ホームラン7本打っても勝てなかった巨人。こんな試合はプロ野球史上初かも。(哲




2007ソスN9ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0892007

 露しぐれ捕はれ易き朝の耳

                           湯川 雅

は一年中結ぶものだが、夜、急に冷え込む秋の初めに多く見られることから秋季。露しぐれ、とは、夜のうちに木々に宿った露が、朝になってしたたり落ちるのをいう。晩夏から初秋にかけて、花野に色が増える頃、高原などではことさら朝露が匂う。早朝、ゆっくり息を吸って、瑞々しい大気を体中に行き渡らせると、まず五感がくっきりと目覚めてくる。そして、おもむろに息を吐く。すると、かすかな朝の虫、鳥の声、風音と共に、ぱらぱらとしたたり落ちる露の音が耳に届いてくる。細やかで透明な秋の音。露しぐれは、これだけで情景を言いおおせてしまう感のある言葉であり、ともすれば情に流されやすく、一句にするとその説明に終わってしまう可能性もある。また、澄んだ朝の空気の中では音がよく聞こえる、というのも誰もが感じることだ。この句の場合、捕はれ易き朝の耳、という少し理の克った、耳を主とした表現が、露しぐれの音と呼応しつつ、常套的な説明からふっとそれたおもしろさを感じさせる。俳誌「ホトトギス」(2002年3月号)所載。(今井肖子)


September 0792007

 団栗を拾ひしあとも跼みゐる

                           石田郷子

べられるわけでもなく、団栗を拾うことにはさしたる現実的な意味はない。子供が遊びのために拾うか、大人がなんとなく拾うか。これを前者、子供の動作と受け取ると平凡な風景だろう。遊ぶために団栗を拾っている子供が、その姿勢のまま、虫の動きやら別の植物やら地上のもろもろの様子に気づいて見入っている。そこには子供の好奇心の典型があるだけで新鮮な詩情は感じられない。僕は後者、大人の句と取りたい。考えごとをしながら俯き加減に歩いていて、ふと、散らばっている団栗に目をやる。男は一瞬考えごとを中断して跼(かが)み込み、一個の団栗を手にする。手にした後、かがんだまま、またもとの思考の中に戻るのである。人間の動作の多くは合理性の中で行われるわけではない。日常的行動の端々は不合理や非条理に満ち満ちている。この句のようなひとつのカットが人間というものの複雑さを浮き彫りにする。『石田郷子作品集1』(2005)所収。(今井 聖)


September 0692007

 いま倒れれば鶏頭の中に顔

                           渡辺鮎太

っと固まって咲く鶏頭は、はかなげな秋の花と違いどこか不気味な面持ちをしている。もともとは熱帯アジア原産で、古く日本へ渡来したと辞書にあるから長い間観賞用の花として愛好されてきたのだろう。この花を気持ち悪く思う私にはどこが良くて花壇に植えられているのかさっぱりわからない。「いま倒れれば」といきなり始まる唐突な出だしは前のめりに倒れそうになった瞬間心をよぎった言葉なのか、それとも起こりそうもない状態を仮定しての言葉なのか。いずれにしても「ば」のあとに続く事柄が、「鶏頭の中に顔」で切れているヘンさ加減が鶏頭嫌いの私にとってはとても気になる。まっすぐ立っている鶏頭を顔で押し分けながら倒れこんでゆくシーンは柔らかそうなコスモスなどに倒れこむより現実的でちょっと毒を含んでいるように思える。鶏頭の中に顔があるシュールで大胆な構図も面白いが、実際に自分の顔が倒れこんでゆく場面を想像してみると、たくましい茎は直立したまま曲がりそうにないし、ばちばち顔に当たる葉も痛そうだ。鶏頭を詠むのに花から離れて詠むのではなく、自分の身体を倒してみる。しかも物が当たるのに一番避けたい顔を持ってきたことで句に生々しさが生まれ、鶏頭の異様な感触を際立たせたように思う。『十一月』(1998)所収。(三宅やよい)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます