この夏は「大人」の水の事故が多いような……。お出かけの方、お気をつけて。(哲




2007ソスN8ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1482007

 白蝶に白蝶が寄り盆の道

                           福井隆子

の行事は、先祖を敬うという愛情を芯にしながらも、地方によってその表現方法はさまざまである。数年前、沖縄県石垣島で伝統的な「アンガマ」を目の当たりにすることができた。旧盆の三日間、あの世からこの世へ精霊たちが賑やかに来訪し、きわめて楽し気にあちらの生活を語ってまわるという、いかにも南国らしい行事である。先頭の若者は、ウシュマイ(お爺)とウミー(お婆)の面を付け、昔ながらの島言葉を操り、踊り歌いながら新盆を迎えた家々を訪問する。輝く月に照らされ、使者たちの行列は家から家へ、黒々とした健やかな影を引きながら未明まで続く。考えてみれば、お盆にこの世を訪問する死者とは、明るい浄土を成し得た幸せな者たちである。個々の悲しみはさておき、空中に浮遊する明るい魂に囲まれている楽しさに、思わず長い行列の最後尾に加わり、満天の星の下を歩いていた。掲句の白蝶は、ふと眼にした景色を写し取りながら、美しい死者の魂のようにも見せている。触れ合えばまた数を増やし、現世を舞ってゆく。句中に据えられた「寄り」の文字が「寄り代」を彷彿させ、あの華奢な昆虫を一層神々しく昇華させている。『つぎつぎと』(2004)所収。(土肥あき子)


August 1382007

 涼み台孫ほどの子と飛角落

                           辻田克巳

台将棋を楽しむ人の姿を見かけなくなった。どころか、日常会話で将棋の話が出ることも珍しい。漫画のおかげでひところ囲碁がブームになったけれど、その後はどうなっているのだろう。いまや遊び事には事欠かない世の中なので、面倒な勝負事を敬遠する人が増えてきたということか。将棋や囲碁の魅力の一つは、掲句のように世代を越えて一緒に遊べることだ。私も小学生のころには、近所の若い衆やおじさんなどとよく指した。指しながらの会話で、大人の世界を垣間見られるのも楽しかった。私は弱かったが、同級生にはなかなか強いのがいた。大人と対戦しても、たぶん一度も負けたことはなかったはずだ。あまりに実力が違うと、句のように、飛車や角行を落としてハンデをつけてもらう。作者は孫ほどの年齢の子にとても歯が立たないので、飛車も角行も落としてもらって対戦している。これは相当なハンデでですが、それでも形勢不利のようですね。こういうときに大人としては口惜しさもあるけれど、私にも覚えがあるが、指しているうちに相手に畏敬の念すら湧いてくることがある。確かに人間には、こちらがいくら力んでもかなわない「天賦の才」というものがあるのだと実感させられる。おそらくは作者にもそうした思いがあって、むしろ劣勢を心地よく受け止めているのではなかろうか。句から、涼しい風が吹いてくる。『ナルキソス』(2007)所収。(清水哲男)


August 1282007

 窓あけば家よろこびぬ秋の雲

                           小澤 實

めばだれしもが幸せな気分になれる句です。昔から、家を擬人化した絵やイラストの多くは、窓を「目」としてとらえてきました。位置や形とともに、開けたり閉じたりするその動きが、まぶたを連想させるからなのかもしれません。「窓あけば」で、目を大きく見開いた明るい表情を想像することができます。ところで、家が喜んだのは、窓をあけたからなのでしょうか、あるいは澄んだ空に、ゆったりとした雲が漂っているからでしょうか。どちらとも言えそうです。家が喜びそうなものが句の前後から挟み込んでいるのです。「秋の」と雲を限定したのも頷けます。春の雲では眠くなってしまうし、かといって夏でも冬の雲でもだめなのです。ここはどうしても秋の、空を引き抜いて漂わせたような半透明の雲でなければならないのです。その雲が細く、徐々に窓から入り込もうとしています。家の目の中に流れ込み、瞳の端を通過して行く雲の姿が、思い浮かびます。「よろこぶ」という単純で直接的な表現が、ありふれたものにならず、むしろこの句を際立たせています。考え抜かれた末の、作者のものになった後の、自分だけの言葉だからなのでしょう。『合本 俳句歳時記』(1998・角川書店)所載。(松下育男)




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