あーあ、負けちゃった。いつかは負けると思っていてもね……。ま、内輪話。(哲




2007ソスN9ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1292007

 東京の寄席の灯遠き夜長かな

                           正岡 容

句に「ふるさと」のルビが振ってある。正岡容(いるる)は神田の生まれ。よく知られた寄席芸能研究家であり、作家でもあった。小説に『寄席』『円朝』などがあり、落語の台本も書いた。神田っ子にとっては、なるほど東京はふるさと。しかも旅回りではなく、空襲をよけて今は遠い土地(角館)に来ている。秋の夜長、東京の灯がこよなく恋しくてならない。東京生まれの人間にとって、この恋慕は共感できるものであろう。まして「ふるさと」と呼べるような東京が、まだ息づいていた昭和二十年のことである。敗戦に近く、東京では空襲が激化していた。容は四月、五月の空襲により、羽後の山村に四ヵ月ほど起臥した。さらにその後、角館へ寄席芸術に関する講演に赴いた折、求められて掲出句を即吟で詠んだ。そういう背景を念頭において読むと、「寄席の灯」の見え方もしみじみとして映し出される。人々はせめてひとときの笑いと安息を求めて、その灯のもとに肩寄せあっているはずであり、容にはその光景がくっきりと見えている。もちろん同時期に、「寄席の灯」どころではなく、血みどろになって敗戦末期の戦地を敗走し、あるいは斃れていった東京っ子、空襲の犠牲になった東京っ子も数多くいたわけである。容は句の後に「わが郷愁は、こゝに極まり、きはまつてゐたのである・・・・」と書き付けている。深川で詠んだ「春愁の町尽くるとこ講釈場」「君が家も窓も手摺も朧かな」などの句もある。『東京恋慕帳』(1948)所収。(八木忠栄)


September 1192007

 何の実といふこともなく実を結び

                           山下由理子

花(やいとばな)、臭木(くさぎ)、猿捕茨(さるとりいばら)。いささか気の毒な名前を持つこの草花たちは、目を凝らせばわりあいどこにでも見つかるものだが、正確な名を知ったのは俳句を始めてからのことだ。そして、これらが驚くほど美しい実を付けることもまた、俳句を通して知ったのだった。歳時記を片手に周囲を見回せば、植物学者が苦心惨憺、あるいは遊び心も手伝ったのであろう草木の名前に、微笑んだり吹き出したりする。しかし、掲句は名前を言わないことで優しさが際立った。作者はもちろんその名を知っていて、あえてどれとなく実を結ぶ眼前の植物を、大らかに抱きとめるように愛でているのであろう。作者の目の前では確かに名前を持つさまざまな植物が、ここでは結んだ実としてのみ存在する。分類学上の名前を与えられてなかった時代にも、同じように花を咲かせ、また実っていたことだろう。先日の台風が通り過ぎ、いつもの散歩道にも固いままの銀杏や柘榴など、たくさんの実が散乱していた。頭上の青い葉の蔭に、若々しい実りがこんなにも隠されていたとは思いもよらぬことだった。掲句を小さく口ずさみ、青い実をひとつ持ち帰った。〈抱きしめて浮輪の空気抜きにけり〉〈変わらざるものは飽きられ水中花〉『野の花』(2007)所収。(土肥あき子)


September 1092007

 秋草の押し花遺りて妻の忌や

                           伊藤信吉

者は詩人として著名だった。父親(美太郎)が俳句を趣味としていたので、作句はその遠い影響だろうか。あるいは師であった萩原朔太郎や室生犀星の影響かもしれない。亡くなる前年には、地元(群馬県)の俳誌「鬣TATEGAMI」にも同人参加している。信吉はこの頃になって弟の秀久と相談し、父親と息子二人の合同句集の発刊を計画したのだったが、制作半ばで他界した。九十五歳(2002年8月3日)。掲句は妻を亡くして、だいぶ経ってからの作だろう。いわゆる遺品などはすっかり片づけられており、妻を偲ぶよすがになる具体物はないはずだったのだが、ある日古い本のページの間からだろうか、ひょっこり故人の作った「押し花」が出てきた。こういうものは、遺品のたぐいとは違って、なかなかに整理しづらい。立派に故人の制作物だからである。以後、作者は大切に保管し、妻の命日がめぐってくるたびに飽かず眺め入ったのだろう。上手な句とは言えないけれど、第三者から見れば何の変哲もない一葉の押し花に見入る老人の姿に、名状し難い切なさを感じる。あえて下五に置かれた「妻の忌や」の「や」に万感の情がこめられている。伊藤秀久編『三人句集』(2003・私家版)所載。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます