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August 2982007

 鬼灯のひとつは銀河の端で鳴る

                           高岡 修

年の浅草のほおずき市では千成ほおずきが目立った。あれは子どもの頃によく食べたっけ。浅草で2500円で買い求めた一鉢の鬼灯が、赤い袋・緑の袋をつけて楽しませてくれたが、もう終わりである。子どもの頃、男の子も入念に袋からタネを取り出してから、ギューギュー鳴らしたものだったけれど、惜しいところでやたらに袋が破れた。鳴らすことよりも、あわてず入念になかのタネをうまく取り出すことのほうに一所懸命だったし、その作業こそスリリングだった。今も見よう見まね、自分でタネを取り出して鬼灯を鳴らす子がいることはいるのだろう。掲出句を収めた句集には、死を直接詠ったものや死のイメージの濃厚な句が多い。「父焼けば死は愛恋の火にほてる」「死螢が群れ天辺を明かくする」など。女性か子どもであろうか、心ならずも身まかってのち、この世で鳴らしたかった鬼灯を、銀河の端にとどまり銀河にすがるように少々寂しげに鳴らしている――そんなふうに読みとってみると、あたりはシンとして鮮やかに目に映る銀河の端っこで、鬼灯がかすかに鳴っているのが聞こえてくるようだ。その音が銀河をいっそう鮮やかに見せ、鬼灯の鳴る音を確かなものにし、あたりはいっそうシンと静まりかえったように感じられてくる。ここでは「ひとつ」だけが鳴っているのであり、他のいくつかは天辺の果てで鳴っているのかもしれないし、地上のどこかで鳴っているのかもしれない。儚い秋の一夜である。高岡修は詩人でもある。第二句集『蝶の髪』(2006)所収。(八木忠栄)


May 1552013

 バスはるかゆらめいてみゆ薄暑かな

                           白石冬美

うした光景は一目瞭然であろう。いよいよ暑くなってきた時季、はるかかなたからよろよろと近づいてくる、待ちかねたバスが陽炎のようにゆらめいて見えてきた。♪田舎のバスはおんぼろ車/タイヤは泥だらけ窓は閉まらない……という、のどかな歌がかつてあったけれど、この場合、田舎のバスに限定することはない。にじむ汗を拭いながら、遠くからようやく姿を見せてやってきたバスに、ホッとしているのだろう。それにしても、見えているのにゆらめいているから、スピードはじっさい遅く感じられる。「はるかゆらめいてみゆ」の平仮名表記が、陽炎のように見えるバスのさまを表わしているところが憎い。汗だくの炎暑の真夏ではなくて、まだ「薄暑」の頃だから、掲句はきれいにおさまっている。この季語の使い方について、金子兜太は「とぼけて、はぐらかして、横からそっと差し出したような季語」と評している。他に「鬼灯を鳴らせば紅(べに)のころがりぬ」がある。俳号は茶子。猫の句を集めた句集『猫のしっぽ』がある。「俳句αあるふぁ」(1994年7月号)所載。(八木忠栄)


June 2662015

 青葉木莵沼に伝説ありにけり

                           高木加津子

に棲む青葉木莵それに沼とくれば伝説の一つや二つはありそうである。私の住む柏市の手賀沼にも数々の伝説がある。藤姫伝説という悲恋物語は沼の遊歩道に石碑となって今も残っている。河童伝説などは水上での生業に明け暮れすれば水に命を落とす者が多くそれに纏わって河童なるものを生み出したのだろう。往時手賀沼も鬱蒼たる樹林や田畑に囲まれていた。青葉木莵などの生息地には今野鳥博物館があり剥製が飾ってある。沼の中にはおおらかに河童の像が遊んでいる。他に<濃あぢさゐ滲んで葉書届きをり><ため息のごとく蛍の点りけり><青鬼灯秘めたる夢を語り初む>など。俳誌「百鳥」(2012年10月号)所載。(藤嶋 務)




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