夏場の電力確保のため、福島原発の定期検査延期。おいおい、大丈夫かいな。(哲




2007ソスN7ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2172007

 飛魚に瞬間の別世界あり

                           岡安仁義

夏から夏、北上して産卵する飛魚、地方によっては夏告げ魚と呼ぶ。そういった意味では今取り上げるのはちょっと遅いかな、とも思うが、はっきりしない梅雨曇りのよどんだ気分を、ぱっと晴れさせてくれた一句であった。あれは小学生の頃だったか、飛び魚の群を見た記憶がある。細かいことは覚えていないが、水面から飛び出した飛魚の白い腹が、光った空にとける瞬間の記憶がある。気が遠くなるような真夏の太陽と、真っ青な海がよみがえるが、あの瞬間、飛魚は水中とはまったく違う世界を体感していたのだ。飛魚は、大きい魚から身を守るために飛ぶのだという。本当に追いつめられると、五百メートル近く滑空するというから驚く。句集の前後の句から、作者は飛魚を目の当たりにしていたのだろう。近づいて来た漁船から逃れようと文字通り飛び出した飛魚に、ふと同化している。瞬間という時間と、別世界という空間が、句に不思議な立体感を与えると共に、五、五、七の加速する破調が、躍動感を感じさせる。飛魚の、思いのほか大きい目に映る別世界を思う。『藍』(1995)所収。(今井肖子)


July 2072007

 工女帰る浴衣に赤い帯しめて

                           富安風生

前の結婚年齢を考えれば「工女」はまずハイティーンまで。十四、五歳くらいが多かったのかもしれぬ。これは、働く少女たちの可憐さを詠んだ句だ。連れ立った工女たちはどこへ帰るのか。工場のある町の夏祭などの風景なら、工場の寮に帰るのだろう。作者はそれをどういう心境で見ているのか。働く若い健康な肉体の美しさを讃えつつ、それに対する慈愛の眼差しがここにはある。作者は高級官僚だったから、ひょっとしたら、こういう少女たちのためにもいい社会をつくらなければならないと思ったかもしれない。現実の政治機構を肯定し、その機構の内部から大衆を啓蒙し導く立場に立った上での「工女帰る」の感慨である。同じ風景を小林多喜二や石川啄木が見たらどう詠むだろうか。啓蒙する側とされる側、管理する側とされる側の区分を、人は致し方なく受け入れるのか、無自覚に受け入れるのか、受け入れがたいとして抗うのか。「工女」という言葉をみるだけで、「女工哀史」を思ってしまう僕は、どうも明るい健康なロマンから離れた複雑な思いをこの風景に感じてしまう。講談社版『日本大歳時記』(1982)所載。(今井 聖)


July 1972007

 淋しい指から爪がのびてきた

                           住宅顕信

頭火や尾崎放哉の自由律俳句は、彼らの特異な生き方を加味して読まれるケースが多いようだ。季語の喚起力や定型を捨てた代わりに作者の人生を言葉の裏づけにしているとも言える。掲句の住宅顕信(すみたくけんしん)もまた、若くして不治の病に侵され26歳の若さで他界した。「ずぶぬれて犬ころ」「降りはじめた雨が夜の心音」などの句がある。この欄に載せようと、掲句を選んだあと、「淋しいからだから爪がのび出す」という放哉の句と似ているのに気づき、その類似について考えていた。放哉に私淑していた顕信がそれを知らないはずはない。が、顕信には顕信の現実があった。その現実を境涯と言い換えてもいいと思うが、そこから考えると類想で片付けられないものも見えてくる。掲句の「指から爪がのびてきた」には手を頭の上にかざしてじっと見入っている病臥の長い時間が感じられる。放哉もまた病魔に冒されていたが、「からだから爪がのび出す」という突き放した表現に荒々しさも感じられる。処し様のないこの激しさが放哉を小豆島の孤独な生活へ追い込んでいったのかもしれない。境涯から読むことは、似ている両句の違いを理解する一助にはなるだろう。しかし彼らの境涯を知らずにそれぞれの句を読んで心を動かされる読者もいるだろう。それは両句とも爪がのびる何気ない生理現象に焦点をあてることで、人間が共通して持っている「淋しさ」への道をひらいているからこそ人を魅了するのかもしれない。『住宅顕信 全俳句集全実像』(2003)所収。(三宅やよい)




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