月齢では今宵満月。が、東京は雨の予報。どこのどなたの泪雨かは知りませぬ。(哲




2007ソスN7ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 3072007

 遣り過す土用鰻といふものも

                           石塚友二

日は「土用丑の日」、鰻の受難日である。街を歩いていると、どこからともなく鰻を焼く美味しそうな匂いが漂ってくる。そういえば今日は「土用丑の日」だったと気づかされ、さてどうしようかと一瞬考えたけれど、やっぱり止めておこうと作者は思ったのである。土用鰻の風習をばかばかしいと思っているわけでもなく、べつに鰻が嫌いなわけでもない。できれば「家長われ土用鰻の折提げて」(山崎ひさを)のように折詰にしてもらって買って帰りたいところだが、手元不如意でどうにもならない。その不如意ぶりが「土用鰻『といふもの』」と突き放した言い方によく表われている。止めの「も」では、さらに土用鰻ばかりではなく、他の「もの」も遣り過して暮すしかない事情を問わず語り的に物語らせている。鰻の天然ものがまだ主流だったころの戦後の句だろう。普段でも高価なのに、丑の日ともなればおいそれと庶民の財布でどうにかなる代物ではなかったはずだ。スーパーマーケットなどで、外国の養殖ものが比較的安価で手に入るいまとは大いに違っていた。そんな作者にも、こういう丑の日もあった。掲句を知ってから読むと、なんとなくほっとさせられる。「ひと切れの鰻啖へり土用丑」。『合本・俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


July 2972007

 ひきだしに海を映さぬサングラス

                           神野紗希

ったりとした日常の世界から、容易に創作の場へ飛び移ることの出来る言葉があります。「ひきだし」も、そのような便利な言葉のひとつです。おそらく、そこだけの閉じられた世界というのが、作者の想像を刺激し、ミニチュアの空間を作り上げる楽しみをもたらすからなのです。ただ、そのような刺激はだれもが同じように受けるものです。「ひきだし」を際立たせて描くためには、それなりに独自の視点を示さなければなりません。掲句に惹かれたのは、おそらくひきだしの中に込められた夏の海のせいです。思わず取っ手に手をかけて、こちらへ大きく引き出してみたくなります。「映さぬ」と、否定形ではありますが、言葉というものは不思議なもので、「海を映さぬ」と書かれているのに、頭の中には、はるかに波打つ海を広げてしまうのです。同様にその海は、サングラスにもくっきりと映り、細かな砂までもが付いているのです。夏も終りの頃に詠まれた句でしょうか。すでに水を拭い去ったサングラスが、無造作にひきだしに放り込まれています。その夏、サングラスがまぶしく映したものは、もちろん海だけではなかったのでしょう。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


July 2872007

 漂へるもののかたちや夜光虫

                           岡田耿陽

光虫、虫の字を持ちながら植物性プランクトンで、海水の温度が三十度前後になると発生するといい夏季に分類されている。昼間海岸沿いに目にする赤潮には、夜間青白く光る夜光虫によるものもあると今回知った。漁師町に生まれ育った耿陽(こうよう)には、海に因んだ句が多く見られるのだが、特に夜光虫については、「耿陽によって明るみに出た季題」とも言われているようだ。そんな作者の、夜光虫の徹底的な写生句のその先にこの句があった。昭和四年の作である。青白い夜光虫の群を水中から見ていると、宇宙空間にいるようだという。まさに、ふれたものの輪郭を光る夜光虫。陸でいえば蛍もそうだが、真闇に光る生きものは、それを目の当たりにしたものに魂や生命を思わせる。作者は、幾たびも夜光虫に出会い、その幻想的な光を見るうち、概念をこえた造化の不思議や無常をも感じたのかもしれない。もののかたちもののかたち、とくり返しつぶやいていると、自分をとりかこんでいるあらゆるものの存在が、ゆらゆらと遠ざかってゆくような心持ちになる。『句生涯』(1981)所収。(今井肖子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます