ム子句

July 0772007

 いつまでもひとつ年上紺浴衣

                           杉本 零

人は家が近所の幼なじみで、一緒に小学校に通っていた。その頃のひとつ違い、それも、男の子が一つ下、となると、精神年齢はもっと違う。彼女が少し眩しく見え始めた頃、彼女の方は、近所の悪ガキなどには見向きもしない。あらためて年上だと認識したのは、彼が六年生になった時だった。彼女は中学生になり、一緒に登校することはもちろん、学校で見かけることもなくなって、たまにすれ違う制服姿の彼女を見送るばかりである。彼も中学生から高校生に、背丈はとっくに彼女を追い越したある夏の夕方、涼しげな紺色の浴衣姿の彼女を見かける。いつもとどこか違う視線は、彼に向けられたものではない。彼はいつまでも、ひとつ年下の近所の男の子なのだった。二つ違いの姉を持つ友人が、「小学生の頃から、姉は女なのだから、男の僕が守らなきゃ、と思っていた。中学生の時、高校生の姉が夜遅くなると、駅まで迎えに行った。」と言ったのを聞き、あらためて男女の本能的性差のようなものを感じつつ、兄弟のいない私は、うらやましく思った。この句は、作者が句作を始めて十年ほど経った、二十代後半の作。紺色の浴衣を涼しく着こなした女性の姿から、男性である作者の中に生まれたストーリーは、また違うものだったろう。その後三十代の句に〈かんしゃくの筋をなぞりて汗の玉〉〈冷かに心の舵を廻しけり〉『零』(1989)所収。(今井肖子)


July 1472007

 いと暗き目の涼み人なりしかな

                           杉本 零

涼(すずみ)とも書く涼み。夕涼み、のほかにも、磯涼み、門涼み、橋涼み、土手涼み、などあり、昔は日が落ちると少しでも涼しい場所、涼しい風をもとめて外に出た。現在、アスファルトに覆われた街では、むっとした夜気が立ちこめるばかりで、団扇片手にあてもなく涼みに出る、ということはあまりない。都内の我が家のベランダに出ると、東京湾の方向からかすかな海の匂いを含んだ涼風が、すうっと吹いてくることがたまにはあるけれど。この句に詠まれている人、詠んでいる作者、共に涼み人である。今日一日を思いながら涼風に向かって佇む時、誰もが遠い目になる。たまたま居合わせた人の横顔を見るともなく見ると、その姿は心地良い風の中にあって、どこか思いつめたような意志を感じさせる。しばらくして、とくに言葉を交わすこともなく別れたその人の印象が、いと暗き目、に凝縮された時、その時の自分の心のありようをも知ったのだろう。〈風船の中の風船賣の顔〉〈ミツ豆やときどきふつと浮くゑくぼ〉人に向けられた視線が生む句の向こう側に、杉本零という俳人が静かに、確かに存在している。お目にかかって、俳号の由来からうかがってみたかった。句集最後の句は〈みをつくし秋も行く日の照り昃り〉『零』(1989)所収。(今井肖子)


July 2172007

 飛魚に瞬間の別世界あり

                           岡安仁義

夏から夏、北上して産卵する飛魚、地方によっては夏告げ魚と呼ぶ。そういった意味では今取り上げるのはちょっと遅いかな、とも思うが、はっきりしない梅雨曇りのよどんだ気分を、ぱっと晴れさせてくれた一句であった。あれは小学生の頃だったか、飛び魚の群を見た記憶がある。細かいことは覚えていないが、水面から飛び出した飛魚の白い腹が、光った空にとける瞬間の記憶がある。気が遠くなるような真夏の太陽と、真っ青な海がよみがえるが、あの瞬間、飛魚は水中とはまったく違う世界を体感していたのだ。飛魚は、大きい魚から身を守るために飛ぶのだという。本当に追いつめられると、五百メートル近く滑空するというから驚く。句集の前後の句から、作者は飛魚を目の当たりにしていたのだろう。近づいて来た漁船から逃れようと文字通り飛び出した飛魚に、ふと同化している。瞬間という時間と、別世界という空間が、句に不思議な立体感を与えると共に、五、五、七の加速する破調が、躍動感を感じさせる。飛魚の、思いのほか大きい目に映る別世界を思う。『藍』(1995)所収。(今井肖子)


July 2872007

 漂へるもののかたちや夜光虫

                           岡田耿陽

光虫、虫の字を持ちながら植物性プランクトンで、海水の温度が三十度前後になると発生するといい夏季に分類されている。昼間海岸沿いに目にする赤潮には、夜間青白く光る夜光虫によるものもあると今回知った。漁師町に生まれ育った耿陽(こうよう)には、海に因んだ句が多く見られるのだが、特に夜光虫については、「耿陽によって明るみに出た季題」とも言われているようだ。そんな作者の、夜光虫の徹底的な写生句のその先にこの句があった。昭和四年の作である。青白い夜光虫の群を水中から見ていると、宇宙空間にいるようだという。まさに、ふれたものの輪郭を光る夜光虫。陸でいえば蛍もそうだが、真闇に光る生きものは、それを目の当たりにしたものに魂や生命を思わせる。作者は、幾たびも夜光虫に出会い、その幻想的な光を見るうち、概念をこえた造化の不思議や無常をも感じたのかもしれない。もののかたちもののかたち、とくり返しつぶやいていると、自分をとりかこんでいるあらゆるものの存在が、ゆらゆらと遠ざかってゆくような心持ちになる。『句生涯』(1981)所収。(今井肖子)


August 0482007

 宵の町雨となりたる泥鰌鍋

                           深見けん二

の上ではこの夏最後の土曜日だが、暑さはこれからが本番だろう。この句は「東京俳句歳時記」(棚山波郎)より。夏ならば、朝顔市、三社祭など馴染みの深いものから、金魚のせり、すもも祭りなど(私は)初めて知ったものまで、ひとつひとつ丹念に取材された東京の四季が、俳句と共に描かれている。泥鰌を食べる習慣は、東京独自のものというわけでもないらしいが、西の方では概ね敬遠されるようである。一度だけ行ったことのある泥鰌屋は、川沿いの小さい店だった。思い返すと、その濃いめの味付け、鍋が見えなくなるほどにかけ放題の青ネギ、確かに鍋とはいえ、団扇片手に汗をかきかき食べる夏の食べ物である。食べ物を詠む時、そのものをいかにもそれらしく美味しそうに、というのもひとつであろうが、この句は、泥鰌鍋でほてった頬に心地良い川風を思い出させる。川に降り込むかすかな雨音、町を包む夜気と雨の運んでくる涼しさが、夏の宵ならではと思う。泥鰌鍋の項には他に、秋元不死男の〈酒好きに酒の佳句なし泥鰌鍋〉など。「東京俳句歳時記」(1998)所載。(今井肖子)


August 1182007

 稲妻やアマゾン支流又支流

                           大城大洋

が実る前に多く見られる稲光。古くは、この光が稲を実らせると言われ、稲の夫(つま)から転じて稲妻となったという。一瞬の閃光に照らし出される稲田と、しばしの沈黙の後に訪れる雷。自然の力を目の当たりにした古人の想像力には感心させられるが、稲光をともなった雨は天然の窒素肥料になるという科学的根拠もあるらしい。この句の稲光が照らし出しているのは、広大なアマゾン川。河口の幅は百キロメートルに及ぶというから、途方もない大きさである。稲光の、空を割る不規則な形状と、アマゾン川の支流の枝分かれとが重なって、一読して大きい景が見える。日本からは最も遠い国。自己中心的に地球の裏側などというブラジルへの移民は、1908年(明治四十一年)に始まり、その数は約二十五万人、現在居住している日系人は百三十万人以上であるという。そして、その百年の歴史の中で、俳句が脈々と詠まれ続けて今日に至っていることは興味深い。それぞれの生活や心情は、到底思い及ばざるところだが、〈珈琲は一杯がよし日向ぼこ〉(亀井杜雁)など、その暮らしのつぶやきが聞こえるような句や、〈雷や四方の樹海の子雷〉(佐藤念腹)など、掲句同様、彼の地ならではのスケールの大きい句が生まれている。八月八日、ブラジルは立春であったということか。「ブラジル季寄せ」(1981・日伯毎日新聞社)所載。(今井肖子)


August 1882007

 かなかなに水面のごとき空のあり

                           山下しげ人

なかな、蜩、日暮し。蝉は夏季だが、蜩は法師蝉と並んで秋季。先日、立秋間近の六甲山で吟行句会があり、この句は八月四日の第一句会での一句である。六甲山は初めてだったが、さすがに涼しく、朝な夕な、熊蝉に混ざってかなかなが鳴き続けていた。かつて住んでいた箱根に近い町では、暮れつつある山から、かなかなの声が夕風に乗って流れてきたものだったが、現在の東京での日常生活では、めぐり合うことはほとんどない。そんな、油蝉とにいにい蝉に時々みんみんが混ざる下界の蝉の声に慣れた耳に、高原の蝉の声は、鮮やかに透きとおって響いた。かなかなの調べは、もとよりどこか郷愁を誘うものだが、ずっと聞いていると、まるで森を濡らしているように思えてくる。この句の、かなかなに、という表現には、かなかなの声もまた水の流れのようである、という心持ちがこめられているのかもしれない。かなかなの声に誘われるように見上げる空には、秋の気配が流れていた。(今井肖子)


August 2582007

 取り入るゝ傘一と抱き秋の蝶

                           亀山其園

の句は、句集『油團』から引いた。何となく本棚を見ていて、この油團(ゆとん)に目がとまったのだった。そういえば昔我が家にもあった、和紙を貼り合わせて油を塗ったてらてらとした固い夏の敷物である。素十の前書きに「其園(きその)さんは女で、早く父母に死に別れ、傘張りの家業を継いで弟妹の教育をなし遂げた感心な人です。」とある。その後に、戦後しばらくは傘屋も繁盛したが、洋傘に押され廃業、お茶屋を始め、俳句半分、商売半分で暮らしている、と続いている。店先でのんびりお茶を飲んで、買わずに帰ってゆく客を気にもとめない主人を見かねて、素十が書いた「茶を一斤買へば炉に半日ゐてもよろし 閑店主人」という直筆の貼り紙の写真が見開きにあり、たくましくもおおらかな其園という女性の人柄が偲ばれる。掲句、秋になると、天敵の蜂が減り、蝶は増えてくるのだという。萩や秋桜の揺れる中、秋風に舞う蝶は、空の青さに映えて美しく、秋思の心に響き合う憐れがある。秋晴れの一日、きれいに乾いた傘を抱えたまま足を止めている其園と、そこに来ている蝶の、小さな時間がそこにある。『油團』(1972)所収。(今井肖子)


September 0192007

 焼跡にまた住みふりて震災忌

                           中村辰之丞

正十二年九月一日の未明、東京にはかなりの風雨があったという。そして夜が明けて雨はあがり、秋めく風がふく正午近く、直下型大地震が関東地方を襲ったのだった。その風が、東京だけで十万人を越える死者を数える悲劇を生む要因となった大火災に拍車をかけることになるとは、思いもよらなかったにちがいない。作者が歌舞伎役者であることを思えば、代々生まれも育ちも東京だろう。焼跡に、とあるので、旧家は焼失したのかもしれない。年に一度巡り来る震災忌、その惨状が昨日のことのようによみがえってくる。そして、失われた風景や人々を思う時、流れた月日の果てに今ここに自分が生きているということを複雑な思いでかみしめているのだ。また、の一語が、作者の感慨を伝え、さまざまな感情や年月をふくらませる。その後、再び東京が焼け野原になる日が来ることもまた、思いもよらなかったであろう。関東大震災から八十年以上、どんどん深くなる新しい地下鉄、加速する硝子の高層ビルの建設ラッシュの東京で、今日一日はあちこちで防災訓練が行われる。ずっと訓練だけですめば幸いなのだが。「俳句歳時記」(1957・角川書店発行)所載。(今井肖子)


September 0892007

 露しぐれ捕はれ易き朝の耳

                           湯川 雅

は一年中結ぶものだが、夜、急に冷え込む秋の初めに多く見られることから秋季。露しぐれ、とは、夜のうちに木々に宿った露が、朝になってしたたり落ちるのをいう。晩夏から初秋にかけて、花野に色が増える頃、高原などではことさら朝露が匂う。早朝、ゆっくり息を吸って、瑞々しい大気を体中に行き渡らせると、まず五感がくっきりと目覚めてくる。そして、おもむろに息を吐く。すると、かすかな朝の虫、鳥の声、風音と共に、ぱらぱらとしたたり落ちる露の音が耳に届いてくる。細やかで透明な秋の音。露しぐれは、これだけで情景を言いおおせてしまう感のある言葉であり、ともすれば情に流されやすく、一句にするとその説明に終わってしまう可能性もある。また、澄んだ朝の空気の中では音がよく聞こえる、というのも誰もが感じることだ。この句の場合、捕はれ易き朝の耳、という少し理の克った、耳を主とした表現が、露しぐれの音と呼応しつつ、常套的な説明からふっとそれたおもしろさを感じさせる。俳誌「ホトトギス」(2002年3月号)所載。(今井肖子)


September 1592007

 身に入むや秒針進むとて跳る

                           菅 裸馬

に入む(身にしみる)、冷やか、などは秋季となっているが、人の情けが身にしみたり、冷やかな目で見られたり、となると一年中あることだ。確かに、しみる、冷やか、共に、語感からして、ほのぼのとあたたかくはないが。身に入む、については、もともと季節は関係なく、人を恋い、もののあわれを感じる言葉であったのが、源氏物語に「秋のあはれまさりゆく風の音、身にしみけるかな」という件もあり、次第に秋と結びついていったという。秋風が、人の世のあわれや、人生の寂寥感を感じさせる、ということのようだ。そんなしみじみとした感情を、秒針の動きと結びつけた掲句である。目には見えない時間、夢中で過ごせばあっという間、じっと待っていると足踏みをする。アナログ時計の秒針の動きは、確実に時が過ぎていることを実感させる。じっと見ていると、たしかに跳ねる、一秒一秒、やっと進んでいるかのように。そんな秒針の動きに、無常感を覚えつつ、ふと自分自身を重ねているのかもしれない。「俳句大歳時記」(1964・角川書店)所載。(今井肖子)


September 2292007

 桔梗の咲く時ぽんといひさうな

                           千代尼

当にそうだ、と読んだ瞬間思ったのだった、確かに、ぽん、な気がする。ききょう(きちこう)の五弁の花びらは正しく、きりりとした印象であり、蕾は、初めは丸くそのうちふくらみかけた紙風船ようになり、開花する。一茶に〈きりきりしやんとしてさく桔梗かな〉の一句があるが、やはり桔梗の花の鋭角なたたずまいをとらえている。千代尼は、加賀千代女。尼となったのは、五十二歳の時であるから、この句はそれ以降詠まれたものと思われる。そう思うと、ふと口をついて出た言葉をそのまま一句にしたようなこの句に、才色兼備といわれ、巧い句も多く遺している千代女の、朗らかで無邪気な一面を見るようである。時々吟行する都内の庭園に、一群の桔梗が毎年咲くが、紫の中に数本混ざる白が、いっそう涼しさを感じさせる。秋の七草のひとつである桔梗だけれど、どうも毎年七月頃に咲いているように思い、調べてみると、花の時期はおおむね、七月から八月初めのようで、秋草としては早い。そういえば、さみだれ桔梗といったりもする。今年のようにいつまでも残暑が続くと、今日あたり、どこかでまだ、ぽんと咲く桔梗があるかもしれない。「岡本松濱句文集」(1990・富士見書房)所載。(今井肖子)


September 2992007

 一人湯に行けば一人や秋の暮

                           岡本松濱

週鑑賞した千代尼の句の出典として、この『岡本松濱句文集』を開いた。婦人と俳句、という題名で書かれたその一文は興味深く、千句あまりの松濱本人の句も読み応えがある。これはその中の一句なのだが、初めに読んだ時、銭湯に行く作者を思い浮かべた。日々の暮らしの中の、それほど深刻ではないけれど、しんみりとした気分。話し声、湯をかける音が反響する銭湯で、他の客に混じってぼんやり湯に浸かっている、どこかもの寂しい秋の夕暮、と思ったのだった。そうすると、行けば、がひっかかるかな、と思いつつ、句集を読み終え、飯田蛇笏、渡辺水巴の追悼文を読み進み、そして野村喜舟の文章を読んだところで、それは勘違いと分かった。この時、松濱は東京で妻と二人暮らし。喜舟が初めてその家を訪ねた時、ちょうど妻が銭湯へ行っていて一人であったという。それを聞いて、喜舟は、この句を思い出した、と述懐している。そういうことか。そう思って読むと、ふっと一人になった作者は、灯りもつけずに見るともなく窓の外を見ていると思えてくる。しんとした二人暮らしの小さな家のたたずまいと共に、暮れ残る空の色が浮かぶのだった。申し訳なし。句集に並んで〈仲秋や雲より軽き旅衣〉。仲秋の名月も満月も、美しい東京だった。「岡本松濱句文集」(1990・富士見書房)所載。(今井肖子)


October 06102007

 歩きつづける彼岸花咲きつづける

                           種田山頭火

月の終わりに、久しぶりに一面の彼岸花に遭遇、秋彼岸を実感する風景だった。すさまじいまでに咲き広がるその花は、曼珠沙華というより彼岸花であり、死人花、幽霊花、狐花などの名で呼ばれるのもわかる、と思わせる朱であった。かつて小学校の教科書に載っていた、新美南吉の『ごんぎつね』に、赤いきれのように咲いている彼岸花を、白装束の葬式の列が踏み踏み歩いていく、という件があったが、切ないそのストーリーと共に、葬列が去った後の踏みしだかれた朱の印象が強く残っている。この句の場合も、彼岸花が群生している中を、ひたすら歩いているのだろう。リフレインも含めて、自然で無理のない調べを持つ句。その朱が鮮やかであればあるほど寂しさの増していく野原であり、山頭火の心である。「種田山頭火」(村上護著)には、「いわゆる地獄極楽の揺れの中で句作がなされた」(本文より)とあり、〈まつすぐな道でさみしい〉と掲句が並んでいる。思いつめた心とはうらはらに、こぼれ出る句は優しさも感じさせる。定型に依存することのない定型句、自由律であるというだけでない自由律句、どちらも簡単にはいかないなあ、と思うこの頃。『種田山頭火』(2006・ミネルバ書房)所載。(今井肖子)


October 13102007

 秋晴の都心音なき時のあり

                           深川正一郎

は、空があきらか、が語源という説があるという。雲ひとつ無い高い青空をじっと見ていると、初めはただ真っ青だった空に、無限の青の粒子が見えてくる。ひきこまれるような、つきはなされるような青。秋晴の東京、作者はどこにいるのだろう。公園のベンチで、本当に音のない静かな時間を過ごしているのかもしれない。あるいは、雑踏の中にいて、ふと空の青さに見入るうち、次第に周りの音が聞こえなくなって、自分自身さえも消えてゆくような気持になったのかもしれない。秋の日差も亦、さまざまなものを遠くする。昭和六十二年に八十五歳で亡くなった作者の、昭和五十七年以降の六年間、句帳百冊近くをまとめた句集「深川正一郎句集」(1989)からの一句である。一冊に六百句書けるという。それにしても、二十年前の東京は、少なくとも今年よりは、もう少し秋がくっきり訪れていたことだろう。(今井肖子)


October 20102007

 ひたと閉づ玻璃戸の外の風の菊

                           松本たかし

かし全集に、枯菊の句が十句並んでいる年がある。菊は秋季、枯菊は冬季。二句目に、〈いつくしみ育てし老の菊枯れぬ〉とあり、〈枯菊に虹が走りぬ蜘蛛の絲〉と続いている。この時たかし二十七歳、菊をいつくしむとは昔の青年は渋い、などと思っていたが、十月十一日の増俳の、「菊の香はそこはかとなく淡く、それでいて心にひっかかる」という三宅やよいさんの一文に、菊を好むたかしの心情を思った。掲句はその翌年の作。ひたと、は、直と、であり、ぴったりとの意で、一(ひと)と同源という。今、玻璃戸の外の風の、と入力すると、親切に《「の」の連続》と注意してくれる。その、「の」の重なりに、読みながら、何なんだろう何があるんだろう、と思うと、菊。ガラス戸の外には、相当強い風が吹いている。菊は、茎もしっかりしており、花びらも風に舞うような風情はない。風がつきものではない菊を、風の菊、と詠むことで、風が吹くほどにむしろその強さを見せている菊の本性が描かれている。前書きに、病臥二句、とあるうちの一句。病弱であった作者は、菊の強さにも惹かれていたのかもしれない。「たかし全集」(1965・笛発行所)所載。(今井肖子)


October 27102007

 障子はる手もとにはかにくれにけり

                           原三猿郎

起きるとまず、リビングの窓を開けて、隣家の瓦屋根の上に広がる空を見るのが日課である。リビングの掃き出し窓にカーテンはなく、そのかわりに正方形の黒みがかった桟の障子が四枚。それをかたりと引いて、窓を開け朝の空気を入れる。カーテンに比べると、保温性には欠けるのかもしれないが、障子を通して差し込む光には、四季の表情がある。張り替えは、我が家では年末の大掃除の頃になってしまうのだが、「障子貼る」は「障子洗ふ」と共に秋季。確かに、秋晴の青空の下でやるのが理にかなっており、まさに冬支度である。急に日の落ちるのが早くなるこの時期。古い紙を取り除き、洗って乾かして、貼ってさらに乾かして、と思いのほか時間がかかってしまったのだろう。にはかにくれにけり、とひらがなで叙したことで、つるべ落としの感じが出ており、手もとに焦点を絞ったことで、暮れゆく中に、貼りたての障子の白さが浮き上がる。毎年、障子を張り替えるよ、というと友達を連れてきて一緒に嬉しそうに破っていた姪も中学生、今年はもう興味ないかも。作者の三猿郎(さんえんろう)は虚子に嘱望されていたが、昭和五年に四十四歳の若さで世を去ったときく。虚子編新歳時記(1934・三省堂)所載。(今井肖子)


November 03112007

 落魄やおしろいの実の濡れに濡れ

                           藤田直子

れるは光るに通じている。先日の時ならぬ台風の日、明治神宮を歩いた。玉砂利に、団栗に、ざわつく木々とその葉の一枚一枚に降る雨。太陽がもたらす光とは違う、冷たく暗い水の光がそこにあった。何年か前の雨月の夜、同じように感じたことを思い出す。観月句会は中止となったが、せっかく久しぶりに会ったのだからと、友人と夜の公園に。青い街灯に、桜の幹が黒々と、月光を恋うように光っていた。この句は、前書に「杜國隠棲の地 三句」とあるうちの一句。坪井杜國(つぼいとこく)は、蕉門の一人で、尾張の裕福な米穀商だったが、商売上の罪で流刑、晩年は渥美半島の南端で隠棲生活を送った。享年三十四歳。おしろいの花の時期は、晩夏から晩秋と長いが、俳句では秋季。落魄(らくはく)の、魄(たましい)の一字にある感慨と、おしろいの実の黒く濡れた光が呼応して、秋霖の中に佇む作者が見える一句である。芭蕉は、この十三歳年の離れた弟子に、ことのほか目をかけ、隠棲した後に彼の地を訪ね、別れ際に、〈白芥子に羽もぐ蝶の形見かな〉の句をおくったという。あえかなる白芥子の花弁と、蝶の羽根の白に、硬く黒いおしろいの実の中の、淡い白さが重なる。「秋麗」(2006)所収。(今井肖子)


November 10112007

 孫悟空居さうな雲の国小春

                           高田風人子

寒、夜寒、といった晩秋のきゅっと冷えこむ感じもあまり無かった東京だが、暦の上ではもう冬。今日十一月十日は、旧暦十月一日、今日から小春月である。小春は本来旧暦十月のことをいい、本格的な冬になる手前、春のような良い日和が続くことに由来するが、ふつう俳句で小春というと、小春日和を意味することが多いようだ。飯田龍太に〈白雲のうしろはるけき小春かな〉の句があるが、穏やかな一日、空を見上げ、ゆるゆると流れる雲に来し方を思う心が見える。穏やかであればこそ、どこかしみじみとするのだろう。同じように小春の空を見上げた作者だが、そこに孫悟空が居そうだという。孫悟空といえば、筋斗雲、いや金斗雲か。キントは宙返りの意で、本来キンは角偏に力と書く。アニメのドラゴンボールから「西遊記」の原作本はもちろん、テレビドラマや東映アニメーション映画など、孫悟空に親しんだ思い出は誰にもあるだろう。ぽっかりとひとつ浮かんだ雲が、呼べば降りてきそうに思えたのか、広がっている雲の上に別世界があるような気がしたのか、と思い確かめると、この「国」は日本ではなくタイ。旅先での作というわけだが、アジア的異国情緒と俳句的感覚が、不思議な味わいの一句をなした。「高田風人子句集」(1995)所収。(今井肖子)


November 17112007

 別れ路の水べを寒き問ひ答へ

                           清原枴童

い、は冬の王道を行く形容詞であるが、ただ気温が低い、という意味の他に、貧しいや寂しい、恐ろしいなどの意味合いもある。秋季の冷やか、冬季の冷たしも、冷やかな視線、冷たい態度、と使えば、そこに感じられるのは、季感より心情だろう。この句の場合、別れ路の水べを寒き、まで読んだ時点では、川辺を歩いていた作者が、二またに分かれた道のところでふと立ち止まると、川を渡り来る風がいっそう寒く感じられた、といった印象である。それが最後の、問ひ答へ、で、そこにいるのは二人とわかる。そうすると、寒き問ひ答へ、なのであり、別れ路も、これから二人は別れていくのかと思えてきて、寒き、に寂しい響きが生まれ、あれこれ物語を想像させる。寒き、の持つ季感と心情を無理なく含みつつ、読み手に投げかけられた一句と思う。清原枴童(かいどう)は、流転多き人生を余儀なくされ、特に晩年は孤独であったというが、〈死神の目をのがれつつ日日裸〉〈着ぶくれて恥多き世に生きむとす〉など、句はどこかほのぼのしている。句集のあとがきの、「枴童居を訪ふ」という前書のついた田中春江の句〈寒灯にちよこなんとして居られけり〉に、その人となりを思うのだった。「清原枴童全句集」(1980)所収。(今井肖子)


November 24112007

 寒月や耳光らせて僧の群

                           中川宋淵

昧だった秋から、いきなり冬になってしまった感のある今年だが、中秋の名月、後の月ともに、月の美しさは印象に残るものだった。天心に白く輝く名月に比べ、しだいに青みを帯びてくる冬の月。枯木のシルエットの途切れた先に上る月は、凩に洗われ、星々の中にあって孤高である。そんな冬の月に、耳が照らされて光っているという。それも、僧の群。しかしその人数が多ければ多いほど、しんとした夜気を感じるのは、耳というポイントの絞り方が、はっきりとした映像を結ぶからか。臨済宗の僧侶だという作者。臨済宗は禅宗の一派なので、僧達は座禅を組んでいるのか、あるいは鉢を持って、長い廊下を僧堂へ向かって歩いているのか。いずれにしても見えてくるのは、一人一人の後ろ姿と、冴え冴えとした月光に照らし出されたかすかな白い息。臨済宗は仏心宗ともいわれ、心身を統一し、自らを内観することで、己の中にある仏を悟るのだという。修行の日々は、戒律の下の集団であっても、常に己と向き合い続けているのであり、その姿は、寒月のように孤高である。今日は、旧暦十月十五日、この冬最初の満月。次の満月はクリスマスイブなんだ、などと月のカレンダーを見つつ、歳時記の「冬の月」の項を読んでみた次第。『新日本大歳時記』(1999・講談社)所載。(今井肖子)


December 01122007

 人間はぞろぞろ歩く浮寝鳥

                           田丸千種

えよう、と意識したわけではないのに、なんとなく口をついて出てしまう句というのがある。この句は私にとって、そんな一句。出会ったのは、昨年の十二月十七日、旧芝離宮恩賜庭園での吟行句会にて。芝離宮は、港区海岸一丁目に所在し、昔は海水を引き入れていたという池を中心とした庭園で、毎年水鳥が飛来する。十二月も半ばの冬日和の池の日溜りには、気持よさそうな浮寝鳥が、さほど長くはない首を、器用に羽根の間に埋めて漂っていた。日が動くと、眠っているはずの浮寝鳥達が、つかず離れずしながらいつのまにか、日向に移動。ほんとうに眠っているのか、どんな夢をみているのか、鳥たちを遠巻きにしつつ、それぞれ池の辺の時間を過ごしたのだった。たくさんあった浮寝鳥の句の中で、この句はひとつ離れていた。師走の街には足早な人の群。何がそんなに忙しいのか、どこに向かって歩いているのか。命をかけた長旅を経た水鳥は、今という時をゆっくり生きている。ぞろぞろとぷかぷか、動と静のおもしろさもあるかもしれないが、浮寝鳥に集中していた視線をふっとそらして、それにしてもいい天気だなあ、と空を仰いでいる作者が見えた。(今井肖子)


December 08122007

 見て居れば石が千鳥となりてとぶ

                           西山泊雲

鳥は、その鳴き声の印象などから、古くから詩歌の世界では、冬のわびしさと共に詠まれ、冬季となっている。しかし実際には、夏鳥や留鳥のほか、春と秋、日本を通過するだけの種類もいるという。海辺で千鳥が群れ立つのを見たことがある。左から右へ飛び立ち、それがまた左へ旋回する時、濃い灰褐色から白に、いっせいにひるがえる様はそれは美しかった。この句の千鳥は川千鳥か。作者が見て居たのは河原、そこに千鳥がいることを、あまり意識していなかったのかもしれない。突然、いっせいに飛び立った千鳥の群、本当に河原の石が千鳥となって、飛び立ったように見えたのだろう。句意はそうなのだろうと思いつつ、なんとなく、意識が石へ向いてしまった。子供の頃、生きているのは動物だけじゃないのですよ、草も木もみんな生きているのです、と言われ、じゃあ石は?と思ったけれど聞けなかった。生命は石から誕生し最後には石に還る、という伝説もあるという。半永久的な存在である石が、千鳥となって儚い命を持つことは、石にとって幸せなんだろうか、などと思いつつ、ふっと石が千鳥に変わる瞬間を思い描いてみたりもするのだった。「泊雲」所収。(今井肖子)


December 15122007

 一心の時ゑくぼ出て毛糸編む

                           井上哲王

時記の、毛糸編む、の項を見ると、〈こころ吾とあらず毛糸の編目を読む〉〈毛糸編はじまり妻の黙はじまる〉前者が山口誓子、後者が加藤楸邨。いずれも、毛糸を編むことにのみ集中している妻の姿が詠まれている。続いて、戸川稲村の〈祈りにも似し静けさや毛糸編む〉。編み棒を動かしながら、一目一目編んでいる姿、美しい横顔が浮かんでくる。毛糸編む、は、冬のぬくもりを感じさせる季節の言葉である。掲句は、前後の句から推して、生まれてくる我が子のために編み物をしている妻を詠んだものと思われる。一心に編む妻の頬か口元か、えくぼが見える。笑窪、なので、笑った時にできるのは当然だが、確かに、キュッと口元に力が入った時にもできる。一心の時ゑくぼ出て、という叙し方に、言葉が思わず口をついて出てしまった、という感じがあり、客観的に対象を見ている前出の三句とは、また違ったほほえましさのある一句となっている。ちなみに、この句に目がとまって、えくぼか、と思い検索してみると、最初に「えくぼは簡単に作れる!費用は20万円」と出て、少々驚いた。靨、という漢字も初めて知ったが、厭な面?と思ったらそうではなく、厭(押す、押さえる)とあり、なるほどそういうことかと。「石見」(1997)所収。(今井肖子)


December 22122007

 シリウスの青眼ひたと薬喰

                           上田五千石

星、天狼星、とも呼ばれる、最も明るい冬の星、シリウス。オリオンの三つ星の東南に最後に上り、青白く強い光を放つ恒星である。青眼は正眼であろうから、正面にシリウス。真夜の凍った空気と薬喰(くすりぐい)。肉食が禁じられていた頃、特に冬に体を温める目的でひそかに獣肉を食べたことから、冬に獣肉を食べることを薬喰と呼ぶ。中でも鹿肉は、血行をよくするというので好まれたという。先日、鹿肉の刺身をいただく機会があった。魚はもちろん、鳥肉、馬肉、鯨肉、と刺身は好きなのだが、鹿は初めて。小鉢に盛られたその肉は、鮪のような深い赤であり、ほの甘く癖もなく美味だったのだが、「鹿です」と言われた瞬間、まさに鹿の姿が目の前に浮かび、一瞬たじろいだ。それも、何年か前に訪れた奈良、夜の公園近くの道端の茂みから、突然飛び出して来た鹿の姿が浮かんだのだ。昼間見たのんびりとした様子とは一変し、月に照らされた鹿は、まさに獣であった。それでも結局食べたんでしょ、いつもあれこれ肉を食べてるんでしょ、まさにその通りではあるのだが、あの鹿肉の瑞々しい赤が、月夜の鹿の黒々とした姿と共に脳裏を離れない。そして、掲句の、青眼ひたと、の持つ静謐で鋭い切っ先に、再びたじろいでしまうのだった。「新日本大歳時記」(1999・講談社)所載。(今井肖子)


December 29122007

 枯園でなくした鈴よ永久に鈴

                           池田澄子

立はその葉を落とし、下草や芝も枯れ、空が少し広くなったような庭園や公園、枯園(かれその)は、そんな冬の園だろう。そこで、小さい鈴をなくしてしまう。鈴がひとつ落ちている、と思うと、園は急に広く感じられ、風が冷たく木立をぬけてゆく。身につけていた時には、ときおりチリンとかすかな音をたてていた鈴も、今は枯草にまぎれ、どこかで静かにじっとしている。やがて、鈴を包みこんだ枯草の間から新しい芽が吹き、大地が青く萌える季節が訪れて、その草が茂り、色づいてまた枯れても、新しい枯草に包まれて鈴はそこに存在し続ける。さらに時が過ぎ、落とし主がこの世からいなくなってしまった後も、鈴は永久に鈴のまま。土に還ることも朽ちることもない小さな金属は、枯れることは生きた証なのだ、といっているようにも思える。枯れるからこそまた、生命の営みが続いていく。永久に鈴、にある一抹のさびしさが余韻となって、句集のあとがきの「万象の中で人間がどういう存在なのかを、俳句を書くことで知っていきたい。」という作者の言葉につながってゆく。『たましいの話』(2005)所収。(今井肖子)




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