@句

July 0672007

 落蝉の眉間や昔見しごとく

                           山口誓子

ちて転がっている蝉を拾い、その眉間(みけん)に見入る。ああ、昔見たようだとふと思う。そういう句だ。「見し」ではなくて「見しごとく」なので、はっきり記憶にあるわけではない。見たような感じがするということ。この句を郷愁の句ととることも出来る。蝉捕りをした頃の「昔」の回想。それにしても、蝉の眼と眼の間の距離、色彩、形状。どこにも従来の郷愁的、俳句的情緒のかけらもない。芭蕉の「さまざまのこと思ひ出す桜かな」あたりが一般的抒情のお手本になったからみんな花鳥風月の桜や鶯や風や月の抒情を利用して回顧のシーンや心情に移行するわけだ。ここにはその「典型」がない。日常の瞬間の即物的風景を入口にして、そこから個人的体験へ入っていく。僕はこの句に既視感(デジャ・ブ)をみる。死んだ蝉の眉間にぐんぐん接近するにつれて、カメラは存在の不安ともいうべきものを映し出す。「昔見たような感じ」から「自分がここにこうして在る不思議」へと至るのだ。このカメラワークには世界のクロサワもかなわない。俳句形式でなければ描けない固有の衝撃力がここにはある。存在の不安は即物非情と称せられる誓子作品に一貫しているものであって、それは子規が発案したときに「写生」という方法がもともと持っていた最大の特徴というふうに僕は思うのだが。『遠星』(1947)所収。(今井 聖)


July 1372007

 ほととぎす大竹藪をもる月夜

                           松尾芭蕉

和三十年代、鳥取市の小学校に通っていた頃、借家はぼろぼろの木造二階建。部屋の土壁が剥落しているような状態で、雨が降ると家の中のいたるところで雨漏りがした。裏には百坪ほどの畑があり、その向こうに大きな竹薮があった。夏は蚊が大量に出て当時流行した日本脳炎を恐れたものだ。二階から見た月はきれいだった。竹薮の彼方に大きな一本の杉があり、その上に月は昇った。小学校の国語の時間で俳句を習った。教科書だったか、副読本だったかにこの句が出ていた。僕はこの句の「もる」を当時、「盛る」だと思ったものだ。月夜が竹薮を盛っている。まるでしゃもじで飯を盛るように。月光がしゃもじだ。貧しかった時代で大盛りのご飯に憧れがあったのかもしれない。とにかく、月光のしゃもじが大竹藪を掬って盛る。すごい句だな。俳句って、芭蕉ってすごいな。そう思った。やがて中学生になって、この「もる」が「洩(漏)れる」の意味だとわかる。月光が竹薮を漏れているのだ。この句が急につまらない句に見えてきた。この程度なら俺にもできる。そう思って初めて一句作り学習雑誌の投稿欄に投句した。中学二年生の春。俳句を始めたのは芭蕉さんのこの句のおかげだ。そんなに早く俳句を作り始めたのが良かったのか悪かったのかわからないけど。日本古典文学大系『芭蕉句集』(1988)所載。(今井 聖)


July 2072007

 工女帰る浴衣に赤い帯しめて

                           富安風生

前の結婚年齢を考えれば「工女」はまずハイティーンまで。十四、五歳くらいが多かったのかもしれぬ。これは、働く少女たちの可憐さを詠んだ句だ。連れ立った工女たちはどこへ帰るのか。工場のある町の夏祭などの風景なら、工場の寮に帰るのだろう。作者はそれをどういう心境で見ているのか。働く若い健康な肉体の美しさを讃えつつ、それに対する慈愛の眼差しがここにはある。作者は高級官僚だったから、ひょっとしたら、こういう少女たちのためにもいい社会をつくらなければならないと思ったかもしれない。現実の政治機構を肯定し、その機構の内部から大衆を啓蒙し導く立場に立った上での「工女帰る」の感慨である。同じ風景を小林多喜二や石川啄木が見たらどう詠むだろうか。啓蒙する側とされる側、管理する側とされる側の区分を、人は致し方なく受け入れるのか、無自覚に受け入れるのか、受け入れがたいとして抗うのか。「工女」という言葉をみるだけで、「女工哀史」を思ってしまう僕は、どうも明るい健康なロマンから離れた複雑な思いをこの風景に感じてしまう。講談社版『日本大歳時記』(1982)所載。(今井 聖)


July 2772007

 一瀑を秘めて林相よかりけり

                           京極杞陽

えない滝を詠んでいる。目の前に林が広がる。滝音でもするのか、それとも滝はおそらくあると作者は推測しているのか。五感を通して直接感受したことや、感覚を通しての推測ならば、この「秘めて」は「写生」から逸脱しないが、その林の中に滝が存在するという事実を知識として持っているということだと理屈の勝った句になる。この「秘めて」は前二者のどちらかにとりたい。林相(りんそう)とは聞きなれない言葉だ。あるいは専門用語か。それにしても林の美しさを言うのに実に的確な言葉ではある。「祭笛吹くとき男佳かりける」(橋本多佳子)笛を吹く男の姿に見惚れる感覚と林の姿に美しさを感じる感覚はどこか似ている。三十数年前大学受験の折に農学部林学科というのを受けたことがある。獣医学科だの農芸化学科だのの農学部の他の学科よりは競争率が低かったのと、「林は国策の根幹である」だったか「林は地球の縮図である」だったかの言葉をどこかで見て興味を持っていたせいだ。そのときのこの学科は競争率1.8倍だったが、見事に落ちてしまった。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


August 0382007

 焼酎や頭の中黒き蟻這へり

                           岸風三楼

れは二日酔いの句か、アルコール依存症の症状から来る幻を描いた句のように思える。まあ二日酔いならば「焼酎や」とは置かないと思うので後者だと思う。幻影と俳句との関係は古くて新しい。幻影を虚子は主観と言った。主観はいけません、見えたものをそのまま写生しなさいと。思いはすべて主観、すなわち幻影であった。だから反花鳥諷詠派の高屋窓秋は「頭の中で白い夏野となつてゐる」を書いて、見えたものじゃなくても頭で思い描いた白い夏野でもいいんだよと説いてみせた。窓秋の白い夏野も、この句の黒き蟻も幻の景だが、後者はこの景がアルコールによって喚起されたという「正直」な告白をしている。実際には「見えない」景を描くときは、なぜ見えない景が見えたのかの説明が要ると思うのは、「写生派」の倫理観であろう。西東三鬼の「頭悪き日やげんげ田に牛暴れ」はどうだ。この牛も、頭痛などで頭の具合が悪い日の幻影に思える。イメージがどんな原因によって喚起されようと、表現された結果だけが問題だと思うが、そうすると薬物を飲んで作ってもいいのかという最近の論議になる。これも文学、芸術の世界での古くて新しい課題。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


August 1082007

 うつくしや雲一つなき土用空

                           小林一茶

心者だった頃は俳句に形容詞を使わないようにと指導される。悲しい、うれしい、楽しい、美しい。言いたいけれども、言ってはいけない。固く心に決めてこれらの語には封印をする。嫌うからには徹底的に嫌って、悪役扱いまでする。これが、どうにかベテランと言われる年代に来ると、この河豚の肝が食べてみたくなる。心情を自ら説明する修飾語を使うというハンデを乗り越えて、否、その欠点を逆手にとって、満塁ホームランを打ってみたくなる。一茶には「うつくしや障子の穴の天の川」もある。二句とも平明、素朴な庶民感覚に溢れていて良い句だ。「雁や残るものみな美しき」これは石田波郷。去るものと残るものを対比させ、去るものの立場から見ている。複雑な心情だ。雲一つない空の美しさは現代人が忘れてしまったもの。都市部はむろんのこと、農村部だって、アスファルトも電柱もなく軒も低い昔の空の美しさとは比較にならない。今住んでいる横浜から、定期的に浜松に行っているが、行くたびに霧が晴れたように風景がよく見える。最初気のせいかと思ったが、毎回実感するので、実際そうなのだろう。いかに都市の空気が汚染されているかがわかる。失われた空の高さ、青さを思わせてくれる「うつくしや」だ。平凡社『ポケット俳句歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


August 1782007

 膝抱けば錨のかたち枇杷熟れる

                           坪内稔典

、海軍、滅亡、沈没、死者、敗戦、夏・・・というふうに日本人の連想は続く。夏と敗戦のつながりは決定的で、夾竹桃や百日紅からもすぐ敗戦を連想する人さえいる。そういう日本人がいなくなる未来はどのくらい経ったらやってくるのだろう。テレビの街頭インタビューで日本がアメリカと戦ったということすら知らない若者が何人もいたが、これはにわかには信じがたい。日本人の大学進学率は確か七十パーセントを超える。第二次大戦は言わずもがな、ポツダム宣言あたりを知らなければ大学はおろか、有名私立中学にも受からない。あのテレビはやらせだ。この句は日本人の苦い連想の上に立っている。「膝抱けば」は死者の姿勢。沈んでいる遺骨への思い。同じ句集の中の「赤錆のわたしは錨草茂る」も同様の内容。この句では、陸の上にある見えている錨が描かれる。わたし即ち錨という発想だが、草茂るもあるし、わたし、日本人、戦争、夏、というイメージからは離れられない。作者もその効果を承知で構成している。錨即ち海軍。どうも帝国海軍は知的であったのに帝国陸軍が横暴で敗戦必定の戦争に持ち込んだという論議が一般的だ。ほんとにそうかなあ。海軍もめちゃくちゃな作戦で多くの海戦をやったように思える。今から見れば。『月光の音』(2001)所収。(今井 聖)


August 2482007

 みづうみの水のつめたき花野かな

                           日野草城

体形で何々かなに掛ける。虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」もある。つめたいのは花野ではなくて水。日が当っているのは枯野ではなくて遠山である。最近では岸本尚毅の「手をつけて海のつめたき桜かな」も同様。こういう用法と文体はいつの時代に誰が始めたのだろう。何だって最初はオリジナルだったのだ。起源を知りたいとは思うがわかっても実作にはつながらない。自分のオリジナルを作りたい実作者にとっては用法の起源はあまり意味を持たない。古い時代の用法をたずねて今に引いてくるのは昔からよくあるオリジナルに見せかける常道である。新しい服をデザインする発想に行き詰ったら、そのとき古着のデザインに習えばいいと思うのだが。この句、水と花野の質感の対比、みづうみと花野の大きさの対比。二つの要素の対比、対照によって効果を出している。草城のモダニズムは自在にフィクションを構成してみせたが、誓子や草田男のように、文体そのもののオリジナルに向ける眼差しは無かった。そこが、草城作品の「俗」に寄り添うところ。そこに魅力を感じる人も多い。講談社『日本大歳時記』(1983)所載。(今井 聖)


August 3182007

 その母もかく打たれけり天瓜粉

                           仲 寒蝉

ん坊が素裸で天瓜粉を全身に打たれている。泣いているか、笑っているか。いい風景だ。赤ん坊よ、お前に粉を打っている母もお前のような頃があって、そうやって裸の手足を震わせたのだ。時間の長さの中を、現実と過去とが交錯する。一人の赤ん坊の姿に多重刷りのように時間を超えて何人もの「赤ん坊」が重なる。たったひとりの笑顔に無数の「母」の顔が浮かびあがる。村上鬼城の「生きかはり死にかはりして打つ田かな」。齊藤美規の「百年後の見知らぬ男わが田打つ」も同様。鬼城は百姓という存在の無名性を詠い、美規は「血」というものの不思議から「自分」の不思議へと思いを深める。三句とも「永遠」がテーマである。ところで、或る句会で、「汗しらず」と下五に置かれた俳句があった。汗を知らないという意味にとったら、これはひとつの名詞。天瓜粉のことであった。歳時記にも出ているので、俳人なら知っておくべきだったと反省したが、「天瓜粉」でさえ、僕らの世代でも死語に近いのに、「汗しらず」なんて使うのはどんなもんだろう。まあ、そんなことを言えば、「浮いて来い」だの「水からくり」なんかどうだ。「現在ただ今」の自分や状況を詠もうとする俳人にはとても使えない趣味的な季題である。『海市郵便』(2004)所収。(今井 聖)


September 0792007

 団栗を拾ひしあとも跼みゐる

                           石田郷子

べられるわけでもなく、団栗を拾うことにはさしたる現実的な意味はない。子供が遊びのために拾うか、大人がなんとなく拾うか。これを前者、子供の動作と受け取ると平凡な風景だろう。遊ぶために団栗を拾っている子供が、その姿勢のまま、虫の動きやら別の植物やら地上のもろもろの様子に気づいて見入っている。そこには子供の好奇心の典型があるだけで新鮮な詩情は感じられない。僕は後者、大人の句と取りたい。考えごとをしながら俯き加減に歩いていて、ふと、散らばっている団栗に目をやる。男は一瞬考えごとを中断して跼(かが)み込み、一個の団栗を手にする。手にした後、かがんだまま、またもとの思考の中に戻るのである。人間の動作の多くは合理性の中で行われるわけではない。日常的行動の端々は不合理や非条理に満ち満ちている。この句のようなひとつのカットが人間というものの複雑さを浮き彫りにする。『石田郷子作品集1』(2005)所収。(今井 聖)


September 1492007

 颱風の蝉を拾へば冷たかり

                           佐野良太

の死んでいる姿には、哀れというより、どこか志を果たし得たような印象がある。地上に出てくるだけでも大変なのにという思いが重なるからだ。颱風が原因で死んだわけではないから、蝉に同情することはない。颱風も蝉の死も自然の営為が粛々と進行しているにすぎない。蝉の亡骸の冷たさもまた。この句、そういう意味では即物非情の句というべきだろう。表記を分析すれば、颱風、蝉、冷と季語が三つ入っている。一句に季語が一つという「原則」をうるさく言い出したのは、むしろ近年のことだ。子規も虚子もこれについては比較的寛容だったはず。自身の作も含めて。表記のことでもう一つ。「拾へば」があるが、何々すれば、という条件の「ば」を使わないよう指導する指導者も多い。条件の「ば」を使うと往々にして原因と結果を強調する内容となり、散文化して俳句の特性が薄れるというのがその理由である。季語を二つ以上使うと往々にして焦点が分散して散漫になるからなるべく使わぬ方が無難だという指導。「ば」を使うと往々にして散文化するからなるべく使わぬ方が無難だとする指導。「なるべく」と「無難」が重なっていつの間にかタブーになる。俳句にはそんなタブーがいっぱいある。タブーが多いと俳句は芸事化(或いはゲーム化)し、一番得をするのは、タブーを避けて「無難」化する技術に長けた師匠とベテランということになる。かくて、タブーの多用はヒエラルヒーの安泰につながっていく。最近は、季語一つの「原則」を逆手にとって、一句に季語を二つ入れることに腐心する俳人もいると聞くがこれもどうか。タブーをつくることと同様、そんな「技術」にも事の本質はないのではないか。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


September 2192007

 汝を泣かせて心とけたる秋夜かな

                           杉田久女

分の心の暗部を表白する俳句が、大正末期の時代の「女流」に生まれていたのは驚くべきことである。厨房のこまごまを詠んだり、自己の良妻賢母ぶりを詠んだり、育ちの良い天真爛漫ぶりを演じたり、少し規範をはみ出すお転婆ぶりを詠んだり、当時のモガ(モダンガール)を気取ったりの作品は山ほどあるけれど、それらは、どれも「男」から見られている「自分」を意識した表現だ。それは当時の女流の限界であって、そういう女流を求めていた男と男社会の責任でもある。今においては、「女流」なんて言い方は時代錯誤と言われそうだが現代俳句においてどれほど意識は変革されたのか。ここからここまでしか見ないように、詠わないようにしましょうと啓蒙し、自分は自在に矩を超えて詠んだ啓蒙者のいた時代は終わった。自ら進んで規範に身をゆだね啓蒙される側に立つのはもうやめよう。男も女も。われらの前にはただ空白のキャンバスが横たわっているのみである。『杉田久女句集』(1951)所収。(今井 聖)


September 2892007

 籾殻より下駄堀り出してはき行きし

                           中田みづほ

秋の農家の風景。「写生」は瞬間のカットにその最たる特性をみるが、この句のような映像的シーンの中での時間の流れも器に適合したポエジーを提供する。掘って、出して、履いて、歩いていく。一連の動作の運びが、この句を読むたびに再生された動画のように読者の前に繰り返される。生きている時間が蘇る。同様の角度は、高野素十の「づかづかと来て踊子にささやける」や「歩み来し人麦踏をはじめけり」も同じ。みづほと素十が同じ東大医局勤務だったことを考え合わせるとこの符合は興味深い。僕らが日常的に目にしていながら、「感動」として記憶に定着しないひとこま、つまりは目にしていても「見て」いない風景を拾い出すことが、自己の「生」を実感することにつながる。そこに子規が見出した「写生」の本質があると僕自身は思っている。見たものを写すという方法を嗤う俳人たちがいる。無限の想像力で、言葉の自律性を駆使して創作すればいいのだと。ならば聞こう、それらを用いて、籾殻の中から下駄を掘り出すリアリティに匹敵できるか。そこに俳句における「写生」理念の恐ろしいほどの強靭さがある。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


October 05102007

 蓑虫や滅びのひかり草に木に

                           西島麦南

びとはこの句の場合、枯れのこと。カメラの眼は蓑虫に限りなく接近したあと、ぐんぐんと引いていき秋の野山を映し出す。テーマは蓑虫ではなく、「滅びのひかり」である。もうすぐ冬が来る気配がひかりの強さに感じられる。鳥取県米子市に住んだときはかなりの僻地で、家の前が自衛隊の演習地。広い広い枯野で匍匐前進や火炎放射器の演習をやっていた。他の人家とは離れていたので、夜は飼犬を放した。夜遊び回った果てに戻ってきた犬が池で水を飲む音がする。子規の「犬が来て水飲む音の寒さかな」を読んで、ああこれだななんて思ったものだ。「滅びのひかり」を今日的に使うならすぐ社会的な批評眼の方へ引いて行きたくなるところだが、麦南さんは「ホトトギス」の重鎮。あくまで季節の推移の肌触りを第一義にする。言葉はしかし五感に触れる実感に裏打ちされているからこそ強烈に比喩に跳ぶ。季節の推移についての実感を提示したあと、やがて人類や地球の滅びをも暗示するのである。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


October 12102007

 草の絮ただよふ昼の寝台車

                           横山白虹

京から米子に帰省するときは必ずといっていいほど寝台特急「出雲」に乗った。寝台車(二等車)は上中下の三段になっていて、上に行くほど料金が安くなる。位置が高いから揺れがひどく、幅の狭い梯子を使っての寝台への上り下りは上段になるほど注意を要した。日暮れに東京駅を出た列車は深夜に京都に着く。「キョートー、キョートー」のアナウンスに僕は窓のカーテンを少し開けて人通りの無い京都駅のホームを覗く。京都で二年間浪人生活を送った僕はついに志を果たせなかった。懐かしさと悔しさが入り混じった複雑な気持ちで夜のホームの「キョートー」を聞いた。夜が明けるころ列車は山陰線を走る。目覚めて最初に見る風景が海だ。山陰線はずっと海と平行して走る。やがて寝台は車掌によって解体され、下段のみが三人分の座席として残される。寝台車と海が山陰線を思い出す僕のキーワード。すでに下段のみとなった昼の寝台車にどこからか入り込んだ草の絮がふわふわと漂っている。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


October 19102007

 がちやがちやに夜な夜な赤き火星かな

                           大峯あきら

夜同じ虫が同じところで鳴く。巣があるのか、縄張りか。がちゃがちゃの微かだが特徴のある声が聞こえ、夜空には赤い大きな火星が来ている。俳句は瞬間の映像的カットに適した形式だと言われているが、この句の場合はある長さの時間を効果的に盛り込んでいる。加藤楸邨の「蜘蛛夜々に肥えゆき月にまたがりぬ」と同じくらいの時間の長さ。この句、字数が十七。十七音定型を遵守した場合での最大、最長の字数になる。句は意味内容の他に、リズムや漢字、ひらがななどの文字選択、そして字数もまた作品の成否に関わる要素になる。音が同じで字数が少なければ一句は緊縮した印象を与え、字数が混んでいれば叙述的な印象を与える。がちゃがちゃという言葉が虫の名を離れてがちゃがちゃした「感じ」を醸し出すのもこの字数の効果だ。一句の中で文字ががちゃがちゃしているのである。十七音を遵守した上で、最少の字数で作ってみようとしたことがある。九字の句は作れたが、それが限度だった。もちろん内容が一番肝心なのだが。『牡丹』(2005)所収。(今井 聖)


October 26102007

 糸長き蓑虫安静時間過ぐ

                           石田波郷

学校二年生のとき、学校でやるツベルクリン反応が陰性でBCG接種を行なった。結核予防のために抗体として死んだ菌を植え込んだのである。ところが腕の接種の痕が膿んでいつまでも治らない。微熱がつづいて、医者に行くと結核前期の肺浸潤であるという診断。予防接種の菌で結核になったと父母は憤り嘆いたが、父も下っ端の役人であったために、公の責任を問うことにためらいがあり、泣き寝入りをした。今なら医療災害というところか。ひどい話である。伝染病であるために普通学級へ登校はできない。休んでいるとどんどん遅れてしまうからと、療養所のある町の養護学級への転校をすすめられた。僕は泣いて抵抗し、父母も自宅での療養を決断した。このとき、安静度いくつという病状の基準を聞いた気がする。とにかく寝ていなければならなかったのだ。しかし、子供のこと、熱が下がるととても一日寝ていられない。僕は家を抜け出して、近所の小学校へ友達に会いにいった。接してはいけないと言われていたので、遠くからでも顔を見ようと思ったのである。運動場に人影はなく、僕は自分のクラスの窓の下に近づいて背伸びをしてクラスの中を覗いた。授業中だった。「あっ、今井だ」と誰かが気づいて叫んだ瞬間に恥ずかしさがこみ上げて全力で走って帰った。波郷の安静度は僕の比ではなかっただろう。ただただ、仰臥して過ぎ行く時間の長さ。糸長きが命と時間を象徴している。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


November 02112007

 ロボットの腋より火花野分立つ

                           磯貝碧蹄館

集『未哭微笑』(みこくみしょう)の中の作者の近作。鉄人28号や鉄腕アトム(かなり古いけど)のような人の形をしたロボットを思い浮かべてもいいし、工場で何かの加工や組立に用いられている複雑な形の機械ロボットでもいい、自動的に動く機械のはざまから火花が出て用途に具するわけである。外は台風の兆がある。現代と自然との力技の調和が感じられる。これまでの情緒とすればミスマッチ。しかし、旧情緒と現実の風景がぶつかれば、必ずそこに違和感が生じる。そこからの造型や新ロマンの構築が見せ場。ミスマッチをマッチにする作者の力が問われる場面である。作者は一九二四年生まれ。この世代、多くは戦後に「社会性」や「職場俳句」の洗礼を受け「前衛」に若き情熱を燃やすが、時代の変遷とともに、花鳥諷詠か、それもどきに転ずる。もちろん最初から花鳥諷詠一徹の方もいる。どちらにしても加齢とともに、季題中心、自然諷詠中心の「やすらぎ」にからめとられていくわけである。肉体と精神のエネルギーが失われ、「自己」を俳句に乗せるのがシンドくなったとき、「楽になろうよ」と花鳥諷詠がポンと肩をたたく。その手を振り切って「今の自己」を俳句に打ち付けて同時代の新しいポエジーに挑戦する。そういう作者のこういう句にこそ本物の詩人の魂が存する。『未哭微笑』(2007)所収。(今井 聖)


November 09112007

 鮭のぼるまつはりのぼるもののあり

                           依田明倫

のを写していると、どこかで、人生や社会の寓意や箴言に変貌することがある。実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂や飛んで火に入る夏の虫などと同様のあり方。「写生」がものそのものの描写を離れて比喩としてひとり歩きしてゆく。ひとり歩きしてゆくことに対して作者はどうこう言ってみようもない。実はこうなんだと言って解説してみせるほどみっともないことはない。しかし、誰もがはたと膝を打って寓意に転ずる描写は「写生」の本意ではないと僕は思う。「もの」に見入ることが同時に「自分」に見入ることにつながるというのが、茂吉の「実相観入」や楸邨の「真実感合」の根本にあった。そういう態度を持っての「写生」も寓意に傾く可能性を拡げてはいまいか。鮭が遡上してゆく。その魚のからだのまわりに微小な塵のごときものが見える。澄んだ水中のもろもろである。「まつはりのぼるもの」をまず思念として捉えるのではなく、そのまま実景として読みたい。鮭ののぼってくる川をよく知る人でなければできない把握である。実景としてのリアルを「像」として読んで、そこから比喩でも寓意でも戯画でもなんでも拡げていけばいい。ものを写すという方法の核は五感の「リアル」そのものの中にある。「現代秀句選集」(1998)所載。(今井 聖)


November 16112007

 寒鮒のあを藻ひとすぢからみたる

                           篠田悌二郎

の引きは独特。長く細いウキが単純に一気に潜る釣堀で釣るヘラ鮒ではなく、「野生」の真鮒の話である。真鮒はウキがまずちょんちょんと上下し、やがて横につうと動き、そこから一気に潜る。潜るまでに竿を上げると逃げられる。この横に動くところがなんとも言えずスリリングで鮒釣りにはまるのである。生まれて初めて竿で魚を釣ったのが、小三のとき。鳥取市の城跡のお堀でクチボソがかかってくれた。それまでは、タモを水中や泥の中で振り回しての小えびやメダカやトンボのヤゴが獲物だった。掻き回すからタモはすぐ破れ壊れる。何度も補修を重ねて、タモはたちまち網の部分が小さくなった。腰の辺りまで泥に没しての大奮闘からクチボソを竿で釣るまで三年かかった。そこからシマミミズを用いての鮒釣りまでに二年。クチボソ三年鮒五年。鮒はアタマがいいので、釣る方の成長も必要なのであった。寒鮒は水温が低いため、底の方にじっとしている。それを釣り上げるから「あを藻」がからむ。この「あを藻」が映像の焦点。リアリティの根源である。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


November 23112007

 捨布団あり寒林を戻るなり

                           森田公司

つも見ている風景でありながら風情(詩)を感じないから心に留めない一瞬が、僕らの一日の体験の大半を占める。たまに、ああ、いいなあと思う体験や視覚的カットは、やはり、みんなが同様にいいと思うそれである。それは発見ではなくて共感だろう。捨猫や捨案山子や捨苗には「詩」があり、捨布団や捨バッテリーや捨自転車にはないのだろうか。否、見えるもの、触れるもの、聞こえる音、みなそれぞれどんなものでも、生きている自分とのそのときその瞬間の触れ合いの中で意味を持つ。意識できないだけだ。こういう句を見るとそれをつくづく感じる。「写生」とは時、所、対象を選ばず僕らの前に現れる風景に自分の生を感じるということだ。講談社版『新日本大歳時記』(1999)所載。(今井 聖)


November 30112007

 真白なショールの上に大きな手

                           今井つる女

ョールは女のもの。大きな手は男のもの。二つの「もの」には当然のように性別が意図され規定される。ショールの上に手が置かれる間柄を思うと、この男女は夫婦、または恋人同士。ショールは和装用だから男もまた和装であってよい。「もの」しか書かれていないのに、その組み合わせはつぎつぎとドラマの典型を読者に連想させる。上原謙と原節子、佐田啓二と久我美子、はたまた鶴田浩二と岸恵子。こんな組み合わせのカップルだろうか。オダギリジョーとえびちゃんではこうはならない。つまりこのドラマには、恋愛や夫婦の在り方や倫理観や風俗習慣など、明治三十年生まれの「女流」から見たコンテンポラリーな風景と意識が明解に映し出されている。時代に拠って変化するものは、後年みると古臭く見える。それは当たり前だろう。だからといって草木や神社仏閣の情緒に不変のものを求めるのは現在ただ今の自己への執着を放棄することにならないか。現在ただ今の、流動しかたちを定めない万相の中にこそ時代の真実があり、自己の生があり、その一瞬から永遠が垣間見える。「写生」とはそういう特性をもつ方法である。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


December 07122007

 吾子の四肢しかと外套のわれにからむ

                           沢木欣一

子は(あこ)。自分の記憶の中で一番古いものは四歳の時の保育園。ひとりの先生とみんなで相撲をとった。みんな易々と持ち上げられ土俵から出されたが、僕は先生の長いスカートの中にもぐりこんで足にしがみついた。先生は笑いながらふりほどこうとしたが、僕はしっかりと足に四肢をからめて離れず、ついに先生は降参した。このときの奮戦を先生は後に母に話したため、僕はしばらくこの話題で何度も笑われるはめになった。あのときしがみついた先生の足の感じをまだ覚えている。加藤楸邨の「外套を脱がずどこまでも考へみる」森澄雄の「外套どこか煉炭にほひ風邪ならむ」そして、この句。外套の句はどこか内省的で心温かい。澄雄も欣一も楸邨門で「寒雷」初期からの仲間。二人とも昔はこんなヒューマンな句を作っていたのだった。「寒雷」は「花鳥諷詠」の古い情趣や「新興俳句」の借り物のモダニズムの両者をよしとせずに創刊された。「人間探求」の名で呼ばれる「人間」という言葉が「ヒューマニズム」に限定されるのは楸邨「寒雷」の本意ではないが、それもまた両者へのアンチ・テーゼのひとつであったことは確かである。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


December 14122007

 無方無時無距離砂漠の夜が明けて

                           津田清子

漠の句だから無季。無方向、無時間を無方、無時と縮めていうのはかなり強引だが、この強引さが現場での感動の強さをそのまま表している。清子は誓子門の逸材。誓子は切れ字「や」「かな」を極度に嫌った。古い俳句的情緒を否定し、同時代の感興を俳句に盛ろうとした。この切れ字否定と同時代的感興を盛ること。この二点では誓子は新興俳句運動の先鞭となったが、季語使用については遵守を唱え、やがてその運動とは一線を画した。季語遵守でありながら、旧情緒否定ということは、「写生」という方法の中で現実のリアリティを求めていくということ。しかし、それはどうしても季語があらねばならないという必然性は薄い。現実の風景を構成していく上で季節感の果たす意義を認めたとしてもである。この句、海外詠だから季語は無くても当然という理屈では解決できない問題点を提起する。そのとき、その瞬間の自分の感動を、自分の五感とのなまの触れあいを通して表現するという方法を字義通り実践すると季語はどうしても一義的な要件ではなくなる。感動の核の中で季語の存在意義は薄れてくるのである。別冊俳句「平成秀句選集」(2007)所載。(今井 聖)


December 21122007

 掘られたる泥鰌は桶に泳ぎけり

                           青木月斗

鰌と鰻の違いはどこかなどというと、奇異に思われるかもしれない。山陰の田舎では田んぼの用水路なんかで釣りをしていると三十センチくらいのやつがかかって、釣ったばかりは鰻か泥鰌かはたまた蛇かわからない。もっとも蛇は水中にいないので選択肢はふたつだ。髭があるのが泥鰌だよと釣り友達からあらためて教わったものだ。持って帰ると父が蒲焼にしてくれた。うまかった。山陰と泥鰌と言えば安来節。ヘルスセンターなどいたるところでやっていた。安来節名人がいて、割り箸を二本鼻の穴に挿して、泥鰌を取る仕草が実にリアルで大うけにうける。小学校の学芸会でもひょうきん者がよく出し物にしていた。加藤楸邨に「みちのくの月夜の鰻遊びをり」がある。楸邨は鰻が大好きだった。幼時、父親の転勤で東北地方に居たときなど、川でよく鰻を捕ったとのこと。小さいものをめそっこと言ってよく食べたとエッセーにもある。めそっこなら泥鰌とほとんど変らない大きさだろう。冬の田の土中を掘って入り込んだ泥鰌を捕ったあと、桶で泳がせて泥を吐かせる。そのあとは鍋か唐揚か。それもいいが、あの泥鰌の蒲焼をまた食べてみたい。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


December 28122007

 猟犬は仲居の顔に似てゐたり

                           中岡毅雄

居の顔を見ていて猟犬に似ていると感じたのではなく、犬の顔を見ていて仲居を思ったのである。ユーモアがあるけれど、そこを狙った句ではない。結果的に面白くなっただけだ。冬季、猟、そのための猟犬というつながりで猟犬は冬の季題に入るのだが、日常で猟が見られない今日、季節感は感じられない。そこにも情趣の狙いはない。猟犬と言えば西洋系の犬が浮かぶ。柴犬も猟に伴う犬だが、どうみても仲居はイメージできない。柴犬のような仲居は宴席に向かない。どうしてもラブラドール種やセッターやポインターなどの優雅な風貌を思い浮かべてしまう。ユーモアも季題中心の情緒にも狙いがないとすると狙いはどこか。それは直感にあると言えよう。作者は波多野爽波創刊主宰の「青」で学んだ。爽波は「多作多捨」、「多読多憶」を旨とし、スポーツで体を鍛えるように俳句も眼前のものを速写して鍛えるべきとして「俳句スポーツ説」を唱えた。計らう間も無く、写して、写しまくっていく中で、浮かび上がってくるものの中に「写生」という方法の真髄があるという主張である。この句も計らう間もない速写の中に作者の直感がいきいきと感じられる。『青新人会作品集』(1987)所載。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます