「にやにやしながら仕事をするな。疲れるだけだ」。炎天下で働く男の叱責が。(哲




2007ソスN8ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1382007

 涼み台孫ほどの子と飛角落

                           辻田克巳

台将棋を楽しむ人の姿を見かけなくなった。どころか、日常会話で将棋の話が出ることも珍しい。漫画のおかげでひところ囲碁がブームになったけれど、その後はどうなっているのだろう。いまや遊び事には事欠かない世の中なので、面倒な勝負事を敬遠する人が増えてきたということか。将棋や囲碁の魅力の一つは、掲句のように世代を越えて一緒に遊べることだ。私も小学生のころには、近所の若い衆やおじさんなどとよく指した。指しながらの会話で、大人の世界を垣間見られるのも楽しかった。私は弱かったが、同級生にはなかなか強いのがいた。大人と対戦しても、たぶん一度も負けたことはなかったはずだ。あまりに実力が違うと、句のように、飛車や角行を落としてハンデをつけてもらう。作者は孫ほどの年齢の子にとても歯が立たないので、飛車も角行も落としてもらって対戦している。これは相当なハンデでですが、それでも形勢不利のようですね。こういうときに大人としては口惜しさもあるけれど、私にも覚えがあるが、指しているうちに相手に畏敬の念すら湧いてくることがある。確かに人間には、こちらがいくら力んでもかなわない「天賦の才」というものがあるのだと実感させられる。おそらくは作者にもそうした思いがあって、むしろ劣勢を心地よく受け止めているのではなかろうか。句から、涼しい風が吹いてくる。『ナルキソス』(2007)所収。(清水哲男)


August 1282007

 窓あけば家よろこびぬ秋の雲

                           小澤 實

めばだれしもが幸せな気分になれる句です。昔から、家を擬人化した絵やイラストの多くは、窓を「目」としてとらえてきました。位置や形とともに、開けたり閉じたりするその動きが、まぶたを連想させるからなのかもしれません。「窓あけば」で、目を大きく見開いた明るい表情を想像することができます。ところで、家が喜んだのは、窓をあけたからなのでしょうか、あるいは澄んだ空に、ゆったりとした雲が漂っているからでしょうか。どちらとも言えそうです。家が喜びそうなものが句の前後から挟み込んでいるのです。「秋の」と雲を限定したのも頷けます。春の雲では眠くなってしまうし、かといって夏でも冬の雲でもだめなのです。ここはどうしても秋の、空を引き抜いて漂わせたような半透明の雲でなければならないのです。その雲が細く、徐々に窓から入り込もうとしています。家の目の中に流れ込み、瞳の端を通過して行く雲の姿が、思い浮かびます。「よろこぶ」という単純で直接的な表現が、ありふれたものにならず、むしろこの句を際立たせています。考え抜かれた末の、作者のものになった後の、自分だけの言葉だからなのでしょう。『合本 俳句歳時記』(1998・角川書店)所載。(松下育男)


August 1182007

 稲妻やアマゾン支流又支流

                           大城大洋

が実る前に多く見られる稲光。古くは、この光が稲を実らせると言われ、稲の夫(つま)から転じて稲妻となったという。一瞬の閃光に照らし出される稲田と、しばしの沈黙の後に訪れる雷。自然の力を目の当たりにした古人の想像力には感心させられるが、稲光をともなった雨は天然の窒素肥料になるという科学的根拠もあるらしい。この句の稲光が照らし出しているのは、広大なアマゾン川。河口の幅は百キロメートルに及ぶというから、途方もない大きさである。稲光の、空を割る不規則な形状と、アマゾン川の支流の枝分かれとが重なって、一読して大きい景が見える。日本からは最も遠い国。自己中心的に地球の裏側などというブラジルへの移民は、1908年(明治四十一年)に始まり、その数は約二十五万人、現在居住している日系人は百三十万人以上であるという。そして、その百年の歴史の中で、俳句が脈々と詠まれ続けて今日に至っていることは興味深い。それぞれの生活や心情は、到底思い及ばざるところだが、〈珈琲は一杯がよし日向ぼこ〉(亀井杜雁)など、その暮らしのつぶやきが聞こえるような句や、〈雷や四方の樹海の子雷〉(佐藤念腹)など、掲句同様、彼の地ならではのスケールの大きい句が生まれている。八月八日、ブラジルは立春であったということか。「ブラジル季寄せ」(1981・日伯毎日新聞社)所載。(今井肖子)




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