坊ちゃんなる差別用語(笑)は使いたくないけれど、どこまで坊ちゃんなのか。(哲




2007ソスN7ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 3172007

 空缶にめんこが貯まり夏休み

                           山崎祐子

月20日あたりから始まる夏休みもそろそろ序盤戦終了。身体が夏休みになじんでくる頃だ。めんこ、と聞いて懐かしく思うのはほとんど男性だろう。わたしには弟がいたので、めんこ遊びのおおよそは知っているが、実際に触ったことはないように思う。長方形や丸形の厚紙でできた札を地面に打ちつけ、相手の札を裏返す。裏返ったら自分の物にすることができるので、茶筒などに入れ、まるでガンマンのように持ち歩いていた。気に入りの札をなにやら大切そうに机の端から端まで並べている弟を見て、つくづく男の子には男の子の遊びがあるものなのだ、などと思ったものだ。おそらく掲句の母親もそう感じたのではないだろうか。自分の知らない遊びに夢中になっているわが子に、成長した少年の姿を見つけ誇らしく、また、ずっと遠くにあると思っていた親離れが案外近づいてきていることを知る。掲句の少年は、9月になって新学期が始まってもまだまだ気分は夏休みのままらしく〈筆箱に芋虫を入れ登校す〉とあり、母親にひとしきりの悲鳴を与えたようだ。とはいえ、いまやどこを見ても小型のゲーム機を手にしている子供ばかり。現在めんこ販売の主流は大人のコレクションが中心となっているという。『点晴』(2005)所収。(土肥あき子)


July 3072007

 遣り過す土用鰻といふものも

                           石塚友二

日は「土用丑の日」、鰻の受難日である。街を歩いていると、どこからともなく鰻を焼く美味しそうな匂いが漂ってくる。そういえば今日は「土用丑の日」だったと気づかされ、さてどうしようかと一瞬考えたけれど、やっぱり止めておこうと作者は思ったのである。土用鰻の風習をばかばかしいと思っているわけでもなく、べつに鰻が嫌いなわけでもない。できれば「家長われ土用鰻の折提げて」(山崎ひさを)のように折詰にしてもらって買って帰りたいところだが、手元不如意でどうにもならない。その不如意ぶりが「土用鰻『といふもの』」と突き放した言い方によく表われている。止めの「も」では、さらに土用鰻ばかりではなく、他の「もの」も遣り過して暮すしかない事情を問わず語り的に物語らせている。鰻の天然ものがまだ主流だったころの戦後の句だろう。普段でも高価なのに、丑の日ともなればおいそれと庶民の財布でどうにかなる代物ではなかったはずだ。スーパーマーケットなどで、外国の養殖ものが比較的安価で手に入るいまとは大いに違っていた。そんな作者にも、こういう丑の日もあった。掲句を知ってから読むと、なんとなくほっとさせられる。「ひと切れの鰻啖へり土用丑」。『合本・俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


July 2972007

 ひきだしに海を映さぬサングラス

                           神野紗希

ったりとした日常の世界から、容易に創作の場へ飛び移ることの出来る言葉があります。「ひきだし」も、そのような便利な言葉のひとつです。おそらく、そこだけの閉じられた世界というのが、作者の想像を刺激し、ミニチュアの空間を作り上げる楽しみをもたらすからなのです。ただ、そのような刺激はだれもが同じように受けるものです。「ひきだし」を際立たせて描くためには、それなりに独自の視点を示さなければなりません。掲句に惹かれたのは、おそらくひきだしの中に込められた夏の海のせいです。思わず取っ手に手をかけて、こちらへ大きく引き出してみたくなります。「映さぬ」と、否定形ではありますが、言葉というものは不思議なもので、「海を映さぬ」と書かれているのに、頭の中には、はるかに波打つ海を広げてしまうのです。同様にその海は、サングラスにもくっきりと映り、細かな砂までもが付いているのです。夏も終りの頃に詠まれた句でしょうか。すでに水を拭い去ったサングラスが、無造作にひきだしに放り込まれています。その夏、サングラスがまぶしく映したものは、もちろん海だけではなかったのでしょう。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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