山田真二さん死去。面識あり。♪ああ、哀愁の街に霧が降る……。懐かしいなあ。(哲




2007ソスN10ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 24102007

 鈴虫の彼岸にて鳴く夜もありき

                           福永武彦

リーン、リリーン、あんなに美しい声で鳴く鈴虫の、美しくない姿そのものは見たくない。声にだけ耳かたむけていたい。初めてその群がる姿を見たときは信じられなかった。『和漢三才図会』には「夜鳴く声、鈴を振るがごとく、里里林里里林といふ」とある。「里里林里里林」の文字がすてきに響く。晩年は入退院が多かったという武彦は、体調によっては「彼岸」からの声として聴き、あるいは自分もすでに「彼岸」に身を横たえて、聴いているような心境にもなっていたのかもしれない。彼の小説には、死者の世界から現実を見るという傾向があり、彼岸の鈴虫というのも考えられる発想である。「みんみんや血の気なき身を貫徹す」という句もあるが、いかにも武彦らしい世界である。虫というのはいったいに、コオロギにしても、バッタにしても、カマキリにしても、可愛いとか美しいというよりは、よくよく観察してみればむしろグロテスクなスタイルをしている。ならば「彼岸」で鳴く虫があっても不思議はなかろう、と私には思われる。武彦は軽井沢の信濃追分に別荘があり、毎夏そこで過ごした。「ありき」ゆえ、さかんに鳴いていた頃の夜を思い出しているのだろう。「鈴虫」の句も「みんみん」の句も、信濃追分の早い秋に身を置いて作られたものと思われる。いや、季節の移り変わりだけでなく、生命ある人間の秋をもそこに敏感に見通しているようである。詩人でもあったが、短歌や俳句をまとめた「夢百首雑百首」がある。結城昌治『俳句は下手でかまわない』(1997)所載。(八木忠栄)


October 23102007

 鰯雲人を赦すに時かけて

                           九牛なみ

積雲は、空の高い位置にできる小さなかたまりがたくさん集まったように見える雲で、鰯(いわし)雲や鱗(うろこ)雲と呼ばれる。夏目漱石の小説『三四郎』のなかで、空に浮く半透明の雲を見上げて、三四郎の先輩野々宮が「こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで地上に起こる颶風以上の速力で動いているんですよ」と語りかける場面がある。上京したての青年に起こるその後の葛藤を暗示しているような言葉である。印象深い鰯雲の句の多くは、その細々とした形態を心情に映したものが多い。加藤楸邨の〈鰯雲人に告ぐべきことならず〉や、安住敦の〈妻がゐて子がゐて孤独いわし雲〉も、胸におさめたわだかまりを鰯雲に投影している。掲句もまた、千々に乱れつつもいつとはなく癒えていく心のありようを、空に広がる雲に重ねている。鰯雲の一片一片には、ささくれだった心の原因となったさまざまな出来事が込められてはいるが、それらがゆっくりと一定方向に流れ、薄まりつつ触れ合う様子は、胸のうちそのものであろう。三四郎もまた、かき乱された心を持て余し、彼女が好きだった秋の雲を思い浮かべながら「迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)」とつぶやいて小説『三四郎』は終わるのだった。『ワタクシと私』(2007)所収。(土肥あき子)


October 22102007

 淋しき日こぼれ松葉に火を放つ

                           清水径子

語はそれとはっきり書かれてはいないが、状況は「落葉焚き」だから「落葉」に分類しておく。となれば季節は冬季になってしまうけれど、この場合の作者の胸の内には「秋思」に近い寂寥感があるようなので、晩秋あたりと解するのが妥当だろう。ひんやりとした秋の外気に、故無き淋しさを覚えている作者は、日暮れ時にこぼれた松の葉を集めてきて火を放った。火は人の心を高ぶらせもするが、逆に沈静化させる働きもある。パチパチと燃える松葉の小さい炎は、おそらく作者の淋しさを、いわば甘美に増幅したのではあるまいか。この句には、下敷きがある。佐藤春夫の詩「海辺の恋」がそれだ。「こぼれ松葉をかきあつめ/をとめのごとき君なりき、/こぼれ松葉に火をはなち/わらべのごときわれなりき」。成就しない恋のはかなさを歌ったこの詩の終連は、「入り日のなかに立つけぶり/ありやなしやとただほのか、/海べのこひのはかなさは/こぼれ松葉の火なりけむ」と、まことにセンチメンタルで美しい。たまにはこの詩や句のように、感傷の海にどっぷりと心を浸してみることも精神衛生的には必要だろう。『清水径子全句集』(2005・らんの会)所収。(清水哲男)




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