吉祥寺駅前は早くもクリスマスムード。札幌大通公園では樹木の冬囲い作業が。(哲




2007N116句(前日までの二句を含む)

November 06112007

 布団より転げ落ちたる木の実かな

                           白濱一羊

け方、猫が布団に入ってくるようになると、いよいよ秋も深まったなぁと実感する。体温であたたまった布団の中は、なにものにもかえがたい愛おしい空間である。見ていた夢の尻尾をつかまえようともう一度目をつぶってみたり、外の雨の音に耳を澄ましてみたり、なんにもしない時間がふわふわと頭上に平らに浮かんでいるのをぼんやり眺めているような、贅沢なひとときである。とまれ、これはまだ夢ともうつつともつかない半睡半醒の状態である。一日の始まりは布団をぱっとはねのけ、立ち上がるところからであろう。この行為により、夢の世界は遠くの過去のものとなり、頭は現実的な手順と段取りへと切り替わる。そんなスイッチが完了したという時に、布団からぽろりと木の実がこぼれ落ちた。こんなところにあるはずのない木の実。まるで過去へと引き戻す扉の隙間から、わずかに光りが漏れているのを見つけてしまったような、奇妙な気持ちにとらわれることだろう。宮沢賢治の『どんぐりと山猫』で、裁判のお礼に一郎が山猫からもらったひと枡の黄金のどんぐりは、家が近づくにつれ、みるみるあたりまえの茶色のどんぐりに変わっていたのだったことなども、胸をよぎる。夢の種…。今日やらなければならないことは全て忘れて、閉まりかけている扉へと引き返したくなる朝である。『喝采』(2007)所収。(土肥あき子)


November 05112007

 影待や菊の香のする豆腐串

                           松尾芭蕉

蕉の句集を拾い読みしているうちに、「おっ、美味そうだなあ」と目に止めた句だ。前書に「岱水(たいすい)亭にて」とある。岱水は蕉門の一人で、芭蕉庵の近くに住んでいたようだ。「影待(かげまち)」とは聞きなれない言葉だが、旧暦の正月、五月、そして九月に行われていた行事のことである。それぞれの月の吉日に、徹夜をして朝日の上がるのを待つ行事だった。その待ち方にもいろいろあって、信心深い人は坊さんを呼んでお経をあげてもらうなどしていたそうだが、多くは眠気覚ましのために人を集めて宴会をやっていたらしい。西鶴の、あの何ともやりきれない「おさん茂兵衛」の悲劇の発端にも、この影待(徹夜の宴会)がからんでいる。岱水に招かれた芭蕉は、串豆腐をご馳走になっている。電気のない頃のことだから、薄暗い燈火の下で豆腐の白さは際立ち、折りから菊の盛りで、闇夜からの花の香りも昼間よりいっそう馥郁たるものがあったろう。影待に対する本来の気持ちそのままに、食べ物もまた清浄な雰囲気を醸し出していたというわけである。その情況を一息に「串」が「香」っていると言い止めたところが、絶妙だ。俳句ならでは、そして芭蕉ならではの表現法だと言うしかないだろう。それにしても、この豆腐、美味そうですねえ。『芭蕉俳句集』(1970・岩波文庫)所収。(清水哲男)


November 04112007

 林檎もぎ空にさざなみ立たせけり

                           村上喜代子

象そのものにではなく、対象が無くなった「跡」に視線を向けるという行為は、俳句では珍しくないようです。およそ観察の目は、あらゆる角度や局面に行き渡っているようです。句の意味は明解です。林檎をもぐために差し上げた腕の動きや、林檎が枝から離れてゆく動きの余波が、空の広がりに移って行くというものです。現実にはありえない情景ですが、空を水に置き換えたイメージはわかりやすく、美しく想像できます。似たような視点から詠まれた句に、「梨もいで青空ふやす顔の上」(高橋悦男)というのもあります。両句とも、本当にもいだのは果物ではなく、青空そのものであると言いたかったのでしょう。「地」と「絵」の組み合わせを、果物にしたり、空にしたり、水にしたりする遊びは、たしかに飽きることがありません。もぎ取った空に、大きく口をあけてかぶりつけば、そこには果肉に満ちた甘い水分が、今度は人に、さざなみを立てはじめるようです。『合本俳句歳時記第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)




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