November 182007
悲しみの目のきは立ちしマスクかな
老川敏彦
ここ数年のことですが、町を歩いていて奇異に感じることの一つに、先のとがったマスクがあります。とくに花粉の季節には、マスクをしている人が、まるでみんなで口を尖らせて歩いているように見えるのです。そんな人が集団でいると、文明が確実に人の姿を変えつつあるのかと、たかがマスクひとつに、不安な思いがわいてきます。掲句のマスクはどちらなのでしょうか。冬の、風邪の季節のものであるならば、昔からある、口にぴたりと接触するタイプのものなのかもしれません。吐く息が布にあたってすぐに戻る、その温かみは、今は病の内にあるのだという思いを、マスクを通して確認させられているように感じます。句はいきなり、「悲しみ」という強い表現で始まっています。明確な、言い換えれば選択肢を狭める語を使用しています。ただ、語の意味は明確ですが、その分、語られている対象は隠されているというわけです。目が感情を表すのは言うまでもないことです。しかし、顔の、ほかの部分を隠すことによって、目が表現しようとしている「悲しみ」が、さらに鮮明に表れてくることを、この句は語っています。隠すことによって、あるいは語らないことによって、より深い表現を獲得する。創作の不思議さを、感じさせる句でもあります。『現代俳句歳時記』(1993・新潮社)所載。(松下育男)
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