今朝の東京は本当に久しぶりの青空が広がっています。すっかり梅雨明け気分。(哲




2007ソスN7ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2472007

 もう少しの力空蝉砕けるは

                           寺井谷子

の一生は地中で7年、地上で2週間といわれている。なかには地中暮らしが13年、17年などという強者もいるが、それでもやはり地上の命は同じようにわずかなものだ。蝉という昆虫を感傷的に捉える理由は、この地上での命の短さにあるが、空蝉(抜け殻)が与える視覚的な衝撃も大きく影響しているように思える。無事蝉となった抜け殻を手に乗せそっと握るとき、ふと力を込めて壊してしまいたい衝動にかられる。それは深い渓谷に片足だけそっと差し出す行為にも似て、「しないけれどしてみたらどうだろう」と思うだけで心が騒ぐ。抜け殻なのだから、よもや粉々に壊してしまったとしても、それを残酷な行為とはいえないだろう。しかし、わずかな力の付加を思い留まらせているのが、蝉そのものの形、それも祈るような姿のまま凍り付いている物体への哀憐であろう。わずかな命と引き換えに羽を得た生き物は、その抜け殻さえも殉教者の衣のように神々しく思える。一方、それを引き裂いてしまいたいと思う危うい心に、さまざまなしがらみの中で生きていかねばならぬ人間の悲しいほどまっとうな感情を覚えるのだ。『母の家』(2006)所収。(土肥あき子)


July 2372007

 割り算の余りの始末きうりもみ

                           上野遊馬

でもそうだろうが、苦手な言葉というものがある。私の場合は、掲句の「始末」がそうである。辞書で調べると、おおまかに四つの意味があって、次のようだ。(1)(物事の)しめくくりを付けること。「―を付ける」(2)倹約すること。「―して使う」(3)結果。主として悪い状態についていう。「この―です」(4)事の始めから終わりまで。……ところが私には、どうも(2)の意味がしっくり来ない。そのような意味で使う地方や環境にいなかったせいだと思う。小説などに出てくると、しばしば意味がわからずうろたえてしまう。この句の「始末」も(2)の意味なのだろう。が、一読、やはり一瞬うろたえた後で、やっと気がつき、はははと笑うような「始末」であった。要するに「きうりもみ」は、「割り算の余り」の部分を「倹約」したような料理だということのようだ。どうしても割り切れずに余った部分は、紙の上の割り算であれば放置することも可能だけれど、それでもそれこそ割り切れない思いは残るものである。ましてや、現実の食べ物であるキュウリにおいておや。ならば、他の料理の使い余しのキュウリは、「始末」良く「きうりもみ」にして食べてしまおう。そう思い決めて、せっせと揉んでいるところなのである。「(胡)瓜揉み」なる夏の季語があるほどに、昔は一般的な料理だったが、いまの家庭ではどうなのだろうか。あまり作らないような気もするが、むろんこれは掲句と関係のない別の問題だ。俳誌「翔臨」(第59号・2007年6月)所載。(清水哲男)


July 2272007

 うつす手に光る蛍や指のまた

                           炭 太祇

しかちょうど一年前の暑い盛りだったと思います。日記をめくってみたら7月16日の日曜日でした。腕で汗をぬぐいながら歩いていると、前方を歩く八木幹夫さんの姿を見つけたのです。後を追って、神田神保町の学士会館で開かれた「増俳記念会の日」に参加したのでした。その日の兼題が「蛍」でした。掲句を読んでそれを思い出したのです。あの日、選ばれた「蛍」の句を、清水さんが紹介されていた姿を思い出します。さて、「うつす」は「移す」と書くのでしょうか。しずかにそっと壊さないで移動することを言っているのでしょう。それでも、わざわざひらがなで書かれているので、「映す」という文字も思い浮かびます。手のひらに蛍がその光で、姿を反映している様です。つかまえた蛍を両手で囲えば、「指のまた」が、人の透ける場所として目の前に現れます。こんなに薄い部位をわたしたちの肉体は持っていたのかと、あらためて気付きます。句はあくまでもひっそりと輝いています。思わずからだを乗り出して目を凝らしたくなるようです。蛍をつかまえたことのないわたしにも近しく感じるのは、この句が蛍だけではなく、蛍に照らし返された人のあやうさをも詠んでいるからなのです。『俳句鑑賞歳時記』(2000・角川書店)所載。(松下育男)




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