September 242007
それとなく来る鶺鴒の色が嫌
宇多喜代子
俳句の技法用語では何と言うのか知らないが、たまにこういう仕掛けの句を見かける。まず「それとなく来る」のは「鶺鴒(せきれい)」だ。読者は「そう言えば鶺鴒は『それとなく』来る鳥だな」とすぐに合点して、それこそ「それとなく」次なる展開を待つ。で、「鶺鴒の色」と来ているから、ここでおそらくは読者の十人が十人ともに、この句の行方がわかったような気にさせられてしまう。鶺鴒には「石叩き」の異名もあるように、尾の振り方に特長があり、俳句でも尾の動きを詠んだ句が多いのだが、作者はあえてそれを避け、「色」の美しさや魅力を言うのだろうと思ってしまうのだ。ところが、あにはからんや、作者はその「色が嫌(いや)」とにべもないのだった。すらすらっと読者を引き込んできて、さいごにぽんとウッチャリをくらわせている。つまり、読者の予定調和感覚に一矢報いたというわけだ。世のつまらない句の大半は、季語などを予定調和的にしか使わないからなのであって、そういう観点からすると、掲句はそうした流れに反発した句、凡句作者・読者批判の一句とも言えるだろう。よく言われることだが、日本語には最後まで注意を払っていないと、とんでもない誤解をすることにもなりかねない。俳句も、もちろん日本語だ。ただそれにしても、鶺鴒の色が嫌いな人をはじめて知った。勉強になった(笑)。「俳句」(2007年10月号)所載。(清水哲男)
August 222014
鶺鴒の鳴くてふけふでありにけり
香田なを
鶺鴒は長い尾を振りながら歩きリリッ、リリッと澄んだ声で鳴く。石の鈴を連想させるので石鈴との俗説。広い河川、農耕地、市街地の空地など開けた環境で何処でも見られる。そんな何でもない風景を普段は何気なく見過ごして行く。ところが何でもない普通の日々が突然に失われる事がある。例えば病を得たときなど。出来なくなってしまた生活の諸事、味噌汁の味、気ままな小旅行、サッカー観戦や仲間との談笑。何でもない普通の事も出来ないとなれば羨ましい。そんな時ふっと命を考え儚さを想う。鶺鴒が鳴いている。それを見ている私が今確かにここに在る。万事はこれだけで佳しと思う。作者も病を得た事を機に一書を上梓したと言う。命愛しや。『なをの部屋』(2013)所収。(藤嶋 務)
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