可哀想にこの猫はカメラを向けられて動けないのです。逃げるチャンスを逃して。(哲




2007ソスN8ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2182007

 かなかなのかなをかなしく鳴きをはる

                           加藤洋子

泉八雲は『蝉(シカダ)』のなかで、「ヒグラシ或はカナカナ」として「日を暗くす、といふ意味の名を有つた此蝉は(中略)いかにも上等な呼鈴を極早く振る音に酷似して居る」と記す。夏の暑さを増幅させるようなアブラゼミやミンミンゼミたちの一斉合唱にひきかえ、カナカナは一匹ずつがバトンを渡すように交替で鳴き、真昼の蝉の声とはまったく異なる印象を持つ。それは徐々にかき消されていくような、輪唱のおしまいの心細さを感じさせ、夏の終わりをセンチメンタルに演出する。俳句では感情を直接表現せず、モノに語らせることが大切といわれるが、掲句の「かなしく」は感情であると同時に、「カナカナ」の「カナ」は「かなしみ」の「かな」でもあるという作者の発見を、つつましく提示したものでもある。また、句中に響く4つの「かな」の間が、だんだんと消え入るようなバランスで配置されている音の美しさも絶妙である。百人一首の「これやこの行くも帰るも別れてはしるもしらぬもあふ坂の関」で知られる蝉丸は多くの伝承を持つ人物だが、方丈記では「蝉歌の翁」として紹介されている。「蝉歌」がいかなるものか、現在ではまったく残っていないといわれるが、きっとカナカナの声を思わせる哀しみを伴った美しい楽曲だったことだろう。『白魚』(2006)所収。(土肥あき子)


August 2082007

 輪ゴム一山八月の校長室

                           横山香代子

者は教師だったから、このとき何かの用事で校長室に入ったのだろう。「八月」なので夏休み中であり、校長室の主は不在だ。その昔、私が中学生だった頃に一度か二度、校長室なる厳めしそうな部屋に呼ばれて入ったことがあるけれど、壁にかけられていた歴代校長の肖像写真(画)を除いては、何があったのかは覚えていない。緊張していたせいもあるのだろうが、校長室なんて部屋にはもともと特殊なものは置かれていないのが普通のようだ。職員室のような雑然とした趣はない。もちろん生徒の目と教師の目とでは、同じ校長室に入ったとしても見るところは異なるはずだが、掲句の「輪ゴム一山」となれば、誰だって不思議に思う。なぜ、校長の机の上に輪ゴムが、それも一山も置いてあるのだろうか。謎めいて写る。でも、この句はそうした謎に焦点を当てているわけではない。そうではなくて、夏休み中の学校全体の雰囲気を、校長室の輪ゴムの山からいわばパラフレーズしてみせているのだ。日常とは切れている時空間のありよう……。たまに会社に休日出勤しても、これに類したことを体験することがある。『人』(2007)所収。(清水哲男)


August 1982007

 八月をとどめるものとして画鋲

                           篠原俊博

から小学校の近くには、かならず小さな文房具屋があったものです。売っているのはもちろん勉強に使う物たち。鉛筆であり、消しゴムであり、帳面であり、画用紙であるわけです。小さな間口から急いで走りこみ、始業時刻に間に合うようにあわてて必要なものを買って走り出した日を思い出します。いつの頃からか、文房具はおしゃれな小物になり、時に気どった英語で呼ばれるようになり、派手な絵や柄が付くようになりました。掲句で扱われている「画鋲(がびょう)」という言葉は、濁音の多い音そのままに、今でも時代に取り残されたように使われています。けれど姿だけは、平らで金属そのままの愛想のないものから、最近は色の鮮やかなものが売られるようになりました。この句を読んですぐに思い浮かべたのは、壁にかかったカレンダーです。高層マンションの一室でしょうか。窓が大きく開けられ、さわやかな風が吹き込んでいます。風に揺れる海の絵を見つめる目は、窓の向こうの本物の海をも視野に入れているのかもしれません。12の月を綴じた暦の、もっとも明るく、外へこぼれだしそうなのが「八月」です。画鋲はここで、カレンダーを壁に留めているだけではないようです。八月にあった大切な出来事を、作者の「記憶」にしっかりと留める役割をも果たしています。指に力を込めて、決して忘れないように。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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