おせち料理の予約、五万円の品が数分で完売。しまった、並べばよかった(笑)。(哲




2007ソスN10ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 11102007

 菊の香や仕舞忘れてゐしごとし

                           郡司正勝

は天皇家の紋章にもなっているので古くから日本独自の花と思っていたがそうではないらしい。万葉集に菊の歌は一首も含まれていないという。奈良時代、まずは薬草として中国から渡来したのが始まりとか。中国では菊に邪を退け、長寿の効能があるとされている。杉田久女が虚子へ贈った菊枕はその言い伝えにあやかったのだろう。沈丁花や金木犀は街角で強く匂ってどこに木があるのか思わず探したくなる自己主張の強い香りだが、菊の香はそこはかとなく淡く、それでいて心にひっかかる匂いのように思う。菊は仏事に使われることも多く、掲句の場合も大切な故人の思い出と結びついているのかもしれない。胸の奥に仕舞いこんだはずなのに、折にふれかすかな痛みをともなって浮き沈みする記憶とひっそりとした菊の香とが静謐なバランスで表現されている。作者の郡司正勝は歌舞伎から土方巽の暗黒舞踏まで独自の劇評を書き続けた。「俳句は病床でしか作らない」とあとがきに綴っているが、句に湿った翳りはなく「寝るまでのこの世の月を見てをりぬ」など晩年の句でありながら孤独の華やぎのようなものが感じられる。『ひとつ水』(1990)所収。(三宅やよい)


October 10102007

 障子洗ふ上を人声通りけり

                           松本清張

時記には今も「障子洗ふ」や「障子の貼替」は残っているけれど、そんな光景はごく限られた光景になってしまった。私などが少年の頃は、古い障子を貼り替えて寒い季節をむかえる準備を毎年手伝わされた。古くなった障子を指で思い切りバンバン突いて破って、おもしろ半分にバリバリ引きはがした。本来、破いたりはがしたりしてはならない障子を、公然と破く快感。そして川の水でていねいに桟を洗って乾かし、ふのりを刷毛で多すぎず少なすぎず桟に塗り、巻いた障子紙をころがしながら貼ってゆく作業を母親から教わった。なかなかうまく運ばない。でも変色した障子にかわって、真ッ白い障子紙が広がってゆく、その転換は新鮮な驚きを伴うものだった。掲句は道路から数段降りた川べりの洗い場での作業であろう。「上を」という距離感がいい。正確には「障子戸」を洗っているわけだ。一所懸命に作業をしている人に、上の道路を通り過ぎて行く人が声をかけているという図である。「ご精が出ますねえ」とか「もうすぐ寒くなりますなあ」とでも声をかけているのだろう。その作業を通じて、作業をする人も声をかける人も、ともにこれからやってくる寒い季節に対する心の準備を、改めて確認している。同時にある緊張感も伝わってくる。あわただしいなかにも、のんびりとしてかよい合う心が感じられる。松本清張が残した俳句は少ないそうだが、ほかに「子に教へ自らも噛む木の芽かな」という句もある。いずれも、推理小説とはちがった素朴な味わいがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


October 09102007

 止り木も檻の裡なり秋時雨

                           瀧澤和治

週末あたりから金木犀の香りが漂うようになったが、せっかくの香りを流してしまうような雨が続いている。颱風の激しさのなかの9月の雨とも、冬の気配を連れてくる11月の雨とも違う10月の雨は、さみしさの塊がぐずぐずとくずれていくように降り続ける。掲句の季題である「秋時雨」にも、「春時雨」の持つ明るさや、冬季の「時雨」が持つ趣きとは別の、心もとない侘しさが感じられる。静かに降り続ける雨のなかで、檻の裡(うち)を見つめる作者。タカやハヤブサ、あるいはフクロウなどの猛禽の名札が付いているはずの檻のなかに、生き物の姿はどこにもない。ただ止り木が描かれているだけだ。そしてそれこそが痛みの源として存在している。翼を休めるための止まり木が渡されてはいても、はばたく大空はそこにはないのだから。ドイツの詩人リルケは「豹」という作品で、檻の内側で旋回運動を続ける豹の姿をひたすら正確に書きとめることで生命の根拠を得たが、掲句では檻のなかの生き物をひたすら見ないことで、いのちの存在を際立たせた。『衍』(2006)所収。(土肥あき子)




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