October 212007
ジャムのごと背に夕焼けをなすらるる
石原吉郎
先日も休日出勤の帰りに、横浜へ向かう東横線の中で、つり革につかまったまま正面から顔を照らされていました。夕焼けといえば、本来は夏の季語ですが、どの季節にも夕焼けはあり、季にそれほどこだわることもないかと思い、この句を取り上げました。その日の東横線は、ちょうど多摩川の鉄橋を渡っているところでした。急に見晴らしがよくなった土手の向こうの空から、赤い光が、車中深くにまで差し込んできていました。夕焼けなんて、特段めずらしくもないのに、なぜか感慨にふけってしまいました。さて掲句です。夕焼けの赤い色の連想から、ジャムが出てきたのでしょう。そのジャムの連想から、「なすらるる」が思い浮かべられたのです。そして一つ目の連想(夕焼け)と、二つ目の連想(なすらるる)をつなげれば、なるほどこのような句が出来上がってくるわけです。一日の終わりの、家に向かって歩いている風景が思い浮かびます。つかれているのです。夕焼けでさえ、荷物のようにその重みを、背中にもたせかけてくるようです。「なすらるる」という表現は、俳句の言葉としては、多少重いかもしれません。というのも、ここでなすりつけられているのは、「ジャム」や「夕焼け」だけではないからなのです。しかしこれは、詩人石原吉郎に対する、わたしの深読みなのかもしれません。『石原吉郎全集3』(1980・花神社)所収。(松下育男)
December 022015
懐手蹼(みづかき)ありといつてみよ
石原吉郎
吉郎は詩のほかに俳句も短歌も作り、『石原吉郎句集』と歌集『北鎌倉』(1978)がある。句集には155句が収められている。俳句はおもに句誌「雲」に発表された。ふところにしのばせているのが「蹼」のある手であるというのは、いかにも吉郎らしく尋常ではない。懐手しているのは他人か、いや、自分と解釈してみてもおもしろい。下五「いつてみよ」という命令口調が、いかにも詩に命令形の多い吉郎らしい。最初に「懐手蹼そこにあるごとく」という句を作ったけれど、それだけでは「いかにも俳句めいて助からない気がしたので、『懐手蹼ありといつてみよ』と書きなおしてすこしばかり納得した」と自句自解している。蹼のある手が、単にふところに「あるごとく」では満足できなかったのだ。「あり」とはっきりさせて納得できたのだろう。「出会いがしらにぬっと立っている、しかもふところ手で。見しらぬ街の、見しらぬ男の、見しらぬふところの中だ」「匕首など出て来る道理はない」とも書いている。見しらぬ男の「匕首」ならぬ「蹼」。寒々とした異形の緊張感がある。「蹼の膜を啖(くら)ひてたじろがぬまなこの奥の狂気しも見よ」(『北鎌倉』)という短歌もある。『石原吉郎句集』(1974)所収。(八木忠栄)
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