人にはヤイヤイ原稿を書けというくせに私はといえば半月遅れでやっと書いた。(哲




2007ソスN11ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 12112007

 忘られし田河水泡いくたび冬

                           小林洸人

者は大正九年生まれだから、昭和六年から「少年倶楽部」に連載された田河水泡の漫画「のらくろ」にはリアルタイムで出会っていることになる。まさに熱狂的に受け入れられた漫画だったと聞くが、昭和十三年生まれの私の子供時代にも多少はその残響のようなものが感じられた。今日でも「のらくろ」のキャラクターを知る人は少なくないと思うが、その作者名は句の言うようにほとんど忘れられてしまっていると言ってよいだろう。冗談ではなく、掲句を読んで「田河水泡」を人の名前ではなく、自然の一部だと受け止める人もいるはずだ。すなわち、失われた自然を詠んだ句だと……。いかに一世を風靡した人の名前だとはいっても、よほどの名前でないかぎり、やがては忘れられてしまうのが運命だ。そのことに作者は、「のらくろ」を愛読した自分の少年期の日々が重なり、もろともに忘れられたという喪失感を味わっているようである。「冬いくたび」は、水泡の命日(1989年12月12日)が冬だったので、とりわけ冬になるとそのことを思い出すというのであろう。水泡ばかりではなく、いまや「冒険ダン吉」の島田啓三や「タンク・タンクロー」の坂本牙城も忘れられ、ずっと新しい「赤胴鈴之助」の武内つなよしですらあやしいものだ。それが世の常であるとしても、なんだか口惜しい。『塔』(2007)所収。(清水哲男)


November 11112007

 温めるも冷ますも息や日々の冬

                           岡本 眸

句に限らず、日々の、なにげない所作の意味を新しい視点でとらえなおすことは、創作の喜びのひとつです。作者自身が、「そうか、そんな見方があったのか」と、書いて後に気づくこともあります。掲句を読んで最初に感じたのは、なるほど「息を吐く」ことは、ものを温めもし冷ましもするのだったという発見でした。そしてこういった句を読むたびに、どうしてそんなあたりまえのことに今まで気づかなかったのかと、自分の鈍感さを思い知らされるのです。「温める」は、冬の寒さの中で頬を膨らませて、自分の体の中の温かみを掌に吹きあてる動作を言っているのでしょう。一方「冷ます」は、たとえばテーブルに載ったコーヒーカップの水面へ、横から冷たい息を送ることでしょうか。でも、いったんは冷ましたコーヒーも、結局は体の中に流れ込んで、人を温めることに結びついてゆきます。全体が、人の動作のやさしさを感じさせてくれる、てのひらで包み込むような句になっています。ところで、「冬の日々」ではなく、なぜ「日々の冬」という言い方をしているのでしょうか。理由はともかく、小さく日々に区切られた冬が想像されて、わたしはこの方が好きです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 10112007

 孫悟空居さうな雲の国小春

                           高田風人子

寒、夜寒、といった晩秋のきゅっと冷えこむ感じもあまり無かった東京だが、暦の上ではもう冬。今日十一月十日は、旧暦十月一日、今日から小春月である。小春は本来旧暦十月のことをいい、本格的な冬になる手前、春のような良い日和が続くことに由来するが、ふつう俳句で小春というと、小春日和を意味することが多いようだ。飯田龍太に〈白雲のうしろはるけき小春かな〉の句があるが、穏やかな一日、空を見上げ、ゆるゆると流れる雲に来し方を思う心が見える。穏やかであればこそ、どこかしみじみとするのだろう。同じように小春の空を見上げた作者だが、そこに孫悟空が居そうだという。孫悟空といえば、筋斗雲、いや金斗雲か。キントは宙返りの意で、本来キンは角偏に力と書く。アニメのドラゴンボールから「西遊記」の原作本はもちろん、テレビドラマや東映アニメーション映画など、孫悟空に親しんだ思い出は誰にもあるだろう。ぽっかりとひとつ浮かんだ雲が、呼べば降りてきそうに思えたのか、広がっている雲の上に別世界があるような気がしたのか、と思い確かめると、この「国」は日本ではなくタイ。旅先での作というわけだが、アジア的異国情緒と俳句的感覚が、不思議な味わいの一句をなした。「高田風人子句集」(1995)所収。(今井肖子)




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