中国産マツタケがイメージで敬遠され安くても売れず。「右へ習え」の世間哉。(哲




2007ソスN9ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1692007

 秋風のかがやきを云ひ見舞客

                           角川源義

昨年の年末に、鴨居のレストランで食事をしているときに、突如気持が悪くなって倒れてしまいました。救急車で運ばれて、そのまま入院、検査となりました。しかし、検査の間も会社のことが気になってしかたがありません。それでもベッドの上で、二日三日と経つうちに、気に病んでいた仕事のことが徐々に、それほど重要なことではないように思われてきました。病院のゆったりとした時間の流れに、少しずつ体がなじんできてしまっているのです。たしかに病室の扉の内と外とには、別の種類の時間が流れているようです。掲句では、見舞い客が入院患者に、窓の外の輝きのことを話しています。とはいっても、見舞い客が、ことさらに外の世界を美しく話したわけではないのでしょう。ただ、たんたんと日常の瑣末な出来事を語って聞かせただけなのです。見舞い客が持ち込んだ秋風のにおいに輝きを感じたのは、別の時間の中で育まれた病人の研ぎ澄まされた感覚のせいだったのです。おそらくこの患者は、長期に入院しているのです。秋風のかがやきを、もっともまぶしく受け止められるのは、秋風に吹かれることのない人たちなのかもしれません。入院患者のまなざしがその輝きにむかおうとしている、そんな快復期のように、わたしには読み取れます。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)


September 1592007

 身に入むや秒針進むとて跳る

                           菅 裸馬

に入む(身にしみる)、冷やか、などは秋季となっているが、人の情けが身にしみたり、冷やかな目で見られたり、となると一年中あることだ。確かに、しみる、冷やか、共に、語感からして、ほのぼのとあたたかくはないが。身に入む、については、もともと季節は関係なく、人を恋い、もののあわれを感じる言葉であったのが、源氏物語に「秋のあはれまさりゆく風の音、身にしみけるかな」という件もあり、次第に秋と結びついていったという。秋風が、人の世のあわれや、人生の寂寥感を感じさせる、ということのようだ。そんなしみじみとした感情を、秒針の動きと結びつけた掲句である。目には見えない時間、夢中で過ごせばあっという間、じっと待っていると足踏みをする。アナログ時計の秒針の動きは、確実に時が過ぎていることを実感させる。じっと見ていると、たしかに跳ねる、一秒一秒、やっと進んでいるかのように。そんな秒針の動きに、無常感を覚えつつ、ふと自分自身を重ねているのかもしれない。「俳句大歳時記」(1964・角川書店)所載。(今井肖子)


September 1492007

 颱風の蝉を拾へば冷たかり

                           佐野良太

の死んでいる姿には、哀れというより、どこか志を果たし得たような印象がある。地上に出てくるだけでも大変なのにという思いが重なるからだ。颱風が原因で死んだわけではないから、蝉に同情することはない。颱風も蝉の死も自然の営為が粛々と進行しているにすぎない。蝉の亡骸の冷たさもまた。この句、そういう意味では即物非情の句というべきだろう。表記を分析すれば、颱風、蝉、冷と季語が三つ入っている。一句に季語が一つという「原則」をうるさく言い出したのは、むしろ近年のことだ。子規も虚子もこれについては比較的寛容だったはず。自身の作も含めて。表記のことでもう一つ。「拾へば」があるが、何々すれば、という条件の「ば」を使わないよう指導する指導者も多い。条件の「ば」を使うと往々にして原因と結果を強調する内容となり、散文化して俳句の特性が薄れるというのがその理由である。季語を二つ以上使うと往々にして焦点が分散して散漫になるからなるべく使わぬ方が無難だという指導。「ば」を使うと往々にして散文化するからなるべく使わぬ方が無難だとする指導。「なるべく」と「無難」が重なっていつの間にかタブーになる。俳句にはそんなタブーがいっぱいある。タブーが多いと俳句は芸事化(或いはゲーム化)し、一番得をするのは、タブーを避けて「無難」化する技術に長けた師匠とベテランということになる。かくて、タブーの多用はヒエラルヒーの安泰につながっていく。最近は、季語一つの「原則」を逆手にとって、一句に季語を二つ入れることに腐心する俳人もいると聞くがこれもどうか。タブーをつくることと同様、そんな「技術」にも事の本質はないのではないか。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)




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