菴宣手憶螟ェ縺ョ句

September 1492007

 颱風の蝉を拾へば冷たかり

                           佐野良太

の死んでいる姿には、哀れというより、どこか志を果たし得たような印象がある。地上に出てくるだけでも大変なのにという思いが重なるからだ。颱風が原因で死んだわけではないから、蝉に同情することはない。颱風も蝉の死も自然の営為が粛々と進行しているにすぎない。蝉の亡骸の冷たさもまた。この句、そういう意味では即物非情の句というべきだろう。表記を分析すれば、颱風、蝉、冷と季語が三つ入っている。一句に季語が一つという「原則」をうるさく言い出したのは、むしろ近年のことだ。子規も虚子もこれについては比較的寛容だったはず。自身の作も含めて。表記のことでもう一つ。「拾へば」があるが、何々すれば、という条件の「ば」を使わないよう指導する指導者も多い。条件の「ば」を使うと往々にして原因と結果を強調する内容となり、散文化して俳句の特性が薄れるというのがその理由である。季語を二つ以上使うと往々にして焦点が分散して散漫になるからなるべく使わぬ方が無難だという指導。「ば」を使うと往々にして散文化するからなるべく使わぬ方が無難だとする指導。「なるべく」と「無難」が重なっていつの間にかタブーになる。俳句にはそんなタブーがいっぱいある。タブーが多いと俳句は芸事化(或いはゲーム化)し、一番得をするのは、タブーを避けて「無難」化する技術に長けた師匠とベテランということになる。かくて、タブーの多用はヒエラルヒーの安泰につながっていく。最近は、季語一つの「原則」を逆手にとって、一句に季語を二つ入れることに腐心する俳人もいると聞くがこれもどうか。タブーをつくることと同様、そんな「技術」にも事の本質はないのではないか。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)




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