2007ソスN11ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 10112007

 孫悟空居さうな雲の国小春

                           高田風人子

寒、夜寒、といった晩秋のきゅっと冷えこむ感じもあまり無かった東京だが、暦の上ではもう冬。今日十一月十日は、旧暦十月一日、今日から小春月である。小春は本来旧暦十月のことをいい、本格的な冬になる手前、春のような良い日和が続くことに由来するが、ふつう俳句で小春というと、小春日和を意味することが多いようだ。飯田龍太に〈白雲のうしろはるけき小春かな〉の句があるが、穏やかな一日、空を見上げ、ゆるゆると流れる雲に来し方を思う心が見える。穏やかであればこそ、どこかしみじみとするのだろう。同じように小春の空を見上げた作者だが、そこに孫悟空が居そうだという。孫悟空といえば、筋斗雲、いや金斗雲か。キントは宙返りの意で、本来キンは角偏に力と書く。アニメのドラゴンボールから「西遊記」の原作本はもちろん、テレビドラマや東映アニメーション映画など、孫悟空に親しんだ思い出は誰にもあるだろう。ぽっかりとひとつ浮かんだ雲が、呼べば降りてきそうに思えたのか、広がっている雲の上に別世界があるような気がしたのか、と思い確かめると、この「国」は日本ではなくタイ。旅先での作というわけだが、アジア的異国情緒と俳句的感覚が、不思議な味わいの一句をなした。「高田風人子句集」(1995)所収。(今井肖子)


November 09112007

 鮭のぼるまつはりのぼるもののあり

                           依田明倫

のを写していると、どこかで、人生や社会の寓意や箴言に変貌することがある。実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂や飛んで火に入る夏の虫などと同様のあり方。「写生」がものそのものの描写を離れて比喩としてひとり歩きしてゆく。ひとり歩きしてゆくことに対して作者はどうこう言ってみようもない。実はこうなんだと言って解説してみせるほどみっともないことはない。しかし、誰もがはたと膝を打って寓意に転ずる描写は「写生」の本意ではないと僕は思う。「もの」に見入ることが同時に「自分」に見入ることにつながるというのが、茂吉の「実相観入」や楸邨の「真実感合」の根本にあった。そういう態度を持っての「写生」も寓意に傾く可能性を拡げてはいまいか。鮭が遡上してゆく。その魚のからだのまわりに微小な塵のごときものが見える。澄んだ水中のもろもろである。「まつはりのぼるもの」をまず思念として捉えるのではなく、そのまま実景として読みたい。鮭ののぼってくる川をよく知る人でなければできない把握である。実景としてのリアルを「像」として読んで、そこから比喩でも寓意でも戯画でもなんでも拡げていけばいい。ものを写すという方法の核は五感の「リアル」そのものの中にある。「現代秀句選集」(1998)所載。(今井 聖)


November 08112007

 急行の速度に入れば枯れふかし

                           西垣 脩

日より立冬。日中は上着を脱ぐほど日差しも強く、冬の寒さにはほど遠いけど、「立冬」と呟いてみればめりはりのきいたその音に身の引き締まる思いがする。都会の駅を出て、郊外へ向かう電車だろうか。まずこの句を電車に乗っている乗客の視点から考えてみると、ゆっくり走っているときにはまばらに見えていた枯れ草や薄が速度をあげることでひとかたまりに流れてゆき、枯れた景色の懐ふかく入ってゆく印象がある。「速度に入れば」の「入る」という言葉は、加速すると同時にその景色の中へ入ってゆく気持ちを表しているようだ。次に小高い場所から電車を見下ろす視点から考えてみると、金色に薄の穂のなびく河原か野原。それともすっかり木の葉を落とした山裾の冬木立へと速度ののった電車はたちまちのうちに走り去り、辺りはもとの静かな枯れ色の景に戻るのだ。都会の中を走る通勤電車では気づかないが、休日に郊外へ向かう電車に乗るとてっぺんの薄くなった木立に、収穫の終わった畑地に、季節が冬へ向かって動き出しているのがわかる。そんな変化のひとつひとつに心を移していると、子供のころ靴を脱いで座席によじのぼり、鼻を車窓に押しつけて景色を眺めていた楽しみがよみがえってくるように思える。『現代俳句全集 第六巻』(1959)所載。(三宅やよい)




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