リ檀句

July 0472007

 一生の幾百モ枕幾盗汗

                           高橋睦郎

みは「いっしょうの/いくももまくら/いくねあせ」。私たちは一生かかって、どれだけあまたたび(幾百・幾千回)枕のお世話になるのだろうか。どれだけ幾たびかの盗汗をかくのだろうか。盗汗ばかりでなく、熱い汗や冷汗もどれだけ流すことになるのか。――多い人、少ない人の違いはあれども、それが人の一生。私たちは日頃、あまりそんなことを改まって考えることはないけれど、日本語にはさすがに「枕」を冠した言葉がおびただしい数ある。枕詞、枕木、枕絵、北枕、枕経、箱枕、膝枕、枕時計、枕元、枕頭、夢枕・・・・。枕は私たちの喜怒哀楽をさまざまに彩ってくれる。この枕に着目した睦郎の新連載「百枕」が「俳句研究」7月号から始まった。興味をそそられる連載の冒頭は「私たちが毎日用いる道具でありながら、その名の語源のもう一つ明解でないものの一つに、枕がある」と書き出されている。おっしゃるとおりである。その語源については、マクラ(間座)、アタマクラ(頭座)、マクラ(目座)、マク(枕)、マク(巻)、マキクラ(纏座)、マクラ(真座)等々の語義(『日本国語大辞典』)もそこで紹介されている。「枕」そのものは季語ではないけれど、「籠枕」や「枕蚊帳(蚊帳)」となれば夏の季語となる。睦郎は連載第一回を「籠枕」と題し、「籠枕百モの枕の手はじめに」と冒頭で挨拶し、「ふるさとは納戸の闇の籠枕」など10句を試みている。「俳句研究」(2007年7月号)所載。(八木忠栄)


July 1172007

 はつきりしない人ね茄子投げるわよ

                           川上弘美

出句を読んだ人は「これが俳句か!」と言い捨てる人と、「おもしろい!」とニッコリする人の両方に、おそらく極端に分かれると思われる。四年前に初めてこの小説家の句に出会ったときの私の反応は、後者であった。それ以来ずっと、この句は私の頭のすみっこにトグロを巻いたまま棲んでいる。いずれにせよ「はつきりしない人」は、男女を問わずいつの世にもいるのだ。私たちの周囲だけでなく、企業や団体・・・・いや、政治の場でも「はつきりしない/させない」人や事、あるいは「玉虫色のもろもろ」はあふれかえっている。それらには鉄塊か岩石でも投げつけなくてはなるまい。この句で投げられるのは、あの柔らかくて愛しい弾力をもった茄子だから、むしろ愛敬が感じられる。ジャガイモやトマトとは違う。ヒステリックな表情から一転して、茄子がユーモラスな味わいを醸し出している。口調はきついが、カラリとしていて陰険ではない。この人は「投げるわよ」と恐い顔をして威嚇しただけで、実際には投げなかったかもしれないし、投げつけたとしても、すぐにニタリとしてベロでも出したかもしれない。場所は茄子畑でもいいし、台所でもよかろう。「ひっぱたくわよ」ではなく、すぐ手近にあった茄子(硬球ではなく軟球のような野菜)を衝動的に投げつけようとしたところに、奥床しさが表われている。1995年から2003年までに書かれた俳句のなかから、「百句ほど」として自選されたうちの1995年の一句。同年の句に「泣いてると鼬の王が来るからね」がある。これまた愉快な口語俳句。「文藝」(2003年秋号)所載。(八木忠栄)


July 1872007

 物言はぬ夫婦なりけり田草取

                           二葉亭四迷

植がすんでからしばらくすると、田の面に草がはえはじめる。一番草、二番草・・・・と草の成育にしたがって、百姓は何回も田草取りに精出さなければならない。「田の草取り」とも言う。田に這いつくばるようにして、両手を田の面に這わせ、稲の間にはえた草をむしり取って、土中に埋めてゆく。少年時代に、ちょっとだけ手伝わされたことがあるが、子どもにはとてもしんどかった! 二番草、三番草となるにしたがって稲の背丈が伸びてくるから、細かい網でできた丸い面を顔にかぶる。稲の葉先は硬く鋭く尖っているから、顔面や眼を守るための面である。蒸し暑い時季だから汗は流れる、這いつくばっての作業ゆえ、腰が棒のようになってたまらなく痛くなってくる。時々立ちあがって汗を拭き、腰を伸ばさずにはいられない。除草機や除草剤が普及するまで、百姓はみなそうやって稲を育てた。百姓はたいてい夫婦か身内で働く。そうした辛い作業だから、夫婦は無駄口をたたく余裕などない。黙々と進む作業と、田の広がりが感じられる句である。別の田んぼでもやはり夫婦が田んぼに這いつくばっているのだろう。農作業をするのにペチャクチャしゃべくってなどいられない。掲出句のような風景は、年々失われてきたものの一つ。平凡な詠い方のなかに、強く心引きこまれるものがある。四迷には「物云はて早苗取りゐる夫婦かな」という句もある。俳句にも熱心だった四迷は「俳諧日録」を書き、「俳諧はたのしみを旨とするもの」と言い切っている。『二葉亭四迷全集』(1986)所収。(八木忠栄)


July 2572007

 夏帽子頭の中に崖ありて

                           車谷長吉

帽子というのは麦わら帽、パナマ帽などが一般的とされるけれど、ここでは妙にハイカラな帽子でなければ特にこだわらないでいいだろう。夏帽子そのものは何であれ、作者は帽子に隠された「頭の中」をモンダイにしている。「頭の中」に「崖」があるというのだから穏かではない。長吉の小説の世界にも似てすさまじい。断崖、切り岸が頭の中にあるという状態は、それがいかなる「崖」であれ、健やかなことでない。頭の中に切り立つひんやりとした崖には、怪しい虫どもがひそんでいるかもしれないし、たとえば蛇が垂れさがったり、這いずりまわったりしているかもしれない。今にも崩れそうな状態なのかもしれない。とにかく、そんな「崖」が頭蓋の中、あるいは想念の中に切り立っている状態を想像してみよう。尋常ではない。帽子をかぶっているとはいえ外はかんかん照りで、頭の中も割れそうなほどに煮えくりかえっているのだろう。暑さのせいばかりではあるまい。この句は長吉の自画像かも、と私は勝手に推察する。いや、人はそれぞれ自分の頭の中に、否応なく「崖」を持っていると言えないだろうか。「崖などない」と嘯くことのできる人は幸いなるかな。長吉の俳句を「遊俳」(趣味的な俳句)と命名したのは筑紫磐井である。「やや余技めいた、浮世離れした意味で理解される」(磐井)俳句、結構ですな。長吉には「頭の中の崖に咲く石蕗の花」という句もある。石蕗はどことなく陰気な花である。『車谷長吉句集・改訂増補版』(2005)所収。(八木忠栄)


August 0182007

 飲馴れし井水の恋し夏の旅

                           幸田露伴

にも当然のようにうなずける句意である。「着馴れし」もの、「食馴れし」もの、「住馴れし」もの――それらは、私たちによく馴染んでいて恋しいものである。いや、時として馴れた衣・食・住に飽きてしまったり嫌悪を覚えたりすることはあろう。しかし、それも一時のことである。まして、それが生きるうえで最も不可欠な水となれば、「飲馴れ」た水にまさるものはない。どこにもある水道水やペットボトルの水の類ではない。固有の井水(井戸水)である。かつては、家それぞれが代々飲みつづけてきた井戸水をもっていた。井戸水とは、それを飲みつづける者の血でもあった。必ずしも上等の水である必要はない。鉄気(かなけ)の多い水、塩分の多い水などであっても、それが「飲馴れし井水」であった。自分が飲んで育った水である。暑い夏の旅先で馴れない水を何日も飲みつづけている身には、わが家の井戸水が恋しくなるのは当然のこと。夏なお冷たい井戸水である。この場合の「井水」は「水」だけでなく、生まれ育った「土地」や「家族」のことをも意味していると思われる。旅先で、井戸水や家族や土地がそろそろ恋しくなっているのだ。うまい/まずいは別として、私たちにとって「恋しい水」って何だろう? 百名水なんかじゃなくてもよい。あのフーテンの寅さんも「とらや」という井水=家族=土地への恋しさがたまって、柴又へふらりと帰ってきたのではなかったか。『露伴全集32巻』(1957)所収。(八木忠栄)


August 0882007

 千住の化ケ煙突や雷きざす

                           三好達治

立区千住の空にそびえていた千住火力発電所の「おばけ煙突」を知る人も、今や少数派になってしまった。「おばけ」と呼ばれたいわれはいろいろあるのだが、見る場所によって、四本の巨大な煙突が三本にも二本にも一本にも見えた。残念ながら、東京オリンピックの年1964年11月に姿を消した。私が大学生時代、山手線の田端か駒込あたりから、北の方角に煙突はまだ眺められた。掲出句で作者が立っている位置は定かではないが、近くで見上げているのではあるまい。煙突の彼方にあやしい雷雲が発生して、雷の気配が感じられているのである。今しもガラゴロと近づいてくる兆しがある。雷と自分のいる位置、その間に「おばけ煙突」が立ちはだかっているという、じつに大きな句姿である。「おばけ・・・」などと呼ばれながら、当時はどこかしら親しまれていた煙突だが、ここでは雷の気配とあわせて、やや剣呑をはらんだ光景としてとらえられているように思われる。「化ケ煙突」とはうまい表現ではないか。先般七月に起きた「中越沖地震」で大きな被害にあった柏崎地方の有名な盆踊唄「三階節」のなかで、雷は「ピッカラチャッカラ、ドンガラリン」と愛嬌たっぷりに唄われている。また「おばけ煙突」は五所平之助監督の名画「煙突の見える場所」(1953)の冒頭から巻末まで、ドラマの背景として登場していたこともよく知られている。達治は少年時代から句作に励み、生涯に1,000句以上残したという。玄人はだしの格調の高い句が多い。『定本三好達治全詩集』(1964)所収。(八木忠栄)


August 1582007

 敗戦の日の夏の皿いまも清し

                           三橋敏雄

日八月十五日は「敗戦の日」。あれは「終戦(戦いの終わり)」などではなかった。昭和二十年のこの日がどういう日であるか、知らない若者が今や少なくない。若者どころか、十年近く前に、この日を知らない七十歳に近い女性に会って仰天したことがある。「八月六日」や「八月九日」を知らないニッポン人は、さらに全国で増えている。敗戦の日の暑さや空の青さについては、あちこちで語られたり書かれたりしてきたが、ここで敏雄の前には一枚の皿が置かれている。おそらくからっぽの白っぽい皿にちがいない。それは自分の心のからっぽでもあったと思われる。皿はせつないほどに空白のまま、しかも割れることなく消えることなく、いつまでも自分のなかに存在しつづけている。皿は時を刻まず、新たにごちそうを盛ることもない。悲しいまでに濁りなく清々しい。「清し」には「潔(いさぎよ)い」という意味もある。万事に潔くないことが堂々とまかり通っている昨今を思う。「清し」という言葉には、八月十五日の敏雄の万感がこめられていただろう。敏雄は句集『まぼろしの鱶』(1966)の後記にこう書いている、「敗戦を境に、世の新たな混乱はまた煩憂を深くさせた」と。「いまも清し」という結句をその言葉に重ねてみたい思いに駆られる。この国/私たちは現在、この「皿」に見掛け倒しの濁った怪しげなものをあからさまに盛りつけようとしてはいないか? 冗談ではなくて、私には「皿」の文字が「血」にも見えたりする。掲出句とならんで、よく知られている句「手をあげて此世の友は来りけり」も収められている。『巡禮』(1979)所収。(八木忠栄)


August 2282007

 ちれちれと鳴きつつ線香花火散る

                           三井葉子

の夜は何といっても花火。今年も各地の夜空に華々しくドッカン、ドッカンひらいた打ち揚げ花火に、多くの観客が酔いしれたことでしょう。それもすばらしいけれども、数人が闇の底にしゃがんでひっそりと、あるいはガヤガヤと楽しむ線香花火にも、たまらない夏の風情が感じられる。「ちれちれ」は線香花火のはぜる音だが、「散れ散れ」の意味合いが重ねられていることは言うまでもあるまい。「ちれちれ」は音として言い得て妙。「散れ」に始まって「散る」に終ることを、葉子は意図していると思われる。そこには「いつまでも散らないで」というはかない願いがこめられている。さらに「鳴きつつ」は「泣きつつ」でもあろうから、いずれにせよこの句の風情には、どこかしらうら寂しさが色濃くたちこめている。時季的には夏の盛りというよりは、もうそろそろ晩夏かなあ。花火に興じているのが子どもたちだとすれば、夏休みも残り少なくなってきている時期である。この句にじんわりとにじむ寂しさは拭いきれないけれど、どこかしらほのぼのとした夏の残り火がまだ辛うじて生きているような、そんな気配も感じとれるところが救いとなっている。あれも花火・これも花火である。葉子は関西在住の詩人だが、はんなりとした艶を秘めた句境を楽しんでいるようだ。「ひとり焚くねずみ花火よ吾(あ)も舞はむ」「水恋し胸に螢を飼ひたれば」などの句もならぶ。『桃』(2005)所収。(八木忠栄)


August 2982007

 鬼灯のひとつは銀河の端で鳴る

                           高岡 修

年の浅草のほおずき市では千成ほおずきが目立った。あれは子どもの頃によく食べたっけ。浅草で2500円で買い求めた一鉢の鬼灯が、赤い袋・緑の袋をつけて楽しませてくれたが、もう終わりである。子どもの頃、男の子も入念に袋からタネを取り出してから、ギューギュー鳴らしたものだったけれど、惜しいところでやたらに袋が破れた。鳴らすことよりも、あわてず入念になかのタネをうまく取り出すことのほうに一所懸命だったし、その作業こそスリリングだった。今も見よう見まね、自分でタネを取り出して鬼灯を鳴らす子がいることはいるのだろう。掲出句を収めた句集には、死を直接詠ったものや死のイメージの濃厚な句が多い。「父焼けば死は愛恋の火にほてる」「死螢が群れ天辺を明かくする」など。女性か子どもであろうか、心ならずも身まかってのち、この世で鳴らしたかった鬼灯を、銀河の端にとどまり銀河にすがるように少々寂しげに鳴らしている――そんなふうに読みとってみると、あたりはシンとして鮮やかに目に映る銀河の端っこで、鬼灯がかすかに鳴っているのが聞こえてくるようだ。その音が銀河をいっそう鮮やかに見せ、鬼灯の鳴る音を確かなものにし、あたりはいっそうシンと静まりかえったように感じられてくる。ここでは「ひとつ」だけが鳴っているのであり、他のいくつかは天辺の果てで鳴っているのかもしれないし、地上のどこかで鳴っているのかもしれない。儚い秋の一夜である。高岡修は詩人でもある。第二句集『蝶の髪』(2006)所収。(八木忠栄)


September 0592007

 片耳は蟋蟀に貸す枕かな

                           三笑亭可楽(七代目)

蟀(こおろぎ)は別称「ちちろむし」とも「いとど」とも。古くは「きりぎりす」とも呼ばれ、秋に鳴く虫の総称でもあったという。今やコンクリートの箱に棲まう者にとって、蟋蟀の声は遠い闇のかなたのものとなってしまった。片耳を「蟋蟀に貸す」といった風流(?)などとっくに失せてしまった今日この頃である。部屋の隅か廊下で、あるいは小さな家の外で、蟋蟀がしきりに鳴いている。まだ寝つかれないまま、寝返りをうっては、聴くともなくその声に耳かたむけている風情である。「枕かな」がみごとであり、素人ばなれした下五ではないか。蚊も蝿も含めて、虫どもはかつて人と共存していた。「片耳はクーラーに貸す枕かな」と、おどけてみたくもなる昨今の残暑である。落語家の可楽は若い頃から俳句を作り、六百句ほどを『佳良句(からく)帳』として書きとめておいた。ところが、あるとき子規の『俳諧大要』を読んだことから、マッチで気前よく自分の句集を燃やしてしまったという。そのとき詠んだ句が「無駄花の居士に恥づべき糸瓜哉」。安藤鶴夫によれば、可楽は色黒で頬骨がとがった彫りの深い顔だけれども、愛敬がなく目が鋭かった。人間も芸も渋かった。そんな男がひとり寝て蟋蟀を聴いているのだ。昭和十九年に自宅の階段から落ちて三日後に亡くなった。行年五十七歳。六〇年代に聴いた八代目可楽の高座もやはり渋くて暗かったけれども、私はそこがたまらなく好きだった。安藤鶴夫『寄席紳士録』(1977)所載。(八木忠栄)


September 1292007

 東京の寄席の灯遠き夜長かな

                           正岡 容

句に「ふるさと」のルビが振ってある。正岡容(いるる)は神田の生まれ。よく知られた寄席芸能研究家であり、作家でもあった。小説に『寄席』『円朝』などがあり、落語の台本も書いた。神田っ子にとっては、なるほど東京はふるさと。しかも旅回りではなく、空襲をよけて今は遠い土地(角館)に来ている。秋の夜長、東京の灯がこよなく恋しくてならない。東京生まれの人間にとって、この恋慕は共感できるものであろう。まして「ふるさと」と呼べるような東京が、まだ息づいていた昭和二十年のことである。敗戦に近く、東京では空襲が激化していた。容は四月、五月の空襲により、羽後の山村に四ヵ月ほど起臥した。さらにその後、角館へ寄席芸術に関する講演に赴いた折、求められて掲出句を即吟で詠んだ。そういう背景を念頭において読むと、「寄席の灯」の見え方もしみじみとして映し出される。人々はせめてひとときの笑いと安息を求めて、その灯のもとに肩寄せあっているはずであり、容にはその光景がくっきりと見えている。もちろん同時期に、「寄席の灯」どころではなく、血みどろになって敗戦末期の戦地を敗走し、あるいは斃れていった東京っ子、空襲の犠牲になった東京っ子も数多くいたわけである。容は句の後に「わが郷愁は、こゝに極まり、きはまつてゐたのである・・・・」と書き付けている。深川で詠んだ「春愁の町尽くるとこ講釈場」「君が家も窓も手摺も朧かな」などの句もある。『東京恋慕帳』(1948)所収。(八木忠栄)


September 1992007

 二人行けど秋の山彦淋しけれ

                           佐藤紅緑

葉狩だろうか。妻と行くのか、恋人と行くのか。まあ、恋多き紅緑自身のことだとすれば後者かも。それはともかく、高々と澄みわたった秋空、陽射しも空気も心地よい。つい「ヤッホー!」と声をあげるか、歌をうたうか、いずれにせよ山彦がかえってくる。(しばらく山彦なんて聴いていないなあ)山彦はどこかしら淋しいひびきをもっているものだが、秋だからなおのこと淋しく感じられるのだろう。淋しいのは山彦だけでなく、山を行く二人のあいだにも淋しい谺が、それとなく生じているのかもしれない。行くほどに淋しさはつのる。春の「山笑ふ」に対して、秋は「山粧ふ」という。たとえみごとな紅葉であっても、「粧ふ」という景色には、華やぎのなかにもやがて衰える虚しさの気配も感じられてしまう。秋の山を行く二人は身も心もルンルン弾んでいるのかもしれないが、ルンルンのかげにある山彦にも心にも、淋しさがつきまとっている。ここは「行けば」ではなくて「行けど」が正解。紅緑が同時に作った句に「秋の山女に逢うて淋しけれ」もある。両方をならべると、「いい気なものだ」という意見も出るかもしれない。されど、紅緑先生なかなかである。紅緑は日本派の俳人として子規に師事したが、俳句の評価はあまり芳しくなく、やがて脚本・小説の世界へ移り、「あゝ玉杯に花うけて」で一世を風靡した。句集に『俳諧紅緑子』『花紅柳緑』があり、死の翌年(1950)に『紅緑句集』が刊行された。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 2692007

 大花野お尋ね者の潜むなり

                           三沢浩二

の草花が咲き乱れている広大な野である。いちめんの草花に埋もれるようにしてお尋ね者が潜んでいるという、ただそれだけのことだが、この「お尋ね者」を潜ませたところに作者の手柄がある。今はあまり聞かない言葉だけれど、読者はその言葉に否応なくとらえられてしまう。昔も今も世を憚るお尋ね者はいるのだ。さて、いかなるお尋ね者なのかと想像力をかきたてられる。そのへんの暗がりや物陰に潜む徒輩とちがって、大花野が舞台なのだから大物で、もしかして風流を解する徒輩なのかもしれない。そう妄想するとちょっと愉快になるけれど、なあに小物が切羽詰って逃げこんだとする解釈も成り立つ。草花が咲き乱れている花野はただ美しいだけでなく、どこかしら怪しさも秘めているようでもある。浩二は岡山県を代表する詩人の一人だった。「お尋ね者」に「詩人」という“徒輩”をダブらせる気持ちも、どこかしらあったのかもしれない――と妄想するのは失礼だろうか。年譜によると、浩二は昨年七十五歳で亡くなるまでの晩年十年間ほど俳句も作り、俳誌で選者もつとめた。追悼誌には自選238句が収録されている。掲出句の次に「悪人来菊人形よ逃げなさい」という自在な句もならぶ。橋本美代子には「神隠るごとく花野に母がゐる」の句がある。この「母」は多佳子であろう。花野には「お尋ね者」も「母」も潜む。「追悼 詩人三沢浩二」(2007)所載。(八木忠栄)


October 03102007

 地下鉄に下駄の音して志ん生忌

                           矢野誠一

今亭志ん生が、八十三歳で亡くなったのは一九七三年九月十一日。したがって、掲句はここでは少々タイミングがズレてしまったわけだが、まあ、志ん生に免じてお許し願いたい。作者は志ん生の法要へ向かう際、地下鉄の階段で行きあった人の下駄の音を聞いて、故人への懐かしい思いを改めて強くした。あるいは法要とは関係なく、ある日地下鉄の階段から響いてくる下駄の音を聞いたとき、元気な頃に下駄で歩いていた志ん生をふと思い出した。あッ、今日は志ん生の命日だよ! どちらの解釈も許されていいだろうが、いずれにせよ作者の並々ならぬ故人への親愛の情が、下駄の音にからみながら響いてくる。地上はようやく秋の涼しい空気におおわれてきた。地下鉄の空気さえもどこやらひんやりと澄んで感じられて、下駄の音もいつになく心地よい。まるで志ん生の落語の磊落な世界に、身をゆだねているような心地であったのかもしれない。下駄の甲高い音と志ん生独特の高い声が重なる。志ん生も「声色やコーモリ傘の日より下駄」という下駄の句を詠んでいる。永井荷風の姿がちらつく。誠一には『志ん生のいる風景』(青蛙房)『志ん生の右手』(河出文庫)他がある。東京やなぎ句会での俳号は徳三郎。誠一は「あの人は晩年は貧乏でなかったはずだけど、いくらお金ができてもそれらしい生活っていうのは似合わない人だった」(小沢昭一との対談)と志ん生を語っている。『友あり駄句あり三十年』(1999)所載。(八木忠栄)


October 10102007

 障子洗ふ上を人声通りけり

                           松本清張

時記には今も「障子洗ふ」や「障子の貼替」は残っているけれど、そんな光景はごく限られた光景になってしまった。私などが少年の頃は、古い障子を貼り替えて寒い季節をむかえる準備を毎年手伝わされた。古くなった障子を指で思い切りバンバン突いて破って、おもしろ半分にバリバリ引きはがした。本来、破いたりはがしたりしてはならない障子を、公然と破く快感。そして川の水でていねいに桟を洗って乾かし、ふのりを刷毛で多すぎず少なすぎず桟に塗り、巻いた障子紙をころがしながら貼ってゆく作業を母親から教わった。なかなかうまく運ばない。でも変色した障子にかわって、真ッ白い障子紙が広がってゆく、その転換は新鮮な驚きを伴うものだった。掲句は道路から数段降りた川べりの洗い場での作業であろう。「上を」という距離感がいい。正確には「障子戸」を洗っているわけだ。一所懸命に作業をしている人に、上の道路を通り過ぎて行く人が声をかけているという図である。「ご精が出ますねえ」とか「もうすぐ寒くなりますなあ」とでも声をかけているのだろう。その作業を通じて、作業をする人も声をかける人も、ともにこれからやってくる寒い季節に対する心の準備を、改めて確認している。同時にある緊張感も伝わってくる。あわただしいなかにも、のんびりとしてかよい合う心が感じられる。松本清張が残した俳句は少ないそうだが、ほかに「子に教へ自らも噛む木の芽かな」という句もある。いずれも、推理小説とはちがった素朴な味わいがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 17102007

 あ そうかそういうことか鰯雲

                           多田道太郎

太郎が、余白句会(1994年11月)に初めて四句投句したうちの一句である。翌年二月の余白句会に、道太郎ははるばる京都宇治から道を遠しとせずゲスト参加し、のちメンバーとなった。当時の俳号:人間ファックス(のち「道草」)。掲出句は句会で〈人〉を一つだけ得た。なぜか私も投じなかった。ご一同わかっちゃいなかった。その折、別の句「くしゃみしてではさようなら猫じゃらし」が〈天〉〈人〉を獲得した。私は今にして思えば、こちらの句より掲出句のほうに愛着があるし、奥行きがある。いきなりの「あ」にまず意表をつかれた。そして何が「そうか」なのか、第三者にはわからない。つづく「そういうことか」に到って、ますます理解に苦しむことになる。「そういうこと」って何? この京の都の粋人にすっかりはぐらかされたあげく、「鰯雲」ときた。この季語も「鯖雲」も同じだが、扱うのに容易なようでいてじつは厄介な季語である。うまくいけば決まるが、逆に決まりそうで決まらない季語である。道太郎は過不足なくぴたりと決めた。句意はいかようにも解釈可能に作られている。そこがしたたか。はぐらかされたような、あきらめきれない口惜しさ、拭いきれないあやしさ・・・・七十歳まで生きてくれば、京の都の粋人にもいろんなことがありましたでしょう。はっきりと何も言っていないのに、多くを語っているオトナの句。そんなことどもが秋空に広がる「鰯雲」に集約されている。「うふふふ すすき一本プレゼント」他の句をあげて、小沢信男が「この飄逸と余情。初心たちまち老獪と化するお手並み」(句集解説)と書く。老獪じつに老獪を解す! 信男の指摘は掲出句にもぴったしと見た。『多田道太郎句集』(2002)所収。(八木忠栄)


October 24102007

 鈴虫の彼岸にて鳴く夜もありき

                           福永武彦

リーン、リリーン、あんなに美しい声で鳴く鈴虫の、美しくない姿そのものは見たくない。声にだけ耳かたむけていたい。初めてその群がる姿を見たときは信じられなかった。『和漢三才図会』には「夜鳴く声、鈴を振るがごとく、里里林里里林といふ」とある。「里里林里里林」の文字がすてきに響く。晩年は入退院が多かったという武彦は、体調によっては「彼岸」からの声として聴き、あるいは自分もすでに「彼岸」に身を横たえて、聴いているような心境にもなっていたのかもしれない。彼の小説には、死者の世界から現実を見るという傾向があり、彼岸の鈴虫というのも考えられる発想である。「みんみんや血の気なき身を貫徹す」という句もあるが、いかにも武彦らしい世界である。虫というのはいったいに、コオロギにしても、バッタにしても、カマキリにしても、可愛いとか美しいというよりは、よくよく観察してみればむしろグロテスクなスタイルをしている。ならば「彼岸」で鳴く虫があっても不思議はなかろう、と私には思われる。武彦は軽井沢の信濃追分に別荘があり、毎夏そこで過ごした。「ありき」ゆえ、さかんに鳴いていた頃の夜を思い出しているのだろう。「鈴虫」の句も「みんみん」の句も、信濃追分の早い秋に身を置いて作られたものと思われる。いや、季節の移り変わりだけでなく、生命ある人間の秋をもそこに敏感に見通しているようである。詩人でもあったが、短歌や俳句をまとめた「夢百首雑百首」がある。結城昌治『俳句は下手でかまわない』(1997)所載。(八木忠栄)


October 31102007

 無駄だ、無駄だ、/大雨が/海のなかへ降り込んでいる

                           ジャック・ケルアック

藤和夫訳。原文は「Useless,useless,/theheavyrain/Drivingintothesea」の三行分かち書きである。特に季語はないけれど、秋の長雨と関連づけて、この時季にいれてもよかろう。たしかに海にどれほどの大雨や豪雨が降り込んだところで、海はあふれかえるわけではなく、びくともしない。それは無駄と言えば無駄、ほとんど無意味とも言える。ケルアックは芭蕉や蕪村を読みこんでさかんに俳句を作った。アレン・ギンズバーグ同様に句集もあり、アメリカのビート派詩人の中心的存在だった。掲出句を詠んだとき、芭蕉の「暑き日を海に入れたり最上川」がケルアックの頭にあったとも考えられる。この「無駄だ・・・」は、単に海に降りこむ大雨の情景を述べているにとどまらず、私たちが日常よくおかすことのある「無駄」の意味を、アイロニカルにとらえているように思われる。その「無駄」を戒めているわけでも、奨励しているわけでもなさそうだけれども、「無駄」を肯定している精神を読みとらなくてはなるまい。この句はケルアックの『断片詩集(ScatteredPoems)』に収められている。同書で俳句観をこう記している。「(俳句は)物を直接に指示する規律であり、純粋で、具象的で、抽象化せず、説明もせず、人間の真のブルーソングなのだ」。これに対し、自分たちビート派の詩は「新しくて神聖な気違いの詩」と言って憚らないところがおもしろい。佐藤和夫『海を越えた俳句』(1991)所載。(八木忠栄)


November 07112007

 秋風や甲羅をあます膳の蟹

                           芥川龍之介

書に「室生犀星金沢の蟹を贈る」とある。龍之介と仲良しだった犀星が越前蟹でも贈ったものと思われる。夏の蟹のおいしさも侮れないけれども、秋風が吹く向寒の季節になると、蟹の身が一段とひきしまっておいしさを増す。食膳にのった蟹は大きいから、皿からはみ出してワンザとのっている。越前蟹は脚が長いので、甲羅が大きければなおのこと大きい。蟹の姿がいかにも豪快な句である。外は秋の風が吹きつのっているのだろうが、視線は膳の上にのった蟹に注がれて釘付けになり、思わず「おお!」と感嘆の声をあげているにちがいない。北陸の秋の厳しい海のうねりが、膳の上にまで押し寄せてきているようだ。贈り主に対する感謝の思いもそこに広がっている様子が、「甲羅をあます」に見てとれる。同時に「・・・・あます」の一語によって、まだ生きているかのように蟹のイキのよさも感じられる。蟹をていねいにほじりながら、犀星のことを思ったりして、酒も静かに進む秋の夕餉であろう。私事で恐縮だが、新潟の寺泊へ出かけると、必ず蟹ラーメンを好んで食べる。ズワイガニがまたがる姿で、ワンザとのったラーメンが運ばれてくる。食べる前にしばし目を細めて堪能する一時はたまらない。龍之介の句も、まずは堪能しているのだろう。秋風といえば「秋風や秤にかゝる鯉の丈」という一句もならんでいる。いずれも、食べる前に目でじっくり味わって、「さあて、食うぞ!」という気持ちが伝わってくる。『芥川龍之介句集 我鬼全句』(1976)所収。(八木忠栄)


November 14112007

 柿ひとつ空の遠きに堪へむとす

                           石坂洋次郎

多分にもれず、私も高校時代に「青い山脈」を読んだ。あまりにも健康感あふれる世界だったことに、むしろくすぐったいような戸惑いを覚えた記憶がある。今の若者は「青い山脈」も石坂洋次郎の名前も知らないだろう。秋も終わりの頃だろうか、柿がひとつ枝にぽつりととり残されている。秋の空はどこまでも高く澄みきっている。それを高さではなく「空の遠き」と距離でとらえてみせた。柿がひとつだけがんばって、遠い空に堪えるがごとくとり残されているという風景である。とり残された柿の実にしてみれば、悠々として高見からあたりを睥睨しているわけではなく、むしろ孤独感に襲われているような心細さのほうが強いのだろう。しかも暮れてゆく秋は寒さが一段と厳しくなっている。その柿はまた、売れっ子だった洋次郎にとってみれば、文壇にあって、ときに何やら孤独感に襲われるわが身を、空中の柿の実に重ねていたようにも考えられる。よく聞く話だが、柿をひとつ残らず収穫してしまうのではなく、二、三個枝に残したままにする。残したそれらは鳥たちが食べる分としてつつかせてやる――そんなやさしい心遣いをする人もあるという。近年は鈴なりの柿も、ハシハシと食べる者がいなくなって、熟柿となって一つ二つと落ちてしまう。田舎でも、そんなことになっているようだ。ところで、寺田寅彦にかかると「柿渋しあはうと鳴いて鴉去る」ということになる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 21112007

 秋風や屠られに行く牛の尻

                           夏目漱石

正元年(1912)、漱石四十五歳の時の作。四年後に胃潰瘍で亡くなるわけだが、晩年に近い作であることを考慮に入れると、味わいも格別である。屠(ほふ)られに行く牛は、現在だったらトラックに何頭も乗せられている。モーと声もあげず神妙にして、どことなく不安げな表情で尻を並べて運ばれて行くのを目撃することがある。当時もすでにトラックで運んでいたのだろうか。どうやら漱石は実景を詠んだわけではなさそうだ。その年の秋に痔の手術をした、そのことを回想したものである。もともと胃弱で、1910年から1913年頃は胃潰瘍で入退院をくり返していた。修善寺の大患もその頃である。胃弱に加えて痔疾とは、漱石先生も因果なことであった。この場合の「牛の尻」はずばり「漱石の尻」であろう。牛を見てもつい尻のほうへ目が行ってしまった。文豪であるおのれを、秋風のなかの命儚い哀れな牛になぞらえて戯画化してみせたあたり、さすがである。文豪だって痔には勝てない。哀愁と滑稽とがまじりあって、漱石ならではの妙味がただよう秀句。胃弱であるにもかかわらず、油っこい洋食を好み、暴飲暴食していたというからあっぱれ。おのれの胃弱を詠んだ句「秋風やひびの入りたる胃の袋」も「骨立(こつりつ)を吹けば疾(や)む身に野分かな」もよく知られている。いずれもおのれをきちんと対象化している。今年九月から江戸東京博物館で開催されていた「文豪・夏目漱石」展は、つい先日十一月十八日に終了した。なかなか見ごたえのある内容でにぎわった。『漱石全集』第12巻(1985)所収。(八木忠栄)


November 28112007

 ひといきに葱ひん剥いた白さかな

                           柳家小三治

ういう句は、おそらく俳人には好かれないのだろう。しかし、いきなり「ひといきに」「ひん剥」く勢いと少々の乱暴ぶりは、気取りがなく率直で忘れがたい。しかもそれを「白さ」で受けたうまさ。たしかに葱の長くて白い部分は、ビーッと小気味よく一気にひん剥いてしまいたい衝動に駆られる。スピードと色彩に加えて、葱独特のあの香りがあたりにサッと広がる様子が感じられる。台所が生気をとり戻して、おいしい料理(今夜は鍋物でしょうか?)への期待がいやがうえにも高まるではないか。ある有名俳人に「・・・象牙のごとき葱を買ふ」と詠んだ句があるけれど、白さの比喩はともかく、象牙では硬すぎて噛み切れず、立派すぎてピンとこない。葱の名句は、やはり永田耕衣の「夢の世に葱を作りて寂しさよ」だと、私は決めこんでいる。掲出句には、高座における小三治のシャープで、悠揚として媚を売らず、ときに無愛想にも映る威勢のよさとも重なっているところが、きわめて興味をそそられる。ひといきにひん剥くような威勢と、際立った色彩と香りを高座に重ねて楽しみたい。小三治は「東京やなぎ句会」の創立メンバーで、俳号は土茶(どさ)。俳句についてこう語っている。「俳句ですか。うまくなるわけないよ。うまい人は初めからうまいの。長くやってるからってうまくはならないの。達者になるだけよ。(中略)これからの私は下手でいいから自分に正直な句を作ろうと考えています。ところが、これが難しいんだよね」。よおっくわかります。呵呵。『友あり駄句あり三十年』(1999)所載。(八木忠栄)


December 05122007

 木枯や煙突に枝はなかりけり

                           岡崎清一郎

京では今年十一月中旬に木枯一号が記録された。暑い夏が長かったわりには、寒気は早々にやってきた。さて、煙突に枝がないのはあたりまえ――と言ってしまうのは、子供でも知っている理屈である。この句には大人ならではの発見がある。さすがに清一郎、木枯のなかで高々と突っ立っている煙突を、ハッとするような驚きをもって新たに発見している。そこに「詩」が生まれた。木枯吹きつのるなかにのそっと突っ立っている煙突、その無防備な存在感に今さらのように気づかされている。文字通り手も足も出ない。木枯の厳しさを、無防備な煙突がいっそう際立たせているではないか。突っ立っている煙突に、人間の姿そのものを重ねて見ているのかもしれない。木枯を詠んだ句がたくさんあるなかで、清一郎のこの句は私には忘れがたい。昭和十一年に創刊された詩人たち(城左門、安藤一郎、岩佐東一郎、他)による俳句誌「風流陣」に発表された。「清一郎の夫人行くなり秋桜」という洒落た句も清一郎自身が詠んでいる。ユーモアと奇想狂想の入りまじったパワフルな詩を書いた、足利市在住の忘れがたい異色詩人であった。小生が雑誌編集者時代に詩を依頼すると、返信ハガキにとても大きな字で「〆切までに送りましょうよ」と書き、いつも100行以上の長詩をきちんと送ってくださった。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 12122007

 不二筑波一目に見えて冬田面

                           三遊亭円朝

うまでもなく「不二」は「富士」、「筑波」は「筑波山」である。「田面」は「たづら」と読む。野も山も冬枯れである。不二の山や筑波山がはるかに一望できて、自分が立っているすぐ目の前には、冬枯れの田が寒々しく広がっている。葛飾北斎の絵でも見るような、対比が鮮やかで大きな句である。風景としてはここに詠まれているだけのものだろうが、明治の頃である。平野部からの当時の見晴らしのよさは言うまでもあるまい。“近代落語の祖”と呼ばれる名人円朝には、入りくんだ因縁噺で構成された数々の大作がある。噺の舞台となる各地へはいちいち実際に赴いて、綿密に調査して書きあげたことで知られる。代表作「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」「塩原多助一代記」「鰍沢」などは、いずれもそうした成果を示している。「福禄寿」という噺は、北海道へまで踏査の足をのばしている。掲出句が詠まれた場所は、関東のどこか広々とした農村あたりを踏査している道すがら、ふと視野に入ったものと思われる。永井啓夫の名著『三遊亭円朝』(青蛙房)の巻末には、著者が集めた円朝の百十二句のうち百句が収められている。それらの句は発表する目的ではなく、紀行日記や書簡などに書きとめていたものゆえ、作為や虚飾のない句が多い。「はつ夢や誰が見しも皆根なし草」「また元の柱に寄りぬ秋の夕」。辞世の句は「眼を閉(とぢ)て聞き定めけり露の音」。明治三十三年、六十二歳で亡くなった。『三遊亭円朝』(1962)所収。(八木忠栄)


December 19122007

 ポストへ行く風尖らせる冬の月

                           岡本千弥

い冬の夜。そんなに急ぐなら、明朝早々にポストへ投函に行ったらよかろう、と言う人がいるかもしれない。しかし、朝早くといっても、人にはいろいろ事情がある。寒いとはいえ今夜のうちにポストへ、という人もあって当然。気が急いている手紙なのかもしれない。この句は「ポストへ行く」で切れる。凍るような月が、冬の夜風を一段と厳しく尖らせている。あたかも刃のように尖って感じられるのだろう。満月が耿々と照っているというよりは、刃のごとく月は鋭く尖っているのかもしれない。中途半端な月ではあるまい。どんな内容の手紙かはわからないが、この句から推察すれば、穏かなものでないほうがふさわしいように思われる。手紙の内容も、それを携えてポストへ向かう人の姿も、風も、月も、みな一様に尖っているように感じられる冬の夜。ポストも寒々しい様子で寒気に堪えて突っ立っているにちがいない。ファクシミリやインターネットの時代には、稀有な光景となってしまった。「春の月」や「夏の月」では、手紙の内容も「冬の月」とちがったものとして感じられる。そこに俳句の凄さがある。「冬〇〇」とか「冬の〇」という季語はじつに多い。普段、手軽に使っている歳時記には77種類も収められている。もっとも「冬の・・・」とすればきりがないわけだけれど。千弥の場合は、岡本文弥が与えた新内節の芸名が、そのまま俳号になった。「12月、透きとおる月の女かな」という句もある。句集『ぽかん』(2000)所収。(八木忠栄)


December 26122007

 下駄買うて箪笥の上や年の暮

                           永井荷風

や、こんな光景はどこにも見られなくなったと言っていい。新年を迎える、あるいはお祭りを前にしたときには、大人も子供も新しい下駄をおろしてはくといった風習があった。私たちが今、おニューの靴を買ってはくとき以上に、新しい下駄をおろしてはくときの、あの心のときめきはとても大きかったような気がする。だって、モノのなかった当時、下駄はちびるまではいてはいてはき尽くしたのだもの。そのような下駄を、落語のほうでは「地びたに鼻緒をすげたような・・・」と、うまい表現をする。私の地方では「ぺっちゃら下駄」と呼んでいた。♪雨が降るのにぺっちゃら下駄はいて・・・と、ガキどもは囃したてた。さて、「日和下駄」で知られる荷風である。新年を前に買い求めた真新しい下駄を箪笥の上に置いて眺めながら、それをはきだす正月を指折りかぞえているのだろう。勘ぐれば、同居している女の下駄であるかもしれない。ともかく、まだはいてはいない下駄の新鮮な感触までも、足裏に感じられそうな句である。下駄と箪笥の取り合わせ。買ったばかりの下駄を、箪笥の上に置いておくといった光景も、失われて久しい。その下駄をはいてぶらつくあらたまの下町のあちこち、あるいは訪ねて行くいい人を、荷風先生にんまりしながら思い浮かべているのかもしれない。あわただしい年の暮に、ふっと静かな時間がここには流れている。「行年に見残す夢もなかりけり」も荷風らしい一句である。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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