大学の卒業を厳格にと中教審。その前に「いまの大学とは何か」を詰めるべき。(哲




2007ソスN9ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1192007

 何の実といふこともなく実を結び

                           山下由理子

花(やいとばな)、臭木(くさぎ)、猿捕茨(さるとりいばら)。いささか気の毒な名前を持つこの草花たちは、目を凝らせばわりあいどこにでも見つかるものだが、正確な名を知ったのは俳句を始めてからのことだ。そして、これらが驚くほど美しい実を付けることもまた、俳句を通して知ったのだった。歳時記を片手に周囲を見回せば、植物学者が苦心惨憺、あるいは遊び心も手伝ったのであろう草木の名前に、微笑んだり吹き出したりする。しかし、掲句は名前を言わないことで優しさが際立った。作者はもちろんその名を知っていて、あえてどれとなく実を結ぶ眼前の植物を、大らかに抱きとめるように愛でているのであろう。作者の目の前では確かに名前を持つさまざまな植物が、ここでは結んだ実としてのみ存在する。分類学上の名前を与えられてなかった時代にも、同じように花を咲かせ、また実っていたことだろう。先日の台風が通り過ぎ、いつもの散歩道にも固いままの銀杏や柘榴など、たくさんの実が散乱していた。頭上の青い葉の蔭に、若々しい実りがこんなにも隠されていたとは思いもよらぬことだった。掲句を小さく口ずさみ、青い実をひとつ持ち帰った。〈抱きしめて浮輪の空気抜きにけり〉〈変わらざるものは飽きられ水中花〉『野の花』(2007)所収。(土肥あき子)


September 1092007

 秋草の押し花遺りて妻の忌や

                           伊藤信吉

者は詩人として著名だった。父親(美太郎)が俳句を趣味としていたので、作句はその遠い影響だろうか。あるいは師であった萩原朔太郎や室生犀星の影響かもしれない。亡くなる前年には、地元(群馬県)の俳誌「鬣TATEGAMI」にも同人参加している。信吉はこの頃になって弟の秀久と相談し、父親と息子二人の合同句集の発刊を計画したのだったが、制作半ばで他界した。九十五歳(2002年8月3日)。掲句は妻を亡くして、だいぶ経ってからの作だろう。いわゆる遺品などはすっかり片づけられており、妻を偲ぶよすがになる具体物はないはずだったのだが、ある日古い本のページの間からだろうか、ひょっこり故人の作った「押し花」が出てきた。こういうものは、遺品のたぐいとは違って、なかなかに整理しづらい。立派に故人の制作物だからである。以後、作者は大切に保管し、妻の命日がめぐってくるたびに飽かず眺め入ったのだろう。上手な句とは言えないけれど、第三者から見れば何の変哲もない一葉の押し花に見入る老人の姿に、名状し難い切なさを感じる。あえて下五に置かれた「妻の忌や」の「や」に万感の情がこめられている。伊藤秀久編『三人句集』(2003・私家版)所載。(清水哲男)


September 0992007

 颱風へ固めし家に児のピアノ

                           松本 進

摩川のほとり、大田区の西六郷に住んでいた頃、台風が来るというと、父親は釘と板を持って家を外から打ち付けたものでした。ある年、ちょうど家の改築をしている時に大きな台風がやってきて、強い風に家が揺れ、蒲団の中で一晩中恐い思いをしたことがあります。掲句の家庭にとっては、まだそれほど状況は差し迫ってはいないようです。台風に備えて準備を終えた家の中で、子供が平然とピアノを弾いています。狭い日本家屋の、畳の一室にどんと置かれているピアノが目に浮かぶようです。この日は台風の襲来を前に、窓を閉め、更に雨戸を閉め、外部への隙間という隙間を埋めたわけです。完璧に外の物音を遮断した中で、ピアノの音が逃げ場もなく、部屋の内壁に響き渡っています。流麗にショパンでも弾いてくれるのならともかく、ミスタッチを繰り返すバイエルをえんえんと聴かされるのは、家族とはいえ忍耐が要ります。それでも、数日後にレッスンが予定されているのなら、台風が来ていようと、子供にとってその日の練習は欠かせません。ピアノのおさらいという「日常」に、時を選ばず襲ってくる「日常の外」としての颱風。その対比が句を、奥深いものにさせています。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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