全国的に雨模様。毎年動かされる「体育の日」が泣いているんですよ、これは。(哲




2007ソスN10ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 08102007

 流星やいのちはいのち生みつづけ

                           矢島渚男

語は「流星(りゅうせい)」で秋。流れ星のこと。流星は宇宙の塵だ。それが何十年何百年、それ以上もの長い間、暗い宇宙を漂ってきて地球の大気圏に入ったときに、燃えて発光する。そして、たちまち燃え尽きてしまう。この最期に発光するという現象をとらまえて、古来から数えきれないほどの詩歌の題材になってきたわけだが、その多くは、最後の光りを感傷することでポエジーを成立させてきた。たとえば俳句では「死がちかし星をくぐりて星流る」(山口誓子)だとか「流れ星悲しと言ひし女かな」(高浜虚子)だとかと……。しかし、この句は逆だ。写生句だとするならば、作者が仰いでいる空には、次から次へと流星が現れていたのかもしれない。最期に光りを放ってあえなく消えてゆく姿よりも、すぐさま出現してくる次の星屑のほうに心が向いている。流星という天体現象は、生きとし生けるもののいわば生死のありようの可視化ともいえ、それを見て生者必滅と感じるか、あるいは生けるものの逞しさと取るのか。どちらでももとより自由ではあるが、あえて後者の立場で作句した矢島渚男の姿勢に、私などは救われる。みずからの遠くない消滅を越えて、類としての人間は「いのち」を生みつづけてゆくであろう。このときに、卑小な私に拘泥することはほとんど無意味なのではないか。そんなふうに、私には感じられた。うっかりすると見逃してしまいそうな句だが、掲句はとても大きいことを言っている。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)


October 07102007

 眼鏡はづして病む十月の風の中

                           森 澄雄

の句に「病む」の一語がなければ、目を閉じてさわやかな十月の風に頬をなぶらせている人の姿を想像することができます。たしかに十月というのは、暑さも寒さも感じることのない、わたしたちに特別に与えられた月、という印象があります。澄んだ空の下を、人々は活動的に動きまわることができます。そんな十月に、句の中の人は病んでいるというのです。季節の鮮やかさの中で、病と向きあわざるをえないのです。そこには、めぐり来る季節との、多少の違和感があるのかもしれません。病院の帰り道、敷地内につくられた花壇のそばの道で、句の人は立ち止まります。立ち尽くした場所で、明るい風景から目をそらすように、ゆっくりと眼鏡を外します。医者に言われた言葉を思い出しながら、これからこの病とどのように折り合ってゆこうかと、風の中でじっと考えているのです。病を持つことによって、この季節の中にいることの大切さが、よりはっきりと見えてくるようです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


October 06102007

 歩きつづける彼岸花咲きつづける

                           種田山頭火

月の終わりに、久しぶりに一面の彼岸花に遭遇、秋彼岸を実感する風景だった。すさまじいまでに咲き広がるその花は、曼珠沙華というより彼岸花であり、死人花、幽霊花、狐花などの名で呼ばれるのもわかる、と思わせる朱であった。かつて小学校の教科書に載っていた、新美南吉の『ごんぎつね』に、赤いきれのように咲いている彼岸花を、白装束の葬式の列が踏み踏み歩いていく、という件があったが、切ないそのストーリーと共に、葬列が去った後の踏みしだかれた朱の印象が強く残っている。この句の場合も、彼岸花が群生している中を、ひたすら歩いているのだろう。リフレインも含めて、自然で無理のない調べを持つ句。その朱が鮮やかであればあるほど寂しさの増していく野原であり、山頭火の心である。「種田山頭火」(村上護著)には、「いわゆる地獄極楽の揺れの中で句作がなされた」(本文より)とあり、〈まつすぐな道でさみしい〉と掲句が並んでいる。思いつめた心とはうらはらに、こぼれ出る句は優しさも感じさせる。定型に依存することのない定型句、自由律であるというだけでない自由律句、どちらも簡単にはいかないなあ、と思うこの頃。『種田山頭火』(2006・ミネルバ書房)所載。(今井肖子)




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