「萬緑」の成田千空氏死去、86歳。「鷹ゆけり風があふれて野積み藁」合掌。(哲




2007ソスN11ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 19112007

 ふたりから離れ毛糸を編みはじむ

                           恒藤滋生

っかり見過ごしてしまいそうな句だが、なかなか面白いなと立ち止まらされてしまった。表面的な情景としては何の変哲もないのだけれど、しかしそれは不思議な心理的空間と重なっている。この不思議は、主として「ふたり」という曖昧な表現に起因するのだろう。読者には「ふたり」がどんな人たちなのか、男なのか女なのか、はたまた老若いずれなのかなども一切わからない。もちろん、関係も不明だ。つまりそれらのことを、作者は急に毛糸を編みはじめた人を通して垣間見せているわけで、この毛糸編む人の心理の忖度のしようによって、「ふたり」は何通りにも解釈できることになる。そこが掲句の不思議な味を醸し出している。毛糸を編むという行為は自分の殻に閉じこもるそれでもあるので、「ふたり」を離れた気持ちもわかるような気はするが、気がするだけで、そう簡単に結論が下せるものでもない。単に、編み上げる時間が迫っているだけかもしれないからだ。いずれにしても、この「ふたり」の存在があって、この句は奇妙な味を得ることになった。こんな「毛糸編む」(冬の季語)の句は、はじめてである。俳誌「やまぐに」(第11号・2007年11月発行)所載。(清水哲男)


November 18112007

 悲しみの目のきは立ちしマスクかな

                           老川敏彦

こ数年のことですが、町を歩いていて奇異に感じることの一つに、先のとがったマスクがあります。とくに花粉の季節には、マスクをしている人が、まるでみんなで口を尖らせて歩いているように見えるのです。そんな人が集団でいると、文明が確実に人の姿を変えつつあるのかと、たかがマスクひとつに、不安な思いがわいてきます。掲句のマスクはどちらなのでしょうか。冬の、風邪の季節のものであるならば、昔からある、口にぴたりと接触するタイプのものなのかもしれません。吐く息が布にあたってすぐに戻る、その温かみは、今は病の内にあるのだという思いを、マスクを通して確認させられているように感じます。句はいきなり、「悲しみ」という強い表現で始まっています。明確な、言い換えれば選択肢を狭める語を使用しています。ただ、語の意味は明確ですが、その分、語られている対象は隠されているというわけです。目が感情を表すのは言うまでもないことです。しかし、顔の、ほかの部分を隠すことによって、目が表現しようとしている「悲しみ」が、さらに鮮明に表れてくることを、この句は語っています。隠すことによって、あるいは語らないことによって、より深い表現を獲得する。創作の不思議さを、感じさせる句でもあります。『現代俳句歳時記』(1993・新潮社)所載。(松下育男)


November 17112007

 別れ路の水べを寒き問ひ答へ

                           清原枴童

い、は冬の王道を行く形容詞であるが、ただ気温が低い、という意味の他に、貧しいや寂しい、恐ろしいなどの意味合いもある。秋季の冷やか、冬季の冷たしも、冷やかな視線、冷たい態度、と使えば、そこに感じられるのは、季感より心情だろう。この句の場合、別れ路の水べを寒き、まで読んだ時点では、川辺を歩いていた作者が、二またに分かれた道のところでふと立ち止まると、川を渡り来る風がいっそう寒く感じられた、といった印象である。それが最後の、問ひ答へ、で、そこにいるのは二人とわかる。そうすると、寒き問ひ答へ、なのであり、別れ路も、これから二人は別れていくのかと思えてきて、寒き、に寂しい響きが生まれ、あれこれ物語を想像させる。寒き、の持つ季感と心情を無理なく含みつつ、読み手に投げかけられた一句と思う。清原枴童(かいどう)は、流転多き人生を余儀なくされ、特に晩年は孤独であったというが、〈死神の目をのがれつつ日日裸〉〈着ぶくれて恥多き世に生きむとす〉など、句はどこかほのぼのしている。句集のあとがきの、「枴童居を訪ふ」という前書のついた田中春江の句〈寒灯にちよこなんとして居られけり〉に、その人となりを思うのだった。「清原枴童全句集」(1980)所収。(今井肖子)




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