真部一男(棋士)さん死去、55歳。「実力は駒の並べ方でわかる」と言ってたな。(哲




2007ソスN11ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 27112007

 冬眠のはじまりガラスが先ず曇る

                           伊藤淳子

間には冬眠という習慣がないので、それが一体どういうものなのかは想像するしかないが、「長い冬を夢のなかで過ごし、春の訪れとともに目覚める」というのは、たいへん安楽で羨ましく思う。しかし、実際は「眠り」というより、どちらかというと「仮死」に近い状態なのだという。消費エネルギーを最小限に切り替えるため、シマリスでいえば、呼吸は20秒に一回、体温はたった3度から8度になるというから、冬眠中安穏と花畑を駆け回る夢を見ているとは到底想像しがたい。また、冬眠は入るより覚める方が大きなエネルギーを必要とするらしく、無理矢理起こすのはたいへん危険だそうだ。環境が不適切だったためうまく目覚めることができず死に至るケースもあると知った。日常の呼吸から間遠な呼吸へ切り替えていく眠りの世界へのカウントダウンは、だんだんと遠くに行ってしまう者を見送っているような気持ちだろう。ひそやかな呼吸による規則正しいガラスの曇りだけが、生きていることのたったひとつの証となる。〈草いきれ海流どこか寝覚めのよう〉〈漂流がはじまる春の本気かな〉『夏白波』(2003)所収。(土肥あき子)


November 26112007

 ターザンに使われぬまま枯かずら

                           五味 靖

などの世代にとって戦後最初のヒーローといえば、間違いなく、映画の「ターザン」だったろう。私は学校の巡回映画で見た。アフリカの未開の地で類猿人に育てられた彼は、実は英国貴族の末裔という設定だ。彼は人間の言葉がしゃべれない。猛獣との闘いのときなどに「アーーアアァ」という雄叫びをあげるくらいで、あとは人間には意味不明の「言語」を発するのみである。ジャングルを移動するのに、ターザンはいたるところにぶら下がっている植物の蔓を利用して、木から木へと猛スピードで飛び移ってゆく。まことに格好がよろしい。全国の子供たちが、それを真似て遊んだものだった。ターザンのように高いところまでは飛べないけれど、それでも私たちは必死に蔓にしがみつき、「アーーアアァ」と叫びながらわずかな距離を飛んだだけで、すっかりターザン気分になれたのである。敗戦後の何もない時代、それ以上に何もなく裸で活躍するターザンに、私たちがあこがれたのは当然だったと思う。掲句の「ターザン」は、だからワイズミュラーの演じた映画のターザンではなく、その頃の男の子たちを指している。そしていま、往年のターザン「たち」はみな、とっくに還暦を過ぎてしまった。もはや蔓につかまり雄叫びをあげる者などはいなくなり、「かづら」などは誰にも見向きもされないままに枯れてゆくばかり。まさに「昔の光、いまいずこ」ではないか、そんな感慨が読み込まれている句である。「あいずみ文芸」(第二号・2007年10月発行)所載。(清水哲男)


November 25112007

 檸檬抛り上げれば寒の月となる

                           和田 誠

檬の季語は秋ですが、ここでは、抛り上げられた空の季節、つまり冬の句とします。果物を抛り上げる図というと、わたしはどうしてもドラマ「不ぞろいの林檎たち」のタイトルバックを思い出します。また、「檸檬」という語からは、高村光太郎の「レモン哀歌」が思い出されます。そしてどちらの連想からも、甘く、せつない感情がわいてきます。句は、そのような感傷的なものを排除して、見たままを冷静に描いています。ドラマや詩とは違う、俳句というものの表現の直接性が、潔く出ているように思います。檸檬を月に見たてることには、たしかに違和感はありません。こぶりな大きさと、あざやかな黄色、また硬質で起伏のある質感は、形こそいびつではありますが、月を連想させるには充分すぎるほどの条件を備えています。抛り上げる「動き」と、上空でとまった時の「静止」。レモンの明るい「黄色」と、夜空の暗い「黒」。手で触れつかむことができる檸檬と、けっして手には触れることのない上空の月。これらの対比が効果的に、句の中に折りこまれています。そういえば、食べかけのレモンを聖橋から捨てる、という歌がありました。掲句のすっきりとしたたたずまいにもかかわらず、私の思いはどうしても、そんな湿った情感に向かってしまいます。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)




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