ジャイアンツ・ファンの皆様おめでとうございます。CSでまたお会いしましょう。(哲




2007ソスN10ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 03102007

 地下鉄に下駄の音して志ん生忌

                           矢野誠一

今亭志ん生が、八十三歳で亡くなったのは一九七三年九月十一日。したがって、掲句はここでは少々タイミングがズレてしまったわけだが、まあ、志ん生に免じてお許し願いたい。作者は志ん生の法要へ向かう際、地下鉄の階段で行きあった人の下駄の音を聞いて、故人への懐かしい思いを改めて強くした。あるいは法要とは関係なく、ある日地下鉄の階段から響いてくる下駄の音を聞いたとき、元気な頃に下駄で歩いていた志ん生をふと思い出した。あッ、今日は志ん生の命日だよ! どちらの解釈も許されていいだろうが、いずれにせよ作者の並々ならぬ故人への親愛の情が、下駄の音にからみながら響いてくる。地上はようやく秋の涼しい空気におおわれてきた。地下鉄の空気さえもどこやらひんやりと澄んで感じられて、下駄の音もいつになく心地よい。まるで志ん生の落語の磊落な世界に、身をゆだねているような心地であったのかもしれない。下駄の甲高い音と志ん生独特の高い声が重なる。志ん生も「声色やコーモリ傘の日より下駄」という下駄の句を詠んでいる。永井荷風の姿がちらつく。誠一には『志ん生のいる風景』(青蛙房)『志ん生の右手』(河出文庫)他がある。東京やなぎ句会での俳号は徳三郎。誠一は「あの人は晩年は貧乏でなかったはずだけど、いくらお金ができてもそれらしい生活っていうのは似合わない人だった」(小沢昭一との対談)と志ん生を語っている。『友あり駄句あり三十年』(1999)所載。(八木忠栄)


October 02102007

 新涼や三回試着して買はず

                           田口茉於

々続いた凶暴な残暑にもどうやら終わりがきたようだ。先月からはやばやと秋の装いのニットやブーツを身につけていたショーウィンドーのマネキンも、ようやく落ち着いて眺めることができるようになった。しかしまだ更衣をしていないこの時期に、新しい洋服の購入はとても危険なのである。また同じようなものを買ってしまったという後悔や、手持ちのどの洋服とも合わないという失敗を毎年繰り返しているにも関わらず、ついつい真新しいファッションを手にしたくなるのが女心というものだ。手を出しかねていたレギンスから、世間は一転してカラータイツになっているようだけれど、これもきっと取り入れずに終わるだろう。それにしても掲句の作者はずいぶん用心深く、わたしが懲りずに度々犯す「衝動買い」という愚かな過ちを上手に回避しているようだ。今年は掲句を繰り返しながら街を歩くことにしようかと思う。〈携帯でつながつてゐる春夕べ〉〈私から届く荷物や金木犀〉『はじまりの音』(2006)所収。(土肥あき子)


October 01102007

 秋灯目だけであくびしてをりぬ

                           田中久美子

わず、笑わされてしまった。ありますねえ、こういうことって……。この句の主体は作者だろうか、それとも他者だろうか。どちらでも良いとは思うけれど、後者のほうがより印象的になる。他者といっても、もちろん家族ではないだろう。多少とも、他人に気を使わなければならない場所での目撃句だ。たとえば会社での残業だとか、夜の集会だとか、そういったシチュエーションが考えられる。懸命に眠さをこらえている様子の人がいて、気になってそれとなく見やると、欠伸の出そうな口元のあたりをとんとんと軽く叩きながらも、しかし「目」は完全に欠伸をしてしまっていると言うのである。涼しい秋の夜の燈火は、人の目を冴えさせるというイメージが濃いのだが、それだけに、逆にこの句は説得力を持つ。「秋灯(あきともし)」といういささかとり澄ましたような季語に、遠慮なく眠さを持ってきた作者の感性は鋭くもユニークだ。かつて自由詩を書いていた田中久美子が、このような佳句をいくつも引っさげて戻ってきたことを、素直に喜びたい。そのいくつか。〈夢ばかり見てゐる初夢もなく〉〈一筆のピカソ一生涯の蜷〉〈太テエ女ト言ハレタ書イタ一葉忌〉『風を迎へに』(2007)所収。(清水哲男)




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