角川書店「俳句」や「短歌」の編集者だった秋山実君が亡くなった。66歳。合掌。(哲




2007ソスN11ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 09112007

 鮭のぼるまつはりのぼるもののあり

                           依田明倫

のを写していると、どこかで、人生や社会の寓意や箴言に変貌することがある。実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂や飛んで火に入る夏の虫などと同様のあり方。「写生」がものそのものの描写を離れて比喩としてひとり歩きしてゆく。ひとり歩きしてゆくことに対して作者はどうこう言ってみようもない。実はこうなんだと言って解説してみせるほどみっともないことはない。しかし、誰もがはたと膝を打って寓意に転ずる描写は「写生」の本意ではないと僕は思う。「もの」に見入ることが同時に「自分」に見入ることにつながるというのが、茂吉の「実相観入」や楸邨の「真実感合」の根本にあった。そういう態度を持っての「写生」も寓意に傾く可能性を拡げてはいまいか。鮭が遡上してゆく。その魚のからだのまわりに微小な塵のごときものが見える。澄んだ水中のもろもろである。「まつはりのぼるもの」をまず思念として捉えるのではなく、そのまま実景として読みたい。鮭ののぼってくる川をよく知る人でなければできない把握である。実景としてのリアルを「像」として読んで、そこから比喩でも寓意でも戯画でもなんでも拡げていけばいい。ものを写すという方法の核は五感の「リアル」そのものの中にある。「現代秀句選集」(1998)所載。(今井 聖)


November 08112007

 急行の速度に入れば枯れふかし

                           西垣 脩

日より立冬。日中は上着を脱ぐほど日差しも強く、冬の寒さにはほど遠いけど、「立冬」と呟いてみればめりはりのきいたその音に身の引き締まる思いがする。都会の駅を出て、郊外へ向かう電車だろうか。まずこの句を電車に乗っている乗客の視点から考えてみると、ゆっくり走っているときにはまばらに見えていた枯れ草や薄が速度をあげることでひとかたまりに流れてゆき、枯れた景色の懐ふかく入ってゆく印象がある。「速度に入れば」の「入る」という言葉は、加速すると同時にその景色の中へ入ってゆく気持ちを表しているようだ。次に小高い場所から電車を見下ろす視点から考えてみると、金色に薄の穂のなびく河原か野原。それともすっかり木の葉を落とした山裾の冬木立へと速度ののった電車はたちまちのうちに走り去り、辺りはもとの静かな枯れ色の景に戻るのだ。都会の中を走る通勤電車では気づかないが、休日に郊外へ向かう電車に乗るとてっぺんの薄くなった木立に、収穫の終わった畑地に、季節が冬へ向かって動き出しているのがわかる。そんな変化のひとつひとつに心を移していると、子供のころ靴を脱いで座席によじのぼり、鼻を車窓に押しつけて景色を眺めていた楽しみがよみがえってくるように思える。『現代俳句全集 第六巻』(1959)所載。(三宅やよい)


November 07112007

 秋風や甲羅をあます膳の蟹

                           芥川龍之介

書に「室生犀星金沢の蟹を贈る」とある。龍之介と仲良しだった犀星が越前蟹でも贈ったものと思われる。夏の蟹のおいしさも侮れないけれども、秋風が吹く向寒の季節になると、蟹の身が一段とひきしまっておいしさを増す。食膳にのった蟹は大きいから、皿からはみ出してワンザとのっている。越前蟹は脚が長いので、甲羅が大きければなおのこと大きい。蟹の姿がいかにも豪快な句である。外は秋の風が吹きつのっているのだろうが、視線は膳の上にのった蟹に注がれて釘付けになり、思わず「おお!」と感嘆の声をあげているにちがいない。北陸の秋の厳しい海のうねりが、膳の上にまで押し寄せてきているようだ。贈り主に対する感謝の思いもそこに広がっている様子が、「甲羅をあます」に見てとれる。同時に「・・・・あます」の一語によって、まだ生きているかのように蟹のイキのよさも感じられる。蟹をていねいにほじりながら、犀星のことを思ったりして、酒も静かに進む秋の夕餉であろう。私事で恐縮だが、新潟の寺泊へ出かけると、必ず蟹ラーメンを好んで食べる。ズワイガニがまたがる姿で、ワンザとのったラーメンが運ばれてくる。食べる前にしばし目を細めて堪能する一時はたまらない。龍之介の句も、まずは堪能しているのだろう。秋風といえば「秋風や秤にかゝる鯉の丈」という一句もならんでいる。いずれも、食べる前に目でじっくり味わって、「さあて、食うぞ!」という気持ちが伝わってくる。『芥川龍之介句集 我鬼全句』(1976)所収。(八木忠栄)




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