ここに来て、我がタイガースよもやの5連敗。「献血」をお願いしま〜す。(哲




2007ソスN9ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2592007

 露の夜や星を結べば鳥けもの

                           鷹羽狩行

から人間は星空を仰ぎ、その美しさに胸を震わせてきた。あるときは道しるべとして、またあるときは喜びや悲しみの象徴として。蠍座、射手座、大三角など、賑やかだった夏の夜空にひきかえ、明るい星が少ない秋の星座はちょっとさびしい。しかし、一大絵巻としては一番楽しめる夜空である。古代エチオピアの王ケフェウスと妻カシオペアの美しい娘アンドロメダをめぐり、ペガサスにまたがった勇者ペルセウスとお化けクジラの闘い。この雄大な物語りが天頂に描かれている。さらに目を凝らせば、その顛末に耳を傾けるように白鳥や魚、とかげが取り囲み、それぞれわずかに触れあうようにして満天に広がっている。星と星をゆっくりと指でたどれば、そのよわよわしい線からさまざまな鳥やけものが生まれ、物語りが紡ぎだされる。「アレガ、カシオペア」と、いつか聞いたやわらかい声が耳の奥にあたたかくよみがえる。本日は十五夜。予報によればきれいな夜空が広がる予定である。地上を覆う千万の露が、天上の星と呼応するように瞬きあうことだろう。『十五峯』(2007)所収。(土肥あき子)


September 2492007

 それとなく来る鶺鴒の色が嫌

                           宇多喜代子

句の技法用語では何と言うのか知らないが、たまにこういう仕掛けの句を見かける。まず「それとなく来る」のは「鶺鴒(せきれい)」だ。読者は「そう言えば鶺鴒は『それとなく』来る鳥だな」とすぐに合点して、それこそ「それとなく」次なる展開を待つ。で、「鶺鴒の色」と来ているから、ここでおそらくは読者の十人が十人ともに、この句の行方がわかったような気にさせられてしまう。鶺鴒には「石叩き」の異名もあるように、尾の振り方に特長があり、俳句でも尾の動きを詠んだ句が多いのだが、作者はあえてそれを避け、「色」の美しさや魅力を言うのだろうと思ってしまうのだ。ところが、あにはからんや、作者はその「色が嫌(いや)」とにべもないのだった。すらすらっと読者を引き込んできて、さいごにぽんとウッチャリをくらわせている。つまり、読者の予定調和感覚に一矢報いたというわけだ。世のつまらない句の大半は、季語などを予定調和的にしか使わないからなのであって、そういう観点からすると、掲句はそうした流れに反発した句、凡句作者・読者批判の一句とも言えるだろう。よく言われることだが、日本語には最後まで注意を払っていないと、とんでもない誤解をすることにもなりかねない。俳句も、もちろん日本語だ。ただそれにしても、鶺鴒の色が嫌いな人をはじめて知った。勉強になった(笑)。「俳句」(2007年10月号)所載。(清水哲男)


September 2392007

 夕刊に音たてて落つ梨の汁

                           脇屋義之

を食べた汁が新聞に落ちる、それだけのことを描いただけなのに、読んだ瞬間からさまざまな思いが湧いてきます。句というのは実に不思議なものだと思います。たしかに梨を食べるのは、日が暮れた後、夕食後が多いようです。一日の仕事を終えてやっと夕飯のテーブルにつき、軽い晩酌ののち、ゆっくりと夕刊を開きます。そこへ、皿に載った四つ切の梨が差し出されます。蛍光灯の光が、大振りな梨の表面を輝くばかりに照らしているのは、果肉全体にゆき渡ったみずみずしさのせいです。昨今の政治情勢でも読みふけっているのでしょうか。「こんなふうに仕事を放り投げられたら、ずいぶん楽だろうなあ」とでも思っているのでしょうか。皿のあるあたりに手を伸ばし、梨の一切れを見もせずに口に運び、そのままかぶりつきます。思いのほか甘い汁が口を満たし、その日の疲れを薄めるように滲みてゆきます。意識せずに口を動かす脇から、甘い汁がこぼれ落ち、気が付けば新聞を点々と黒く染めています。静かな夜に好きな梨を食することができるというささやかな幸せが、新聞記事の深刻さから、少しだけ守ってくれているように感じられます。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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