しい死者の魂のようにも見せている。触れ合えばまた数を増やし、現世を舞ってゆく。句中に据えられた「寄り」の文字が「寄り代」を彷彿させ、あの華奢な昆虫を一層神々しく昇華させている。『つぎつぎと』(2004)所収。(土肥あき子)


August 2182007

 かなかなのかなをかなしく鳴きをはる

                           加藤洋子

泉八雲は『蝉(シカダ)』のなかで、「ヒグラシ或はカナカナ」として「日を暗くす、といふ意味の名を有つた此蝉は(中略)いかにも上等な呼鈴を極早く振る音に酷似して居る」と記す。夏の暑さを増幅させるようなアブラゼミやミンミンゼミたちの一斉合唱にひきかえ、カナカナは一匹ずつがバトンを渡すように交替で鳴き、真昼の蝉の声とはまったく異なる印象を持つ。それは徐々にかき消されていくような、輪唱のおしまいの心細さを感じさせ、夏の終わりをセンチメンタルに演出する。俳句では感情を直接表現せず、モノに語らせることが大切といわれるが、掲句の「かなしく」は感情であると同時に、「カナカナ」の「カナ」は「かなしみ」の「かな」でもあるという作者の発見を、つつましく提示したものでもある。また、句中に響く4つの「かな」の間が、だんだんと消え入るようなバランスで配置されている音の美しさも絶妙である。百人一首の「これやこの行くも帰るも別れてはしるもしらぬもあふ坂の関」で知られる蝉丸は多くの伝承を持つ人物だが、方丈記では「蝉歌の翁」として紹介されている。「蝉歌」がいかなるものか、現在ではまったく残っていないといわれるが、きっとカナカナの声を思わせる哀しみを伴った美しい楽曲だったことだろう。『白魚』(2006)所収。(土肥あき子)


August 2882007

 秋天に東京タワーといふ背骨

                           大高 翔

拗な残暑が続く毎日だが、東京の空にもようやく秋らしさが見られるようになった。東京タワーは昭和33年に完成した東京都港区に立つ333mの電波塔である。この高さは「どうせつくるなら世界一を…。エッフェル塔(320m)をしのぐものでなければ意味がない」(by東京タワーHP)という、戦後から復興し、世界を視野に見据え始めた東京の夢を叶えたものであったという。赤と白のツートンカラーは五年に一度という周期で塗り替えられているが、今年がちょうどその時期にあたり、4月から深夜作業が始まっている。足場を組まれ、小さなゴンドラをいくつも下げた東京タワーは、まるで背中を流してもらっているガリバーのようにも見え、一段と掲句を納得させる図でもある。来年から工事が始まるという墨田区押上の新東京タワーはデザイン画では輝く銀色をしており、610mの全長は世界一の高さになるのだそうだ。しかし、850万の人間が密集し、さまざまな生活が集中している東京の空には、無機質なメタリックタワーより、人間の体温を感じられる紅白のタワーが似合う。今夜は皆既月食。東京タワーを背景に月蝕を眺めるなんていうのも素敵だ。〈春雪や産み月の身のうすくれなゐ〉〈「はいどうぞ」しろつめくさといしころと〉『キリトリセン』(2007)所収。(土肥あき子)


September 0492007

 帯結びなほすちちろの暗がりに

                           村上喜代子

集中〈風の盆声が聞きたや顔見たや〉〈錆鮎や風に乗り来る風の盆〉にはさまれて配置されている掲句は、越中八尾の「おわら風の盆」に身を置き、作られたことは明らかであろう。三味線、太鼓、胡弓、という独特の哀調を帯びた越中おわら節にあわせ、しなやかに踊る一行は、一様に流線型の美しい鳥追い笠を深々と被っている。ほとんど顔を見せずに踊るのは、個人の姿を消し、盆に迎えた霊とともに踊っていることを示しているのだという。掲句からは、町を流す踊りのなかで弛んだ帯を、そっと列から外れ、締め直している踊り子の姿が浮かぶ。乱れた着物を直すことは現世のつつしみであるが、ちちろが鳴く暗がりは「さあいらっしゃい」と、あの世が手招きをしているようだ。身仕舞を済ませた踊り子は、足元に浸み出していくるような闇を振り切り、また彼方と此方のあわいの一行に加わる。昨日が最終日の「おわら風の盆」。優麗な輪踊りは黎明まで続けられていたことだろう。長々と続いた一夜は「浮いたか瓢箪/軽そうに流れる/行く先ゃ知らねど/あの身になりたや」(越中おわら節長囃子)で締めくくられる。ちちろの闇に朝の光りが差し込む頃だ。『八十島』(2007)所収。(土肥あき子)


September 1192007

 何の実といふこともなく実を結び

                           山下由理子

花(やいとばな)、臭木(くさぎ)、猿捕茨(さるとりいばら)。いささか気の毒な名前を持つこの草花たちは、目を凝らせばわりあいどこにでも見つかるものだが、正確な名を知ったのは俳句を始めてからのことだ。そして、これらが驚くほど美しい実を付けることもまた、俳句を通して知ったのだった。歳時記を片手に周囲を見回せば、植物学者が苦心惨憺、あるいは遊び心も手伝ったのであろう草木の名前に、微笑んだり吹き出したりする。しかし、掲句は名前を言わないことで優しさが際立った。作者はもちろんその名を知っていて、あえてどれとなく実を結ぶ眼前の植物を、大らかに抱きとめるように愛でているのであろう。作者の目の前では確かに名前を持つさまざまな植物が、ここでは結んだ実としてのみ存在する。分類学上の名前を与えられてなかった時代にも、同じように花を咲かせ、また実っていたことだろう。先日の台風が通り過ぎ、いつもの散歩道にも固いままの銀杏や柘榴など、たくさんの実が散乱していた。頭上の青い葉の蔭に、若々しい実りがこんなにも隠されていたとは思いもよらぬことだった。掲句を小さく口ずさみ、青い実をひとつ持ち帰った。〈抱きしめて浮輪の空気抜きにけり〉〈変わらざるものは飽きられ水中花〉『野の花』(2007)所収。(土肥あき子)


September 1892007

 道なりに来なさい月の川なりに

                           恩田侑布子

に沿って来いと言い、月が映る川に沿って来いと言う。それは一体誰に向かって発せられた言葉なのだろう。その命令とも祈りともとれるリフレインが妙に心を騒がせる。姿は一切描かれていないが、月を映す川に沿って、渡る鳥の一群を思い浮かべてみた。鳥目(とりめ)という言葉に逆らい、鷹などの襲撃を避け、小型の鳥は夜間に渡ることも実際に多いのだそうだ。暗闇のなかで星や地形を道しるべにしながら、鳥たちは群れからはぐれぬよう夜空を飛び続ける。遠いはばたきに耳を澄ませ、上空を通り過ぎる鳥たちの無事を祈っているのだと考えた。しかし、その健やかな景色だけでは、掲句を一読した直後に感じた胸騒ぎは収まることはない。どこに手招かれているのか分からぬあいまいさが、暗闇で背を押され言われるままに進んでいるような不安となり、伝承や幻想といった色合いをまとって、おそろしい昔話の始まりのように思えるからだろうか。まるで水晶玉を覗き込む魔女のつぶやきを、たまたま聞いてしまった旅人のような心もとない気持ちが、いつまでも胸の底にざわざわとわだかまり続けるのだった。〈身の中に大空のあり鳥帰る〉〈ふるさとや冬瓜煮れば透きとほる〉『振り返る馬』(2006)所収。(土肥あき子)


September 2592007

 露の夜や星を結べば鳥けもの

                           鷹羽狩行

から人間は星空を仰ぎ、その美しさに胸を震わせてきた。あるときは道しるべとして、またあるときは喜びや悲しみの象徴として。蠍座、射手座、大三角など、賑やかだった夏の夜空にひきかえ、明るい星が少ない秋の星座はちょっとさびしい。しかし、一大絵巻としては一番楽しめる夜空である。古代エチオピアの王ケフェウスと妻カシオペアの美しい娘アンドロメダをめぐり、ペガサスにまたがった勇者ペルセウスとお化けクジラの闘い。この雄大な物語りが天頂に描かれている。さらに目を凝らせば、その顛末に耳を傾けるように白鳥や魚、とかげが取り囲み、それぞれわずかに触れあうようにして満天に広がっている。星と星をゆっくりと指でたどれば、そのよわよわしい線からさまざまな鳥やけものが生まれ、物語りが紡ぎだされる。「アレガ、カシオペア」と、いつか聞いたやわらかい声が耳の奥にあたたかくよみがえる。本日は十五夜。予報によればきれいな夜空が広がる予定である。地上を覆う千万の露が、天上の星と呼応するように瞬きあうことだろう。『十五峯』(2007)所収。(土肥あき子)


October 02102007

 新涼や三回試着して買はず

                           田口茉於

々続いた凶暴な残暑にもどうやら終わりがきたようだ。先月からはやばやと秋の装いのニットやブーツを身につけていたショーウィンドーのマネキンも、ようやく落ち着いて眺めることができるようになった。しかしまだ更衣をしていないこの時期に、新しい洋服の購入はとても危険なのである。また同じようなものを買ってしまったという後悔や、手持ちのどの洋服とも合わないという失敗を毎年繰り返しているにも関わらず、ついつい真新しいファッションを手にしたくなるのが女心というものだ。手を出しかねていたレギンスから、世間は一転してカラータイツになっているようだけれど、これもきっと取り入れずに終わるだろう。それにしても掲句の作者はずいぶん用心深く、わたしが懲りずに度々犯す「衝動買い」という愚かな過ちを上手に回避しているようだ。今年は掲句を繰り返しながら街を歩くことにしようかと思う。〈携帯でつながつてゐる春夕べ〉〈私から届く荷物や金木犀〉『はじまりの音』(2006)所収。(土肥あき子)


October 09102007

 止り木も檻の裡なり秋時雨

                           瀧澤和治

週末あたりから金木犀の香りが漂うようになったが、せっかくの香りを流してしまうような雨が続いている。颱風の激しさのなかの9月の雨とも、冬の気配を連れてくる11月の雨とも違う10月の雨は、さみしさの塊がぐずぐずとくずれていくように降り続ける。掲句の季題である「秋時雨」にも、「春時雨」の持つ明るさや、冬季の「時雨」が持つ趣きとは別の、心もとない侘しさが感じられる。静かに降り続ける雨のなかで、檻の裡(うち)を見つめる作者。タカやハヤブサ、あるいはフクロウなどの猛禽の名札が付いているはずの檻のなかに、生き物の姿はどこにもない。ただ止り木が描かれているだけだ。そしてそれこそが痛みの源として存在している。翼を休めるための止まり木が渡されてはいても、はばたく大空はそこにはないのだから。ドイツの詩人リルケは「豹」という作品で、檻の内側で旋回運動を続ける豹の姿をひたすら正確に書きとめることで生命の根拠を得たが、掲句では檻のなかの生き物をひたすら見ないことで、いのちの存在を際立たせた。『衍』(2006)所収。(土肥あき子)


October 16102007

 海底に水の湧きゐる良夜かな

                           上田禎子

秋の名月から月の満ち欠けがひと回りする頃になると、空気はぐっと引き締まり、月もやわらかなカスタード色から、薄荷の味がしそうな光になってくる。美しい月の光に照らされているものの姿を思い描くとき、海のおもてや、波間に思いを寄せることはできても、掲句はさらに奥へ奥へと気持ちを深めて、とうとう海底に水の湧くひとところまで到達した。そこは水の星のみなもと。見上げれば、はるか海面が月の光を得て薄々ときらめき、さらに天上には本物の月が輝いている。ふたつの天を持つ海底に、ふらつく足で立っているような不思議な気持ちになってくる。実際の海底では、真水が湧く場所というのは非常にまれだが、富山湾には立山連峰に降った雨や雪が地下水となって、長い年月をかけて海底から湧いている場所があるそうだ。映像では、山の滋養が海に溶け出す水域はごろごろと岩が重なる様子から一転し、水草の生い茂る草原のようになっていた。海底から湧く水に水草がふさふさとなびき、さながら海の底が歌っているようだった。今夜も歌われているに違いない海底の歌声に、静かに耳を傾ける。〈少年を見舞ふ車座赤のまま〉〈鳥の巣の流れてゆけり冬隣〉『二藍』(2007)所収。(土肥あき子)


October 23102007

 鰯雲人を赦すに時かけて

                           九牛なみ

積雲は、空の高い位置にできる小さなかたまりがたくさん集まったように見える雲で、鰯(いわし)雲や鱗(うろこ)雲と呼ばれる。夏目漱石の小説『三四郎』のなかで、空に浮く半透明の雲を見上げて、三四郎の先輩野々宮が「こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで地上に起こる颶風以上の速力で動いているんですよ」と語りかける場面がある。上京したての青年に起こるその後の葛藤を暗示しているような言葉である。印象深い鰯雲の句の多くは、その細々とした形態を心情に映したものが多い。加藤楸邨の〈鰯雲人に告ぐべきことならず〉や、安住敦の〈妻がゐて子がゐて孤独いわし雲〉も、胸におさめたわだかまりを鰯雲に投影している。掲句もまた、千々に乱れつつもいつとはなく癒えていく心のありようを、空に広がる雲に重ねている。鰯雲の一片一片には、ささくれだった心の原因となったさまざまな出来事が込められてはいるが、それらがゆっくりと一定方向に流れ、薄まりつつ触れ合う様子は、胸のうちそのものであろう。三四郎もまた、かき乱された心を持て余し、彼女が好きだった秋の雲を思い浮かべながら「迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)」とつぶやいて小説『三四郎』は終わるのだった。『ワタクシと私』(2007)所収。(土肥あき子)


October 30102007

 冷まじや鏡に我といふ虚像

                           細川洋子

まじは「すさまじ」。具体的な冷気とともに、その語感から不安や心細さなどを引き連れてくる。「涼しい」より荒々しく、「寒い」より頼りない季節の隙間には、この時期だけそっと鏡に映ってしまう何かがあるのではないかと思わせる。鏡は見る者の位置、微妙な凹凸などによって、真実の姿であるにもかかわらず、さまざまな像を結ぶ。鏡(ミラー)と不思議(ミラクル)とが密接な関係を持つといわれているように、この目も鼻も本当の顔とはまったく別のものが映っているように思えてくる。掲句の作者もまた、鏡に映し出された姿を漠然とよそよそしく感じながら、我が身を見つめているのだろう。右手を上げれば向かい合う左手が上がり、右目をつぶれば向かい合う左目がウインクする。それはまるで動作を真似るゲームのなかで、向こう側の人が慌てて動かしているように見えてくる。人間でもこんがらがってくるこの現象に動物は一体どう対処するのだろう。イソップ物語に登場する肉をくわえた犬の話しを思い出し、飼い猫に鏡を見せてみると、においを嗅いだり、引っ掻いたり、しきりに裏側に行きたがる。目の前にいる動くものが、まさか自分だとはまったく思っていないようだが、手出しせずすぐに引っ込む相手に勝ち誇った様子であった。猫にとっては、鏡の向こう側に住む無害の生き物として認知したのかもしれない。『半球体』(2005)所収。(土肥あき子)


November 06112007

 布団より転げ落ちたる木の実かな

                           白濱一羊

け方、猫が布団に入ってくるようになると、いよいよ秋も深まったなぁと実感する。体温であたたまった布団の中は、なにものにもかえがたい愛おしい空間である。見ていた夢の尻尾をつかまえようともう一度目をつぶってみたり、外の雨の音に耳を澄ましてみたり、なんにもしない時間がふわふわと頭上に平らに浮かんでいるのをぼんやり眺めているような、贅沢なひとときである。とまれ、これはまだ夢ともうつつともつかない半睡半醒の状態である。一日の始まりは布団をぱっとはねのけ、立ち上がるところからであろう。この行為により、夢の世界は遠くの過去のものとなり、頭は現実的な手順と段取りへと切り替わる。そんなスイッチが完了したという時に、布団からぽろりと木の実がこぼれ落ちた。こんなところにあるはずのない木の実。まるで過去へと引き戻す扉の隙間から、わずかに光りが漏れているのを見つけてしまったような、奇妙な気持ちにとらわれることだろう。宮沢賢治の『どんぐりと山猫』で、裁判のお礼に一郎が山猫からもらったひと枡の黄金のどんぐりは、家が近づくにつれ、みるみるあたりまえの茶色のどんぐりに変わっていたのだったことなども、胸をよぎる。夢の種…。今日やらなければならないことは全て忘れて、閉まりかけている扉へと引き返したくなる朝である。『喝采』(2007)所収。(土肥あき子)


November 13112007

 靴と靴叩いて冬の空青し

                           和田耕三郎

の空はどこまでも青い。右足と左足の靴を両手に持って、ぽんと叩いて泥を落とす。この日常のなにげない行為の背景には、晴天、散歩、健康、平和と、どこまでも安らかなイメージが湧いてくる。童謡では「おててつないで野道を行けば(中略)晴れた御空に靴が鳴る」と跳ねるような楽しさで歌われ、「オズの魔法使い」ではドロシーが靴のかかとを三回鳴らしてカンザスの自宅に無事帰る。どちらも靴が音を立てる時は「お家に帰る」健やかなサインであった。本書のあとがきで、作者は2004年に脳腫瘍のため手術、翌年再発のため再手術とあり、二度の大病を経て、現在の日々があることを読者は知ってしまう。青空から散歩や健康が、乾いたペンキのようにめくれ上がり、はがれ落ち、まだらになった空の穴から、もっと静かな、献身的な青がにじみ出てくる。作者は靴を脱ぎ、そこに戻ってきた。真実の青空はほろ苦く、深い。〈拳骨の中は青空しぐれ去る〉〈空青し冬には冬のもの食べて〉『青空』(2007)所収。(土肥あき子)


November 20112007

 さざんくわはいかだをくめぬゆゑさびし

                           中原道夫

茶花(さざんくわ)は冬の庭をふわっと明るくする。山で出会っても、里で出会っても、その可憐な美しさは際立っている。しかし掲句は「筏を組めぬ」という理由で寂しいという。確かに山茶花の幹や枝は、椿よりずっとほっそりしていて、おおよそ筏には向かないものだ。とはいえ、掲句の楽しみ方は内容そのものより、その伝わり方だろう。集中は他にも〈いくたびもあぎとあげさげらむねのむ〉〈とみこうみあふみのくにのみゆきばれ〉などがあり、そこにはひらがなを目で追っていくうちに、ばらばらの文字がみるみる風景に形づくられていく面白さが生まれる。生活のなかで、漢字の形態からくる背景は無意識のうちに刷り込まれている。目の前にあるガラス製の容器を「ビン」「瓶」「壜」と、それぞれが持つ異なるイメージのなかから、ぴったりくるものを選んで表記している。ひと目で誤解なく伝達されるように使用する漢字はまた、想像の振幅を狭めていることにも気づかされる。一方〈戀の字もまた古りにけり竃猫〉では、逆に漢字の形態を大いに利用してやろうという姿勢、また〈決めかねつ鼬の仕業はたまたは〉では、漢字とひらがなのほどよい調合が感じられ、飽きずに楽しめるテーマパークのような一冊だった。『巴芹』(2007)所収。(土肥あき子)

★「いかだ」は、花筏(桜の花びらが水面に散り、吹き寄せられて流れていく様子)の略だろう、とのご指摘をたくさんいただきました。「筏」と聞いて、ひたすら山茶花の細く混み合った枝ばかり思い描いてしまったわたくしでした。失礼しました。


November 27112007

 冬眠のはじまりガラスが先ず曇る

                           伊藤淳子

間には冬眠という習慣がないので、それが一体どういうものなのかは想像するしかないが、「長い冬を夢のなかで過ごし、春の訪れとともに目覚める」というのは、たいへん安楽で羨ましく思う。しかし、実際は「眠り」というより、どちらかというと「仮死」に近い状態なのだという。消費エネルギーを最小限に切り替えるため、シマリスでいえば、呼吸は20秒に一回、体温はたった3度から8度になるというから、冬眠中安穏と花畑を駆け回る夢を見ているとは到底想像しがたい。また、冬眠は入るより覚める方が大きなエネルギーを必要とするらしく、無理矢理起こすのはたいへん危険だそうだ。環境が不適切だったためうまく目覚めることができず死に至るケースもあると知った。日常の呼吸から間遠な呼吸へ切り替えていく眠りの世界へのカウントダウンは、だんだんと遠くに行ってしまう者を見送っているような気持ちだろう。ひそやかな呼吸による規則正しいガラスの曇りだけが、生きていることのたったひとつの証となる。〈草いきれ海流どこか寝覚めのよう〉〈漂流がはじまる春の本気かな〉『夏白波』(2003)所収。(土肥あき子)


December 04122007

 やんはりと叱られてゐるおでんかな

                           山本あかね

められるのも苦手だが、叱られるのはもっと苦手。などというと、誰だってそうだ、と突っ込まれそうだが、叱られたあとの空気をどうしたらよいのか、叱られながら考えてしまう。深く反省し、それなりにへこんでもいるのだが、その悲しみを店やその場にいる人に感染させてしまってはいけない、と強く思ってしまうからだ。褒められている場合には、茶化されておしまいか、にこにこ笑って話題が移るのを待っていればよいが、叱られている当事者ではそうはいかない。叱られている現実への困惑、思いあたるふしへの自照、この場の空気を悪くしていることへの恐縮、それらが三つ巴となって頭のなかをぐるぐるとめぐる。考えていることがフキダシとなって表れていたら、それこそ「大体そういうところが大人としておかしいのだ」とあらためて叱られるところだろう。というわけで、掲句にもわずかにどきっと心が騒いだ。しかし、やんわりと諭されて「はい、わかりました」と胸に刻みつつ、「あ、大根おいし」などとつぶやいている。そんな救いのある座を思い描くことができ、ほっと胸をなでおろしたのだった。叱る方も叱られる方もどちらも、それはそれとして上手に受け止め、次の話題へと流れているのだろう。おでんから立つそれぞれの湯気が、ふっくらとその場を包んでいる。〈鮟鱇を下ろして舟の軽くなる〉〈草の花兎が食べてしまひけり〉『大手門』(2007)所収。(土肥あき子)


December 11122007

 さっきまで音でありたる霰かな

                           夏井いつき

(あられ)は地上の気温が雪が降るよりわずかに高く、零度前後のときに多く見られるという。激しい雨の音でもなく、そっと降り積もる雪でもなく、もちろん雹の賑やかさもなく、霰の音はまさにかすかなる音、かそけき音だろう。そのささやかな音がいつの間にか止んでいる。それは雪に変わったのだろうか、それともあっけなく溶けてしまったのだろうか。作者は今現在の空模様を問うことなく、先ほどまでわずかにその存在を主張していた霰に思いを傾けている。霰というものの名の、短命であるからこその美を心から愛おしむように。蛇足ながら雹との違いは、直径2〜5mmのものを霰、 5mm以上のものを雹と区別する。まるでそうめんとひやむぎの違いのようだが、俳句の世界では、霰は冬、雹は夏と区別される。雷雲の中を上下するうちに雪だるま式に大きくなるため雷雲が発生しやすい夏に雹が降るというわけらしい。〈傀儡師来ねば死んだと思いけり〉〈ふくろうに聞け快楽のことならば〉『伊月集 梟』(2006)所収。(土肥あき子)


December 18122007

 かまいたち鉄棒に巻く落とし物

                           黛まどか

会的センスを求められがちな作者だが、何気ない写生句にも大きな魅力がある。通学路や公園の落とし物は、目の高さあたりのなにかに結ばれて、持ち主を待っているものだ。それはまるで公園のところどころに実る果実のように、マフラーや給食袋などがいつとはなく結ばれ、またいつとはなくなくなっている。ひとつふたつと星が出る頃、ぽつんと明かりが灯るように鉄棒に巻かれた落とし物が人の体温を伝え、昼間鉄棒にまといついていた子どもたちの残像をひっそりとからみつかせている。また、かまいたち(鎌鼬)とは、なにかの拍子でふいに鎌で切りつけられたような傷ができる現象をいう。傷のわりに出血もしないことから伝承では3匹組の妖怪の仕業などとも言われ、1匹目が突き飛ばし、2匹目が鎌で切り、3匹目が薬を塗る、という用意周到というか、必要以上の迷惑はかけない人情派というか、なんとも可愛らしい。この妖怪じみた気象現象により、夜の公園でかまいたちたちがくるくると遊んでいるような気配も出している。〈春の泥跳んでお使ひ忘れけり〉〈ひとときは掌のなかにある毛糸玉〉『忘れ貝』(2007)所収。(土肥あき子)


December 25122007

 石蕗の花母声あげて吾を生みし

                           本宮哲郎

日クリスマス。これほどにクリスマス行事が浸透している日本で、今や聖母マリアと神の子イエスの母子像を見たことのない人はいないだろう。聖母マリアの像の多くは、わが子にそそぐまなざしのため、うつむきがちに描かれる。伏し目姿の静かな母とその胸に抱かれた幼子を完璧な母子像として長い間思い込んでいたが、掲句を前に一変した。石蕗の花のまぶしいほどの黄色が、絶叫の果ての母の喜びと、健やかな赤ん坊の大きな泣き声にも重なり、それは神々しさとは大きく異なるが、しかし血の通う生身の母子像である。絵画となると美しさに目を奪われるばかりの母子像だが、落ち着いて考えてみれば、大木あまりの〈イエスよりマリアは若し草の絮〉にもある通り、マリアには肉体の実感がまったくない。しかし、どれほど美しく描かれようとも、処女でいなければならず、また年を取ることも許されず、わが子の死に立ち会わねばならなかった聖母マリアの悲しみを、今日という日にあらためて感じたのであった。『伊夜日子』(2006)所収。(土肥あき子)




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