各球団から続々と「戦力外通告」選手の発表が……。まこと哀しき季節である。(哲




2007ソスN10ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 05102007

 蓑虫や滅びのひかり草に木に

                           西島麦南

びとはこの句の場合、枯れのこと。カメラの眼は蓑虫に限りなく接近したあと、ぐんぐんと引いていき秋の野山を映し出す。テーマは蓑虫ではなく、「滅びのひかり」である。もうすぐ冬が来る気配がひかりの強さに感じられる。鳥取県米子市に住んだときはかなりの僻地で、家の前が自衛隊の演習地。広い広い枯野で匍匐前進や火炎放射器の演習をやっていた。他の人家とは離れていたので、夜は飼犬を放した。夜遊び回った果てに戻ってきた犬が池で水を飲む音がする。子規の「犬が来て水飲む音の寒さかな」を読んで、ああこれだななんて思ったものだ。「滅びのひかり」を今日的に使うならすぐ社会的な批評眼の方へ引いて行きたくなるところだが、麦南さんは「ホトトギス」の重鎮。あくまで季節の推移の肌触りを第一義にする。言葉はしかし五感に触れる実感に裏打ちされているからこそ強烈に比喩に跳ぶ。季節の推移についての実感を提示したあと、やがて人類や地球の滅びをも暗示するのである。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


October 04102007

 すぐ失くす「赤い羽根」とはおもへども

                           吉田北舟子

朝の駅前でボーイスカウトの子供達が声を張り上げて募金を呼びかけていた。NHKのアナウンサーや国会で答弁する政治家の背広の衿に赤い羽根が目につくのもこの時期。なぜ赤い羽根をつけるのか、その由来を共同募金のサイトで調べてみた。アメリカで募金に協力した人々が水鳥の羽根を赤く染めて胸に飾ったのが始まりとか。赤は勇気と善行をあらわす色だという。募金を呼びかけるのも、募金箱にお金を入れるのもちょっとした勇気が必要だからだろうか。募金せずとも学校や職場ではわずかな引き落としで全員に配られていたように思うけど、あの赤い羽根はどこに消えているのだろう。襟元にとどまっているは数日でその後は、捨てているのか、抜け落ちているのか。最後まで見届けた記憶がない。北舟子(ほくしゅうし)がいうように、「すぐ失くす」「赤い羽根」と思いつつも、配られれば配られるまま胸につけ、失くしたら失くしたで気にもとめない。「ども」と言いよどんだあとのささいなひっかかりを言外に表現できるのも俳句ならではの働きだろう。かくて、今年こそは赤い羽根の行方を、と思ってみたけれど、明日になればこの決意も忘れてしまいそうだ。「現代俳句全集第一巻」(1958)所載。(三宅やよい)


October 03102007

 地下鉄に下駄の音して志ん生忌

                           矢野誠一

今亭志ん生が、八十三歳で亡くなったのは一九七三年九月十一日。したがって、掲句はここでは少々タイミングがズレてしまったわけだが、まあ、志ん生に免じてお許し願いたい。作者は志ん生の法要へ向かう際、地下鉄の階段で行きあった人の下駄の音を聞いて、故人への懐かしい思いを改めて強くした。あるいは法要とは関係なく、ある日地下鉄の階段から響いてくる下駄の音を聞いたとき、元気な頃に下駄で歩いていた志ん生をふと思い出した。あッ、今日は志ん生の命日だよ! どちらの解釈も許されていいだろうが、いずれにせよ作者の並々ならぬ故人への親愛の情が、下駄の音にからみながら響いてくる。地上はようやく秋の涼しい空気におおわれてきた。地下鉄の空気さえもどこやらひんやりと澄んで感じられて、下駄の音もいつになく心地よい。まるで志ん生の落語の磊落な世界に、身をゆだねているような心地であったのかもしれない。下駄の甲高い音と志ん生独特の高い声が重なる。志ん生も「声色やコーモリ傘の日より下駄」という下駄の句を詠んでいる。永井荷風の姿がちらつく。誠一には『志ん生のいる風景』(青蛙房)『志ん生の右手』(河出文庫)他がある。東京やなぎ句会での俳号は徳三郎。誠一は「あの人は晩年は貧乏でなかったはずだけど、いくらお金ができてもそれらしい生活っていうのは似合わない人だった」(小沢昭一との対談)と志ん生を語っている。『友あり駄句あり三十年』(1999)所載。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます