郵政民営化まで秒読み。で、何が国民の得になるの? そこんとこを、よろしく。(哲




2007ソスN9ソスソス18ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1892007

 道なりに来なさい月の川なりに

                           恩田侑布子

に沿って来いと言い、月が映る川に沿って来いと言う。それは一体誰に向かって発せられた言葉なのだろう。その命令とも祈りともとれるリフレインが妙に心を騒がせる。姿は一切描かれていないが、月を映す川に沿って、渡る鳥の一群を思い浮かべてみた。鳥目(とりめ)という言葉に逆らい、鷹などの襲撃を避け、小型の鳥は夜間に渡ることも実際に多いのだそうだ。暗闇のなかで星や地形を道しるべにしながら、鳥たちは群れからはぐれぬよう夜空を飛び続ける。遠いはばたきに耳を澄ませ、上空を通り過ぎる鳥たちの無事を祈っているのだと考えた。しかし、その健やかな景色だけでは、掲句を一読した直後に感じた胸騒ぎは収まることはない。どこに手招かれているのか分からぬあいまいさが、暗闇で背を押され言われるままに進んでいるような不安となり、伝承や幻想といった色合いをまとって、おそろしい昔話の始まりのように思えるからだろうか。まるで水晶玉を覗き込む魔女のつぶやきを、たまたま聞いてしまった旅人のような心もとない気持ちが、いつまでも胸の底にざわざわとわだかまり続けるのだった。〈身の中に大空のあり鳥帰る〉〈ふるさとや冬瓜煮れば透きとほる〉『振り返る馬』(2006)所収。(土肥あき子)


September 1792007

 毎日が老人の日の飯こぼす

                           清水基吉

日「敬老の日」は、かつては「老人の日」と言った。この句は、その当時の作句だろう。その前は「としよりの日」だった。年月が経つうちに、だんだん慇懃無礼な呼び方に変わってきたわけだ。それはそのまま、国家の老人政策のありように対応している。いいじゃないか、「こどもの日」があるんだから「としよりの日」だって。でも、そのうちに「こどもの日」も改称されて、「こどもを大事にする日」「こどもを愛する日」なんてことになるかもしれない。最近の世情からすると、これもまんざら冗談とは言い切れまい。歳をとるといろいろな場面で、こんなはずではなかったがという失敗をやらかすようになる。飯をこぼすのもその一つで、私もときどき娘から叱られている。何故、こぼすのか。よくわからないけれど、幼児がこぼす原因とは根本的に違うようだという感じはある。幼児は経験不足からこぼすのであり、老人はたぶん経験に追いつかない身体機能の低下のせいで齟齬を来すのだ。おまけに、そのことを意識するから、かえって失敗が多くなる。無意識では満足に飯も口に運べなくなるのが、老人である。今日はそういう人たちを大事にするようにと、国家が定めた日だ。こんな祝日は、海外にはないそうだ。「毎日が老人の日」である作者にとっては、自嘲的にならざるを得ないのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 1692007

 秋風のかがやきを云ひ見舞客

                           角川源義

昨年の年末に、鴨居のレストランで食事をしているときに、突如気持が悪くなって倒れてしまいました。救急車で運ばれて、そのまま入院、検査となりました。しかし、検査の間も会社のことが気になってしかたがありません。それでもベッドの上で、二日三日と経つうちに、気に病んでいた仕事のことが徐々に、それほど重要なことではないように思われてきました。病院のゆったりとした時間の流れに、少しずつ体がなじんできてしまっているのです。たしかに病室の扉の内と外とには、別の種類の時間が流れているようです。掲句では、見舞い客が入院患者に、窓の外の輝きのことを話しています。とはいっても、見舞い客が、ことさらに外の世界を美しく話したわけではないのでしょう。ただ、たんたんと日常の瑣末な出来事を語って聞かせただけなのです。見舞い客が持ち込んだ秋風のにおいに輝きを感じたのは、別の時間の中で育まれた病人の研ぎ澄まされた感覚のせいだったのです。おそらくこの患者は、長期に入院しているのです。秋風のかがやきを、もっともまぶしく受け止められるのは、秋風に吹かれることのない人たちなのかもしれません。入院患者のまなざしがその輝きにむかおうとしている、そんな快復期のように、わたしには読み取れます。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)




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