ハマちゃん久しぶりの本塁打で天敵になんとか勝てた。勝って兜の緒を締めよ。(哲




2007ソスN8ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0482007

 宵の町雨となりたる泥鰌鍋

                           深見けん二

の上ではこの夏最後の土曜日だが、暑さはこれからが本番だろう。この句は「東京俳句歳時記」(棚山波郎)より。夏ならば、朝顔市、三社祭など馴染みの深いものから、金魚のせり、すもも祭りなど(私は)初めて知ったものまで、ひとつひとつ丹念に取材された東京の四季が、俳句と共に描かれている。泥鰌を食べる習慣は、東京独自のものというわけでもないらしいが、西の方では概ね敬遠されるようである。一度だけ行ったことのある泥鰌屋は、川沿いの小さい店だった。思い返すと、その濃いめの味付け、鍋が見えなくなるほどにかけ放題の青ネギ、確かに鍋とはいえ、団扇片手に汗をかきかき食べる夏の食べ物である。食べ物を詠む時、そのものをいかにもそれらしく美味しそうに、というのもひとつであろうが、この句は、泥鰌鍋でほてった頬に心地良い川風を思い出させる。川に降り込むかすかな雨音、町を包む夜気と雨の運んでくる涼しさが、夏の宵ならではと思う。泥鰌鍋の項には他に、秋元不死男の〈酒好きに酒の佳句なし泥鰌鍋〉など。「東京俳句歳時記」(1998)所載。(今井肖子)


August 0382007

 焼酎や頭の中黒き蟻這へり

                           岸風三楼

れは二日酔いの句か、アルコール依存症の症状から来る幻を描いた句のように思える。まあ二日酔いならば「焼酎や」とは置かないと思うので後者だと思う。幻影と俳句との関係は古くて新しい。幻影を虚子は主観と言った。主観はいけません、見えたものをそのまま写生しなさいと。思いはすべて主観、すなわち幻影であった。だから反花鳥諷詠派の高屋窓秋は「頭の中で白い夏野となつてゐる」を書いて、見えたものじゃなくても頭で思い描いた白い夏野でもいいんだよと説いてみせた。窓秋の白い夏野も、この句の黒き蟻も幻の景だが、後者はこの景がアルコールによって喚起されたという「正直」な告白をしている。実際には「見えない」景を描くときは、なぜ見えない景が見えたのかの説明が要ると思うのは、「写生派」の倫理観であろう。西東三鬼の「頭悪き日やげんげ田に牛暴れ」はどうだ。この牛も、頭痛などで頭の具合が悪い日の幻影に思える。イメージがどんな原因によって喚起されようと、表現された結果だけが問題だと思うが、そうすると薬物を飲んで作ってもいいのかという最近の論議になる。これも文学、芸術の世界での古くて新しい課題。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


August 0282007

 夕顔や横丁の名も花の名も

                           岡部松助

本邦雄の『國語精粹記』の「歌枕考現學」には各地の美しい地名がずらりと並べられている。京都は「一千年の文化がみづからに施した象眼、螺鈿(らでん)、どの一部分をクローズアップしても、それは固有名詞花園であつた」という説明とともに燈籠町、月見町、紅葉町、佛具屋町、悪王子町、と言った下京の町名が羅列されており、その中に夕顔町の名も見える。驚くことに六条西には天使突抜(てんしつきぬけ)と呼ぶ地域もあるらしい。散歩や観光で訪れた見知らぬ場所でたまたまこのような名前を目にとめたら、さぞ旅心を刺激されることだろう。この句ではあてどなく歩いている最中にふっと目を留めた町名と門扉の近くに揺れる真っ白な花の名が一致した偶然がさりげなく詠まれている。陋屋に美しい女を見出す『源氏物語』から始まって「夕顔」という言葉は様々な連想を抱えこんでいる。「横丁の名も」「花の名も」と後に続いてゆく「も」にそのあたりの事情を含ませているのだろう。しかし、この句は歩いているときに出会った偶然をそのまま句に書きとめている何気なさが魅力。それが「夕顔」の美しさとともに気さくで身近なこの花の印象を引き立てているように思う。俳誌「や」(第43号・2007年夏号)所載。(三宅やよい)




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