この二日間やたらに忙しくて、くたくたです。今日は会社を休みます。(哲




2007ソスN11ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 29112007

 ふりむけば障子の桟に夜の深さ

                           長谷川素逝

面台で顔を洗っているとき、暗い夜道を歩くとき。背後はいつだって無防備だ。掲句には一人夜更かしをしていて、ふっとわれに返り振り返った瞬間、薄闇に沈んだ障子の桟が黒々と感じられた様子が捉えられている。昔はひとり起きているのに今のように煌々と電気をつけることはなかった。せいぜい六畳間の端に寄せた机に笠をかぶせたスタンドで手元を明るくするぐらいだった。私が住んでいた古い家は夜になると日中暖められた木が冷えて軋むのか、廊下で、天井でときおり妙な音がした。夜の家は物の怪が練り歩いているようで不気味だった。作者も何か気配を感じて振り向いたのだろう。自分が感じた濃密な雰囲気を表現するのに視線の先をどこに着地させるか。障子全体ではなく障子の桟に限定したことで、ひとりでいる夜の空気を読み手に生々しく感じさせる。夜を煌々と照らし、身辺に何かしら音があることに慣れた現代人の失った暗黒と静寂がこの句から感じられる。それは人がひとりに帰り、自分と向き合う大切な時間だったのかもしれない。「素逝の俳句を読むと、表現ということと見るということの二つを特に感じる。」と野見山朱鳥が述べているが、この句にも素逝の感性の鋭さが視線となって、障子の桟に突き刺さり、そこによどんでいる不安を「夜の深さ」として表しているように思う。『定本素逝句集』(1947)所収。(三宅やよい)


November 28112007

 ひといきに葱ひん剥いた白さかな

                           柳家小三治

ういう句は、おそらく俳人には好かれないのだろう。しかし、いきなり「ひといきに」「ひん剥」く勢いと少々の乱暴ぶりは、気取りがなく率直で忘れがたい。しかもそれを「白さ」で受けたうまさ。たしかに葱の長くて白い部分は、ビーッと小気味よく一気にひん剥いてしまいたい衝動に駆られる。スピードと色彩に加えて、葱独特のあの香りがあたりにサッと広がる様子が感じられる。台所が生気をとり戻して、おいしい料理(今夜は鍋物でしょうか?)への期待がいやがうえにも高まるではないか。ある有名俳人に「・・・象牙のごとき葱を買ふ」と詠んだ句があるけれど、白さの比喩はともかく、象牙では硬すぎて噛み切れず、立派すぎてピンとこない。葱の名句は、やはり永田耕衣の「夢の世に葱を作りて寂しさよ」だと、私は決めこんでいる。掲出句には、高座における小三治のシャープで、悠揚として媚を売らず、ときに無愛想にも映る威勢のよさとも重なっているところが、きわめて興味をそそられる。ひといきにひん剥くような威勢と、際立った色彩と香りを高座に重ねて楽しみたい。小三治は「東京やなぎ句会」の創立メンバーで、俳号は土茶(どさ)。俳句についてこう語っている。「俳句ですか。うまくなるわけないよ。うまい人は初めからうまいの。長くやってるからってうまくはならないの。達者になるだけよ。(中略)これからの私は下手でいいから自分に正直な句を作ろうと考えています。ところが、これが難しいんだよね」。よおっくわかります。呵呵。『友あり駄句あり三十年』(1999)所載。(八木忠栄)


November 27112007

 冬眠のはじまりガラスが先ず曇る

                           伊藤淳子

間には冬眠という習慣がないので、それが一体どういうものなのかは想像するしかないが、「長い冬を夢のなかで過ごし、春の訪れとともに目覚める」というのは、たいへん安楽で羨ましく思う。しかし、実際は「眠り」というより、どちらかというと「仮死」に近い状態なのだという。消費エネルギーを最小限に切り替えるため、シマリスでいえば、呼吸は20秒に一回、体温はたった3度から8度になるというから、冬眠中安穏と花畑を駆け回る夢を見ているとは到底想像しがたい。また、冬眠は入るより覚める方が大きなエネルギーを必要とするらしく、無理矢理起こすのはたいへん危険だそうだ。環境が不適切だったためうまく目覚めることができず死に至るケースもあると知った。日常の呼吸から間遠な呼吸へ切り替えていく眠りの世界へのカウントダウンは、だんだんと遠くに行ってしまう者を見送っているような気持ちだろう。ひそやかな呼吸による規則正しいガラスの曇りだけが、生きていることのたったひとつの証となる。〈草いきれ海流どこか寝覚めのよう〉〈漂流がはじまる春の本気かな〉『夏白波』(2003)所収。(土肥あき子)




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