ホ肯Y句

November 14112007

 柿ひとつ空の遠きに堪へむとす

                           石坂洋次郎

多分にもれず、私も高校時代に「青い山脈」を読んだ。あまりにも健康感あふれる世界だったことに、むしろくすぐったいような戸惑いを覚えた記憶がある。今の若者は「青い山脈」も石坂洋次郎の名前も知らないだろう。秋も終わりの頃だろうか、柿がひとつ枝にぽつりととり残されている。秋の空はどこまでも高く澄みきっている。それを高さではなく「空の遠き」と距離でとらえてみせた。柿がひとつだけがんばって、遠い空に堪えるがごとくとり残されているという風景である。とり残された柿の実にしてみれば、悠々として高見からあたりを睥睨しているわけではなく、むしろ孤独感に襲われているような心細さのほうが強いのだろう。しかも暮れてゆく秋は寒さが一段と厳しくなっている。その柿はまた、売れっ子だった洋次郎にとってみれば、文壇にあって、ときに何やら孤独感に襲われるわが身を、空中の柿の実に重ねていたようにも考えられる。よく聞く話だが、柿をひとつ残らず収穫してしまうのではなく、二、三個枝に残したままにする。残したそれらは鳥たちが食べる分としてつつかせてやる――そんなやさしい心遣いをする人もあるという。近年は鈴なりの柿も、ハシハシと食べる者がいなくなって、熟柿となって一つ二つと落ちてしまう。田舎でも、そんなことになっているようだ。ところで、寺田寅彦にかかると「柿渋しあはうと鳴いて鴉去る」ということになる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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