昨日の佐賀北対帝京戦。一寸だけ見るつもりが最後まで。素晴らしい試合でした。(哲




2007ソスN8ソスソス20ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2082007

 輪ゴム一山八月の校長室

                           横山香代子

者は教師だったから、このとき何かの用事で校長室に入ったのだろう。「八月」なので夏休み中であり、校長室の主は不在だ。その昔、私が中学生だった頃に一度か二度、校長室なる厳めしそうな部屋に呼ばれて入ったことがあるけれど、壁にかけられていた歴代校長の肖像写真(画)を除いては、何があったのかは覚えていない。緊張していたせいもあるのだろうが、校長室なんて部屋にはもともと特殊なものは置かれていないのが普通のようだ。職員室のような雑然とした趣はない。もちろん生徒の目と教師の目とでは、同じ校長室に入ったとしても見るところは異なるはずだが、掲句の「輪ゴム一山」となれば、誰だって不思議に思う。なぜ、校長の机の上に輪ゴムが、それも一山も置いてあるのだろうか。謎めいて写る。でも、この句はそうした謎に焦点を当てているわけではない。そうではなくて、夏休み中の学校全体の雰囲気を、校長室の輪ゴムの山からいわばパラフレーズしてみせているのだ。日常とは切れている時空間のありよう……。たまに会社に休日出勤しても、これに類したことを体験することがある。『人』(2007)所収。(清水哲男)


August 1982007

 八月をとどめるものとして画鋲

                           篠原俊博

から小学校の近くには、かならず小さな文房具屋があったものです。売っているのはもちろん勉強に使う物たち。鉛筆であり、消しゴムであり、帳面であり、画用紙であるわけです。小さな間口から急いで走りこみ、始業時刻に間に合うようにあわてて必要なものを買って走り出した日を思い出します。いつの頃からか、文房具はおしゃれな小物になり、時に気どった英語で呼ばれるようになり、派手な絵や柄が付くようになりました。掲句で扱われている「画鋲(がびょう)」という言葉は、濁音の多い音そのままに、今でも時代に取り残されたように使われています。けれど姿だけは、平らで金属そのままの愛想のないものから、最近は色の鮮やかなものが売られるようになりました。この句を読んですぐに思い浮かべたのは、壁にかかったカレンダーです。高層マンションの一室でしょうか。窓が大きく開けられ、さわやかな風が吹き込んでいます。風に揺れる海の絵を見つめる目は、窓の向こうの本物の海をも視野に入れているのかもしれません。12の月を綴じた暦の、もっとも明るく、外へこぼれだしそうなのが「八月」です。画鋲はここで、カレンダーを壁に留めているだけではないようです。八月にあった大切な出来事を、作者の「記憶」にしっかりと留める役割をも果たしています。指に力を込めて、決して忘れないように。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1882007

 かなかなに水面のごとき空のあり

                           山下しげ人

なかな、蜩、日暮し。蝉は夏季だが、蜩は法師蝉と並んで秋季。先日、立秋間近の六甲山で吟行句会があり、この句は八月四日の第一句会での一句である。六甲山は初めてだったが、さすがに涼しく、朝な夕な、熊蝉に混ざってかなかなが鳴き続けていた。かつて住んでいた箱根に近い町では、暮れつつある山から、かなかなの声が夕風に乗って流れてきたものだったが、現在の東京での日常生活では、めぐり合うことはほとんどない。そんな、油蝉とにいにい蝉に時々みんみんが混ざる下界の蝉の声に慣れた耳に、高原の蝉の声は、鮮やかに透きとおって響いた。かなかなの調べは、もとよりどこか郷愁を誘うものだが、ずっと聞いていると、まるで森を濡らしているように思えてくる。この句の、かなかなに、という表現には、かなかなの声もまた水の流れのようである、という心持ちがこめられているのかもしれない。かなかなの声に誘われるように見上げる空には、秋の気配が流れていた。(今井肖子)




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