October 102007
障子洗ふ上を人声通りけり
松本清張
歳時記には今も「障子洗ふ」や「障子の貼替」は残っているけれど、そんな光景はごく限られた光景になってしまった。私などが少年の頃は、古い障子を貼り替えて寒い季節をむかえる準備を毎年手伝わされた。古くなった障子を指で思い切りバンバン突いて破って、おもしろ半分にバリバリ引きはがした。本来、破いたりはがしたりしてはならない障子を、公然と破く快感。そして川の水でていねいに桟を洗って乾かし、ふのりを刷毛で多すぎず少なすぎず桟に塗り、巻いた障子紙をころがしながら貼ってゆく作業を母親から教わった。なかなかうまく運ばない。でも変色した障子にかわって、真ッ白い障子紙が広がってゆく、その転換は新鮮な驚きを伴うものだった。掲句は道路から数段降りた川べりの洗い場での作業であろう。「上を」という距離感がいい。正確には「障子戸」を洗っているわけだ。一所懸命に作業をしている人に、上の道路を通り過ぎて行く人が声をかけているという図である。「ご精が出ますねえ」とか「もうすぐ寒くなりますなあ」とでも声をかけているのだろう。その作業を通じて、作業をする人も声をかける人も、ともにこれからやってくる寒い季節に対する心の準備を、改めて確認している。同時にある緊張感も伝わってくる。あわただしいなかにも、のんびりとしてかよい合う心が感じられる。松本清張が残した俳句は少ないそうだが、ほかに「子に教へ自らも噛む木の芽かな」という句もある。いずれも、推理小説とはちがった素朴な味わいがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)
October 092007
止り木も檻の裡なり秋時雨
瀧澤和治
先週末あたりから金木犀の香りが漂うようになったが、せっかくの香りを流してしまうような雨が続いている。颱風の激しさのなかの9月の雨とも、冬の気配を連れてくる11月の雨とも違う10月の雨は、さみしさの塊がぐずぐずとくずれていくように降り続ける。掲句の季題である「秋時雨」にも、「春時雨」の持つ明るさや、冬季の「時雨」が持つ趣きとは別の、心もとない侘しさが感じられる。静かに降り続ける雨のなかで、檻の裡(うち)を見つめる作者。タカやハヤブサ、あるいはフクロウなどの猛禽の名札が付いているはずの檻のなかに、生き物の姿はどこにもない。ただ止り木が描かれているだけだ。そしてそれこそが痛みの源として存在している。翼を休めるための止まり木が渡されてはいても、はばたく大空はそこにはないのだから。ドイツの詩人リルケは「豹」という作品で、檻の内側で旋回運動を続ける豹の姿をひたすら正確に書きとめることで生命の根拠を得たが、掲句では檻のなかの生き物をひたすら見ないことで、いのちの存在を際立たせた。『衍』(2006)所収。(土肥あき子)
October 082007
流星やいのちはいのち生みつづけ
矢島渚男
季語は「流星(りゅうせい)」で秋。流れ星のこと。流星は宇宙の塵だ。それが何十年何百年、それ以上もの長い間、暗い宇宙を漂ってきて地球の大気圏に入ったときに、燃えて発光する。そして、たちまち燃え尽きてしまう。この最期に発光するという現象をとらまえて、古来から数えきれないほどの詩歌の題材になってきたわけだが、その多くは、最後の光りを感傷することでポエジーを成立させてきた。たとえば俳句では「死がちかし星をくぐりて星流る」(山口誓子)だとか「流れ星悲しと言ひし女かな」(高浜虚子)だとかと……。しかし、この句は逆だ。写生句だとするならば、作者が仰いでいる空には、次から次へと流星が現れていたのかもしれない。最期に光りを放ってあえなく消えてゆく姿よりも、すぐさま出現してくる次の星屑のほうに心が向いている。流星という天体現象は、生きとし生けるもののいわば生死のありようの可視化ともいえ、それを見て生者必滅と感じるか、あるいは生けるものの逞しさと取るのか。どちらでももとより自由ではあるが、あえて後者の立場で作句した矢島渚男の姿勢に、私などは救われる。みずからの遠くない消滅を越えて、類としての人間は「いのち」を生みつづけてゆくであろう。このときに、卑小な私に拘泥することはほとんど無意味なのではないか。そんなふうに、私には感じられた。うっかりすると見逃してしまいそうな句だが、掲句はとても大きいことを言っている。『百済野』(2007)所収。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|