猛暑がつづいていますね。しかし、見上げれば雲がだんだんと秋のかたちに。(哲




2007ソスN8ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1082007

 うつくしや雲一つなき土用空

                           小林一茶

心者だった頃は俳句に形容詞を使わないようにと指導される。悲しい、うれしい、楽しい、美しい。言いたいけれども、言ってはいけない。固く心に決めてこれらの語には封印をする。嫌うからには徹底的に嫌って、悪役扱いまでする。これが、どうにかベテランと言われる年代に来ると、この河豚の肝が食べてみたくなる。心情を自ら説明する修飾語を使うというハンデを乗り越えて、否、その欠点を逆手にとって、満塁ホームランを打ってみたくなる。一茶には「うつくしや障子の穴の天の川」もある。二句とも平明、素朴な庶民感覚に溢れていて良い句だ。「雁や残るものみな美しき」これは石田波郷。去るものと残るものを対比させ、去るものの立場から見ている。複雑な心情だ。雲一つない空の美しさは現代人が忘れてしまったもの。都市部はむろんのこと、農村部だって、アスファルトも電柱もなく軒も低い昔の空の美しさとは比較にならない。今住んでいる横浜から、定期的に浜松に行っているが、行くたびに霧が晴れたように風景がよく見える。最初気のせいかと思ったが、毎回実感するので、実際そうなのだろう。いかに都市の空気が汚染されているかがわかる。失われた空の高さ、青さを思わせてくれる「うつくしや」だ。平凡社『ポケット俳句歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


August 0982007

 原爆忌折鶴に足なかりけり

                           八田木枯

島に続き62年前の今日、11時2分長崎に二つ目の原爆が投下された。先年亡くなった義父は、広島の爆心地近くで被爆したが、近くにあった茶箪笥が熱線と爆風を受け止めたため九死に一生を得た。今も使われている箪笥の裏側はあの日の閃光で真っ白に変色している。ニュースやドキュメンタリーで広島、長崎のきのこ雲の映像を見るたび、普段どおりの生活を営んでいた数十万の人々が巻き込まれた苛酷な運命を思い胸が痛くなる。熱線に焼かれ火炎地獄の中で亡くなっていった人々の悔しさと無念さはいかばかりだったろう。かろうじて生き残った人々の心と身体にも深い傷が残った。今年も鎮魂の折鶴が何万羽となく被爆地へ届けられたことだろう。私の職場でも各机で鶴が折られ箱に収まった。「折鶴に足なかりけり」と、「脚」ではなく「足」と表記したことで、折鶴には不似合いな生身の足を感じさせる。おびただしく折られる鶴のことごとくに足のない事実は、あの日火傷を負い、建物の瓦礫に埋まり、身動きが出来ぬまま亡くなっていった数万の人々の姿と響きあう。それは原爆の悲惨な現実を思い起こさせると同時に、戦後62年を経た今、生きながらえた私たちが折鶴に託する祈りは何なのかと読み手の胸にせまってくるのだ。「現代俳句」(2005年7月号)所載。(三宅やよい)


August 0882007

 千住の化ケ煙突や雷きざす

                           三好達治

立区千住の空にそびえていた千住火力発電所の「おばけ煙突」を知る人も、今や少数派になってしまった。「おばけ」と呼ばれたいわれはいろいろあるのだが、見る場所によって、四本の巨大な煙突が三本にも二本にも一本にも見えた。残念ながら、東京オリンピックの年1964年11月に姿を消した。私が大学生時代、山手線の田端か駒込あたりから、北の方角に煙突はまだ眺められた。掲出句で作者が立っている位置は定かではないが、近くで見上げているのではあるまい。煙突の彼方にあやしい雷雲が発生して、雷の気配が感じられているのである。今しもガラゴロと近づいてくる兆しがある。雷と自分のいる位置、その間に「おばけ煙突」が立ちはだかっているという、じつに大きな句姿である。「おばけ・・・」などと呼ばれながら、当時はどこかしら親しまれていた煙突だが、ここでは雷の気配とあわせて、やや剣呑をはらんだ光景としてとらえられているように思われる。「化ケ煙突」とはうまい表現ではないか。先般七月に起きた「中越沖地震」で大きな被害にあった柏崎地方の有名な盆踊唄「三階節」のなかで、雷は「ピッカラチャッカラ、ドンガラリン」と愛嬌たっぷりに唄われている。また「おばけ煙突」は五所平之助監督の名画「煙突の見える場所」(1953)の冒頭から巻末まで、ドラマの背景として登場していたこともよく知られている。達治は少年時代から句作に励み、生涯に1,000句以上残したという。玄人はだしの格調の高い句が多い。『定本三好達治全詩集』(1964)所収。(八木忠栄)




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