大毅は1年間出場停止、父は無期限資格停止。体育会系の家庭化が目立つ昨今。(哲




2007ソスN10ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 16102007

 海底に水の湧きゐる良夜かな

                           上田禎子

秋の名月から月の満ち欠けがひと回りする頃になると、空気はぐっと引き締まり、月もやわらかなカスタード色から、薄荷の味がしそうな光になってくる。美しい月の光に照らされているものの姿を思い描くとき、海のおもてや、波間に思いを寄せることはできても、掲句はさらに奥へ奥へと気持ちを深めて、とうとう海底に水の湧くひとところまで到達した。そこは水の星のみなもと。見上げれば、はるか海面が月の光を得て薄々ときらめき、さらに天上には本物の月が輝いている。ふたつの天を持つ海底に、ふらつく足で立っているような不思議な気持ちになってくる。実際の海底では、真水が湧く場所というのは非常にまれだが、富山湾には立山連峰に降った雨や雪が地下水となって、長い年月をかけて海底から湧いている場所があるそうだ。映像では、山の滋養が海に溶け出す水域はごろごろと岩が重なる様子から一転し、水草の生い茂る草原のようになっていた。海底から湧く水に水草がふさふさとなびき、さながら海の底が歌っているようだった。今夜も歌われているに違いない海底の歌声に、静かに耳を傾ける。〈少年を見舞ふ車座赤のまま〉〈鳥の巣の流れてゆけり冬隣〉『二藍』(2007)所収。(土肥あき子)


October 15102007

 穴惑顧みすれば居ずなんぬ

                           阿波野青畝

語は「穴惑(あなまどい)」で秋、「蛇穴に入る」に分類。そろそろ蛇は冬眠のために、その間の巣となる穴を見つけはじめる。しかし「穴惑」は、晩秋になっても入るべき穴を見つけられず、もたもたしている蛇のことだ。山道か野原を歩いていて、作者はそんな蛇を見かけたのだろう。もうすぐ寒くなるというのに、なんてのろまな奴なんだろうと思った。でも、そんなに気にもとめずにその場を通り過ぎた作者は、しばらく行くうちに、何故かそいつのことが心に引っかかってきてしまい、どうしたかなと振り返って見てみたら、もう影もかたちもなかったと言うのである。このときに「顧みすれば」という措辞が、いかにも大袈裟で可笑しい。柿本人麻呂の「東の野にかぎろひの立つみえてかへりみすれば月かたぶきぬ」でどなたもご存知のように、この言葉はただ単に振り返って見るのではなく、その行為には精神の荘重感が伴っている。蛇には申し訳ないけれど、たかが蛇一匹を振り返って見るようなときにはふさわしくない。そこをあえて「顧みすれば」と大仰に詠むことによって、間抜けでどじな蛇のありようを暗にクローズアップしてみせたのだ。いかにもこの作者らしい、とぼけた味のある句である。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


October 14102007

 涙腺を真空が行き雲が行く

                           夏石番矢

画や音楽の魅力を、詩や俳句に引き移してみるという試みは、容易ではありません。たいていの場合、思うほどにはその効果を出すことができないものです。ジャンルの違いは、それほどに単純なものではないようです。せいぜいが発想のきっかけとして、利用するに留めておいた方がよいのかもしれません。掲句の「雲」から、マグリットの絵を連想した人は少なくないと思います。連想はしますが、句は、独自の表現空間を広げています。作者が、絵画を発想のきっかけにしたかどうかはともかく、言葉は、その持てる特性を見事に発揮しています。目につくのは、「涙腺」と「真空」の2語です。叙情の中心にある「涙」という語を使いながらも、あくまでもしめりけを排除しています。真空と雲が、乾いた空間にひたすらに流れてゆく姿は、日本的叙情から抜け出ようとする意気込みが感じられます。雲は、どの季節にもただよっていますが、句に満ちた大気の透明感は、つめたい秋を感じさせます。それにしても、涙腺を流れてきた真空と雲は、頬を伝ってどこへ、こぼれて行ったのでしょうか。『現代の俳句』(2005・講談社)所載。(松下育男)




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