東京の暑さは一段落。この何日間か暑さで人が死ぬこともあると実感しました。(哲




2007ソスN8ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1982007

 八月をとどめるものとして画鋲

                           篠原俊博

から小学校の近くには、かならず小さな文房具屋があったものです。売っているのはもちろん勉強に使う物たち。鉛筆であり、消しゴムであり、帳面であり、画用紙であるわけです。小さな間口から急いで走りこみ、始業時刻に間に合うようにあわてて必要なものを買って走り出した日を思い出します。いつの頃からか、文房具はおしゃれな小物になり、時に気どった英語で呼ばれるようになり、派手な絵や柄が付くようになりました。掲句で扱われている「画鋲(がびょう)」という言葉は、濁音の多い音そのままに、今でも時代に取り残されたように使われています。けれど姿だけは、平らで金属そのままの愛想のないものから、最近は色の鮮やかなものが売られるようになりました。この句を読んですぐに思い浮かべたのは、壁にかかったカレンダーです。高層マンションの一室でしょうか。窓が大きく開けられ、さわやかな風が吹き込んでいます。風に揺れる海の絵を見つめる目は、窓の向こうの本物の海をも視野に入れているのかもしれません。12の月を綴じた暦の、もっとも明るく、外へこぼれだしそうなのが「八月」です。画鋲はここで、カレンダーを壁に留めているだけではないようです。八月にあった大切な出来事を、作者の「記憶」にしっかりと留める役割をも果たしています。指に力を込めて、決して忘れないように。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1882007

 かなかなに水面のごとき空のあり

                           山下しげ人

なかな、蜩、日暮し。蝉は夏季だが、蜩は法師蝉と並んで秋季。先日、立秋間近の六甲山で吟行句会があり、この句は八月四日の第一句会での一句である。六甲山は初めてだったが、さすがに涼しく、朝な夕な、熊蝉に混ざってかなかなが鳴き続けていた。かつて住んでいた箱根に近い町では、暮れつつある山から、かなかなの声が夕風に乗って流れてきたものだったが、現在の東京での日常生活では、めぐり合うことはほとんどない。そんな、油蝉とにいにい蝉に時々みんみんが混ざる下界の蝉の声に慣れた耳に、高原の蝉の声は、鮮やかに透きとおって響いた。かなかなの調べは、もとよりどこか郷愁を誘うものだが、ずっと聞いていると、まるで森を濡らしているように思えてくる。この句の、かなかなに、という表現には、かなかなの声もまた水の流れのようである、という心持ちがこめられているのかもしれない。かなかなの声に誘われるように見上げる空には、秋の気配が流れていた。(今井肖子)


August 1782007

 膝抱けば錨のかたち枇杷熟れる

                           坪内稔典

、海軍、滅亡、沈没、死者、敗戦、夏・・・というふうに日本人の連想は続く。夏と敗戦のつながりは決定的で、夾竹桃や百日紅からもすぐ敗戦を連想する人さえいる。そういう日本人がいなくなる未来はどのくらい経ったらやってくるのだろう。テレビの街頭インタビューで日本がアメリカと戦ったということすら知らない若者が何人もいたが、これはにわかには信じがたい。日本人の大学進学率は確か七十パーセントを超える。第二次大戦は言わずもがな、ポツダム宣言あたりを知らなければ大学はおろか、有名私立中学にも受からない。あのテレビはやらせだ。この句は日本人の苦い連想の上に立っている。「膝抱けば」は死者の姿勢。沈んでいる遺骨への思い。同じ句集の中の「赤錆のわたしは錨草茂る」も同様の内容。この句では、陸の上にある見えている錨が描かれる。わたし即ち錨という発想だが、草茂るもあるし、わたし、日本人、戦争、夏、というイメージからは離れられない。作者もその効果を承知で構成している。錨即ち海軍。どうも帝国海軍は知的であったのに帝国陸軍が横暴で敗戦必定の戦争に持ち込んだという論議が一般的だ。ほんとにそうかなあ。海軍もめちゃくちゃな作戦で多くの海戦をやったように思える。今から見れば。『月光の音』(2001)所収。(今井 聖)




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