2007N12句

December 01122007

 人間はぞろぞろ歩く浮寝鳥

                           田丸千種

えよう、と意識したわけではないのに、なんとなく口をついて出てしまう句というのがある。この句は私にとって、そんな一句。出会ったのは、昨年の十二月十七日、旧芝離宮恩賜庭園での吟行句会にて。芝離宮は、港区海岸一丁目に所在し、昔は海水を引き入れていたという池を中心とした庭園で、毎年水鳥が飛来する。十二月も半ばの冬日和の池の日溜りには、気持よさそうな浮寝鳥が、さほど長くはない首を、器用に羽根の間に埋めて漂っていた。日が動くと、眠っているはずの浮寝鳥達が、つかず離れずしながらいつのまにか、日向に移動。ほんとうに眠っているのか、どんな夢をみているのか、鳥たちを遠巻きにしつつ、それぞれ池の辺の時間を過ごしたのだった。たくさんあった浮寝鳥の句の中で、この句はひとつ離れていた。師走の街には足早な人の群。何がそんなに忙しいのか、どこに向かって歩いているのか。命をかけた長旅を経た水鳥は、今という時をゆっくり生きている。ぞろぞろとぷかぷか、動と静のおもしろさもあるかもしれないが、浮寝鳥に集中していた視線をふっとそらして、それにしてもいい天気だなあ、と空を仰いでいる作者が見えた。(今井肖子)


December 02122007

 床に児の片手袋や終電車

                           小沢昭一

業柄、決算期には仕事を終えるのが夜遅くなり、渋谷駅で東横線の終電車に飛び乗ることも少なくはありません。朝の通勤ラッシュには及ばないまでも、終電車というのはかなりの混みようです。それも仕事帰りの勤め人だけではなく、飲み屋から流れてきた男女も多く、車内はがやがやとうるさく、本を読むこともままなりません。それでもいくつかの大きな乗換駅を過ぎるころには、車内の混雑もそれほどではなくなってきます。それまで、大きな体のサラリーマンの背中に押し付けられていた顔も、普通の位置に戻ることができました。前の席が空いて、ああ極楽極楽と座った目の先に、小さなかわいらしい手袋が落ちています。そういえばあの混雑の中に、子供を抱いた女性がいたなと、思い出します。もうどこかの駅で降りてしまったもののようです。おそらく、子供だけが、手袋が落ちた瞬間に「あっ」と思ったのでしょう。「おかあさん」と知らせるまもなく、母親は人ごみに押されるままに、電車を下りてしまったのです。終電車という熱気のなかの雰囲気、抱かれた子供の、落ちてゆく手袋への視線、子供を抱きかかえて乗り物に乗ることの不自由さ、などなど、さまざまな思いがない交ぜになって、この句は感慨深いものを、わたしに与えてくれます。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


December 03122007

 賀状書きつゞく鼠の尾のみえて

                           井沢唯夫

の秋に、新俳句人連盟から『新俳句人連盟機関誌「俳句人」の六〇年』をいただいた。全792ページという、掌に重い大冊である。連盟60年の歴史的記述や座談会も貴重で興味深く読んだが、なかで圧巻は「俳句人」の毎号の目次がすべて往時のままに図版で掲載されている部分だ。創刊号(1946年11月)の目次を見ると、日野草城、西東三鬼、石田波郷、橋本多佳子らが作品を寄せている。その後の連盟の歩みからすると、かなり異質な寄稿者たちとも思えるが、敗戦直後の特殊事情が大いに関係していたのだろう。見ていくとしばらくガリバン刷りの時期もあって、先人の労苦がしのばれる。ところで掲句だが、1979年5月号の目次欄に掲載されていた。したがって作句は前年末と推定されるが、ぱっと目に留まったのは、もちろん来年が鼠の年(子年)だからだ。あと半月もすると、多くの人たちがプリントされた「鼠(の尾)」の絵に半ばうんざりしながら賀状書きに励むことになる。何の疑いもなく、私はそのように微笑しつつ読み、しかし念の為にと調べてみたら、1979年は未年であり、作者の書いている賀状に鼠の絵などはあり得ないことがわかった。つまり、作者が詠んだのは本物の鼠(の尾)だったというわけだ。わずか三十年ほど前の話である。鼠がこれほどに人の身近にいたとは、とくに若い人には信じられないだろう。もう少しのところで、私はとんでもない誤読をやらかすところだった。今現在のあれこれだけを物差しに、昔の俳句を読むのは危険なのだ。その見本のような句と言うべきか。(清水哲男)


December 04122007

 やんはりと叱られてゐるおでんかな

                           山本あかね

められるのも苦手だが、叱られるのはもっと苦手。などというと、誰だってそうだ、と突っ込まれそうだが、叱られたあとの空気をどうしたらよいのか、叱られながら考えてしまう。深く反省し、それなりにへこんでもいるのだが、その悲しみを店やその場にいる人に感染させてしまってはいけない、と強く思ってしまうからだ。褒められている場合には、茶化されておしまいか、にこにこ笑って話題が移るのを待っていればよいが、叱られている当事者ではそうはいかない。叱られている現実への困惑、思いあたるふしへの自照、この場の空気を悪くしていることへの恐縮、それらが三つ巴となって頭のなかをぐるぐるとめぐる。考えていることがフキダシとなって表れていたら、それこそ「大体そういうところが大人としておかしいのだ」とあらためて叱られるところだろう。というわけで、掲句にもわずかにどきっと心が騒いだ。しかし、やんわりと諭されて「はい、わかりました」と胸に刻みつつ、「あ、大根おいし」などとつぶやいている。そんな救いのある座を思い描くことができ、ほっと胸をなでおろしたのだった。叱る方も叱られる方もどちらも、それはそれとして上手に受け止め、次の話題へと流れているのだろう。おでんから立つそれぞれの湯気が、ふっくらとその場を包んでいる。〈鮟鱇を下ろして舟の軽くなる〉〈草の花兎が食べてしまひけり〉『大手門』(2007)所収。(土肥あき子)


December 05122007

 木枯や煙突に枝はなかりけり

                           岡崎清一郎

京では今年十一月中旬に木枯一号が記録された。暑い夏が長かったわりには、寒気は早々にやってきた。さて、煙突に枝がないのはあたりまえ――と言ってしまうのは、子供でも知っている理屈である。この句には大人ならではの発見がある。さすがに清一郎、木枯のなかで高々と突っ立っている煙突を、ハッとするような驚きをもって新たに発見している。そこに「詩」が生まれた。木枯吹きつのるなかにのそっと突っ立っている煙突、その無防備な存在感に今さらのように気づかされている。文字通り手も足も出ない。木枯の厳しさを、無防備な煙突がいっそう際立たせているではないか。突っ立っている煙突に、人間の姿そのものを重ねて見ているのかもしれない。木枯を詠んだ句がたくさんあるなかで、清一郎のこの句は私には忘れがたい。昭和十一年に創刊された詩人たち(城左門、安藤一郎、岩佐東一郎、他)による俳句誌「風流陣」に発表された。「清一郎の夫人行くなり秋桜」という洒落た句も清一郎自身が詠んでいる。ユーモアと奇想狂想の入りまじったパワフルな詩を書いた、足利市在住の忘れがたい異色詩人であった。小生が雑誌編集者時代に詩を依頼すると、返信ハガキにとても大きな字で「〆切までに送りましょうよ」と書き、いつも100行以上の長詩をきちんと送ってくださった。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 06122007

 月光とあり死ぬならばシベリアで

                           佐藤鬼房

房は昭和15年入隊。中国から南方へ転進、スンバワ島で終戦を迎えた。太平洋戦争当時青年期を迎えた男達は否応なく戦争に駆り立てられていった。鬼房は南の島で囚われたが、ソ連の虜囚となった何万もの日本兵はシベリアの強制収容所に送られた。その中には中国でたまたま同じ場所に居合わせた部隊もあったかもしれない。シベリアの大地を照らす月は寒々とした冬の月を思わせる。寒さと飢えに苛まれた日常と労働がどれほど厳しいものであったか、その痛苦の体験から掴みとったものを香月泰男は絵に、石原吉郎は詩や文章に表している。収容された多くの人たちは再び故国の土を踏むことなくシベリアの凍土に葬られた。「死ぬならばシベリアで」の言葉には、望郷の念を胸に短い生涯を終えた同世代の青年たちへの愛惜がこもっている。同じように捕虜になった自分が無事帰還したことに傷のような負い目も残ったかもしれない。そうでなくとも、この時代に青年期をくぐりぬけた人達は若くして戦死した仲間に対して自分たちが生き延びたことに、すまなさに似た気持ちを持ち続けていたように思う。鬼房と同年齢のうちの父などもそうだった。世が繁栄すればするほど戦争の記憶は陰画のように心の底に焼き付けられたままであったろう。死ぬならば、の呼びかけは生きながら月光を浴びる鬼房のかなわぬ願いだったのかもしれない。『現代俳句12人集』(1986)所載。(三宅やよい)


December 07122007

 吾子の四肢しかと外套のわれにからむ

                           沢木欣一

子は(あこ)。自分の記憶の中で一番古いものは四歳の時の保育園。ひとりの先生とみんなで相撲をとった。みんな易々と持ち上げられ土俵から出されたが、僕は先生の長いスカートの中にもぐりこんで足にしがみついた。先生は笑いながらふりほどこうとしたが、僕はしっかりと足に四肢をからめて離れず、ついに先生は降参した。このときの奮戦を先生は後に母に話したため、僕はしばらくこの話題で何度も笑われるはめになった。あのときしがみついた先生の足の感じをまだ覚えている。加藤楸邨の「外套を脱がずどこまでも考へみる」森澄雄の「外套どこか煉炭にほひ風邪ならむ」そして、この句。外套の句はどこか内省的で心温かい。澄雄も欣一も楸邨門で「寒雷」初期からの仲間。二人とも昔はこんなヒューマンな句を作っていたのだった。「寒雷」は「花鳥諷詠」の古い情趣や「新興俳句」の借り物のモダニズムの両者をよしとせずに創刊された。「人間探求」の名で呼ばれる「人間」という言葉が「ヒューマニズム」に限定されるのは楸邨「寒雷」の本意ではないが、それもまた両者へのアンチ・テーゼのひとつであったことは確かである。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


December 08122007

 見て居れば石が千鳥となりてとぶ

                           西山泊雲

鳥は、その鳴き声の印象などから、古くから詩歌の世界では、冬のわびしさと共に詠まれ、冬季となっている。しかし実際には、夏鳥や留鳥のほか、春と秋、日本を通過するだけの種類もいるという。海辺で千鳥が群れ立つのを見たことがある。左から右へ飛び立ち、それがまた左へ旋回する時、濃い灰褐色から白に、いっせいにひるがえる様はそれは美しかった。この句の千鳥は川千鳥か。作者が見て居たのは河原、そこに千鳥がいることを、あまり意識していなかったのかもしれない。突然、いっせいに飛び立った千鳥の群、本当に河原の石が千鳥となって、飛び立ったように見えたのだろう。句意はそうなのだろうと思いつつ、なんとなく、意識が石へ向いてしまった。子供の頃、生きているのは動物だけじゃないのですよ、草も木もみんな生きているのです、と言われ、じゃあ石は?と思ったけれど聞けなかった。生命は石から誕生し最後には石に還る、という伝説もあるという。半永久的な存在である石が、千鳥となって儚い命を持つことは、石にとって幸せなんだろうか、などと思いつつ、ふっと石が千鳥に変わる瞬間を思い描いてみたりもするのだった。「泊雲」所収。(今井肖子)


December 09122007

 右ブーツ左ブーツにもたれをり

                           辻 桃子

語はもちろんブーツ。なにしろこの句にはブーツしか描かれていません。その単純明快さが、読んでいて頭の中をすっと気持ちよくしてくれます。我が家も私以外は女性ばかりなので、冬になるとよく、このような光景を目にします。ただでさえ狭いマンションの玄関の中に、所狭しと何足ものブーツがあっちに折れ曲がったりこっちに折れ曲がったりしています。そのあいだの狭いスペースを探して、わたしは毎夜靴を脱ぐ羽目になります。たかが玄関のスペースのことですが、どこか家の力関係を表しているようで、あまり気持ちのいいものではありません。最近はブーツを立てておくための道具も(かわいい動物の絵などが描かれているのです)できているようで、この折れ曲がりは、我が家では見ることがなくなりました。右ブーツが左ブーツにもたれているといっています。「折れ曲がる」でもなく「倒れる」でもなく「もたれる」ということによって、どこか人に擬しているように読めます。ブーツそのものが、そのまま女性を連想させ、そこから何か物語めいた想像をめぐらすことも可能です。しかしここは、単にブーツがブーツにもたれているという単純で、それだけにユーモラスな様子を頭に思い浮かべるだけでよいのかなと、思います。それでちょっと幸せで、あたたかな気持ちになれるのなら。『微苦笑俳句コレクション』(1994・実業之日本社)所載。(松下育男)


December 10122007

 歳晩の夕餉は醤油色ばかり

                           櫂未知子

はそうでもないかもしれないが、昔の「歳晩(年の暮)」の食卓情景は、たしかにこういう感じだったと懐かしく思い出す。歳晩の主婦は、なにかと新年の用意に忙しく、あまり日々の料理に気を遣ったり時間をかけたりするわけにはいかなかった。必然的に簡単な煮しめ類など「醤油色」のものに依存して、そそくさと夕餉をやり過す(笑)ことになる。煮しめと言ったつて、正月用の念入りな料理とはまた別に、ありあわせの食材で間に合わせたものだ。したがって押し詰まれば押し詰まるほどに、食卓は醤油色になっていき、それもまた年の瀬の風情だと言えば言えないこともない。昔はクリスマスを楽しむ風習もなかったから、師走の二十日も過ぎれば、毎日の夕餉の食卓はかくのごとし。農家だったころの我が家は、晦日近くになると、夕餉の膳には餅が加わり、これまたこんがり焼いて醤油色なのである。食べ物のことだけを言っても、このように歳末の気分を彷彿とさせられるところが、俳句の俳句たる所以と言うべきである。「俳句界」(2007年12月号)所載。(清水哲男)


December 11122007

 さっきまで音でありたる霰かな

                           夏井いつき

(あられ)は地上の気温が雪が降るよりわずかに高く、零度前後のときに多く見られるという。激しい雨の音でもなく、そっと降り積もる雪でもなく、もちろん雹の賑やかさもなく、霰の音はまさにかすかなる音、かそけき音だろう。そのささやかな音がいつの間にか止んでいる。それは雪に変わったのだろうか、それともあっけなく溶けてしまったのだろうか。作者は今現在の空模様を問うことなく、先ほどまでわずかにその存在を主張していた霰に思いを傾けている。霰というものの名の、短命であるからこその美を心から愛おしむように。蛇足ながら雹との違いは、直径2〜5mmのものを霰、 5mm以上のものを雹と区別する。まるでそうめんとひやむぎの違いのようだが、俳句の世界では、霰は冬、雹は夏と区別される。雷雲の中を上下するうちに雪だるま式に大きくなるため雷雲が発生しやすい夏に雹が降るというわけらしい。〈傀儡師来ねば死んだと思いけり〉〈ふくろうに聞け快楽のことならば〉『伊月集 梟』(2006)所収。(土肥あき子)


December 12122007

 不二筑波一目に見えて冬田面

                           三遊亭円朝

うまでもなく「不二」は「富士」、「筑波」は「筑波山」である。「田面」は「たづら」と読む。野も山も冬枯れである。不二の山や筑波山がはるかに一望できて、自分が立っているすぐ目の前には、冬枯れの田が寒々しく広がっている。葛飾北斎の絵でも見るような、対比が鮮やかで大きな句である。風景としてはここに詠まれているだけのものだろうが、明治の頃である。平野部からの当時の見晴らしのよさは言うまでもあるまい。“近代落語の祖”と呼ばれる名人円朝には、入りくんだ因縁噺で構成された数々の大作がある。噺の舞台となる各地へはいちいち実際に赴いて、綿密に調査して書きあげたことで知られる。代表作「怪談牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」「塩原多助一代記」「鰍沢」などは、いずれもそうした成果を示している。「福禄寿」という噺は、北海道へまで踏査の足をのばしている。掲出句が詠まれた場所は、関東のどこか広々とした農村あたりを踏査している道すがら、ふと視野に入ったものと思われる。永井啓夫の名著『三遊亭円朝』(青蛙房)の巻末には、著者が集めた円朝の百十二句のうち百句が収められている。それらの句は発表する目的ではなく、紀行日記や書簡などに書きとめていたものゆえ、作為や虚飾のない句が多い。「はつ夢や誰が見しも皆根なし草」「また元の柱に寄りぬ秋の夕」。辞世の句は「眼を閉(とぢ)て聞き定めけり露の音」。明治三十三年、六十二歳で亡くなった。『三遊亭円朝』(1962)所収。(八木忠栄)


December 13122007

 てめえの靴はてめえで探せ忘年会

                           山本紫黄

年もあとわずか。毎晩どこかで忘年会が開かれていることだろう。会も無事終わり「いいお年を」と声をかけあって、酒席を後にしたものの、その後の混乱がこれである。このごろは上がり口で個別に靴を入れて下足札をもらうところも多いようだけど、土間にずらりと黒革靴が並べてあれば、騒ぎは目に見えるようである。サイズやくたびれ具合もほぼ同じ靴のどれが誰のものやら酔眼で見分けるのは容易ではない。掲句はそのてんやわんやの騒ぎを自分も一緒に靴を探しながら楽しんでいるのか。または、自分の靴を自分で探そうとせずに、「俺の靴はどこだ、早く探せ」と部下を顎で使って靴を探させている上役に投げつけられたタンカなのか。どちらにしてもこのような言葉を俳句に入れるのは簡単そうに見えて難しい。その場の状況を一言で想像させる力、言葉の切れのよさと勢いと。そしてこの場合の季語は職場の全員が集い、一年の労苦をねぎらう「忘年会」がぴたりと決まる。この作者にお会いしたことはないけど、俳句でこんなタンカが切れるのだから、普段は物静かな紳士だったのだろう。「これは俳句といえないのでは」という句会での評に「僕が俳句というのだから俳句だ」と断じたのは師の西東三鬼だったと池田澄子さんから伺った。山本紫黄氏は今年八月、第二句集『瓢箪池』を上梓された直後、急逝された。『早寝島』(1981)所収。(三宅やよい)


December 14122007

 無方無時無距離砂漠の夜が明けて

                           津田清子

漠の句だから無季。無方向、無時間を無方、無時と縮めていうのはかなり強引だが、この強引さが現場での感動の強さをそのまま表している。清子は誓子門の逸材。誓子は切れ字「や」「かな」を極度に嫌った。古い俳句的情緒を否定し、同時代の感興を俳句に盛ろうとした。この切れ字否定と同時代的感興を盛ること。この二点では誓子は新興俳句運動の先鞭となったが、季語使用については遵守を唱え、やがてその運動とは一線を画した。季語遵守でありながら、旧情緒否定ということは、「写生」という方法の中で現実のリアリティを求めていくということ。しかし、それはどうしても季語があらねばならないという必然性は薄い。現実の風景を構成していく上で季節感の果たす意義を認めたとしてもである。この句、海外詠だから季語は無くても当然という理屈では解決できない問題点を提起する。そのとき、その瞬間の自分の感動を、自分の五感とのなまの触れあいを通して表現するという方法を字義通り実践すると季語はどうしても一義的な要件ではなくなる。感動の核の中で季語の存在意義は薄れてくるのである。別冊俳句「平成秀句選集」(2007)所載。(今井 聖)


December 15122007

 一心の時ゑくぼ出て毛糸編む

                           井上哲王

時記の、毛糸編む、の項を見ると、〈こころ吾とあらず毛糸の編目を読む〉〈毛糸編はじまり妻の黙はじまる〉前者が山口誓子、後者が加藤楸邨。いずれも、毛糸を編むことにのみ集中している妻の姿が詠まれている。続いて、戸川稲村の〈祈りにも似し静けさや毛糸編む〉。編み棒を動かしながら、一目一目編んでいる姿、美しい横顔が浮かんでくる。毛糸編む、は、冬のぬくもりを感じさせる季節の言葉である。掲句は、前後の句から推して、生まれてくる我が子のために編み物をしている妻を詠んだものと思われる。一心に編む妻の頬か口元か、えくぼが見える。笑窪、なので、笑った時にできるのは当然だが、確かに、キュッと口元に力が入った時にもできる。一心の時ゑくぼ出て、という叙し方に、言葉が思わず口をついて出てしまった、という感じがあり、客観的に対象を見ている前出の三句とは、また違ったほほえましさのある一句となっている。ちなみに、この句に目がとまって、えくぼか、と思い検索してみると、最初に「えくぼは簡単に作れる!費用は20万円」と出て、少々驚いた。靨、という漢字も初めて知ったが、厭な面?と思ったらそうではなく、厭(押す、押さえる)とあり、なるほどそういうことかと。「石見」(1997)所収。(今井肖子)


December 16122007

 さう言へばこけしに耳のない寒さ

                           久保枝月

う言えば、(と、わたしも同じようにはじめさせてもらいます)わたしが子供のころには、畳の部屋によく、飾り棚が置いてありました。今のように部屋にゆったりとしたソファーが置いてあったり、あざやかな柄のカーテンがついていたりということなど、なかった時代です。飾り棚と言っても、作りはいたって簡単で、ガラス扉の向こうには、たいていいくつかのこけしが、そっと置いてあるだけでした。来る日も来る日も同じガラスの向こうに、同じこけしの姿を見ている。それがわたしの子供のころの、変化のない日常でした。思えば最近は、こけしを目にすることなどめったにありません。ああそうか、こけしには耳がなかったんだと、あらためて作者は思ったのです。作者が「寒さ」を感じたのは、「こけし」であり、「耳」であり、「ないこと」であったようです。そしてその感覚は、自分自身にも向けられていたのかもしれません。耳という部位を通して、こけしであることと、ひとであることを、静かに比べているのです。「さう言へば」という何気ない句のはじまり方が、どこか耳のないこけしに、語りかけてでもいるように読めます。『微苦笑俳句コレクション』(1994・実業之日本社)所載。(松下育男)


December 17122007

 クリスマスケーキ買いたし 子は散りぢり

                           伊丹三樹彦

リスマスケーキとは、つまりこういうものである。むろん買って帰ってもよいのだが、老夫婦だけのテーブルに置くのはなんとなく侘びしい。ケーキのデコレーションが華やかなだけに、である。子供たちがまだ小さくて、夫婦も若かった頃には、ケーキを食卓に置いただけで家の中がはなやいだ。目を輝かせて、大喜びする子供たちの笑顔があったからだ。その笑顔が、親にとってはケーキよりももっと美味しいものだったのだ。そんなふうだった子供らも、やがて次々に独立して家を離れていった。詩人の以倉紘平は「どんな家にも盛りの時がある」と書いているが、まことにもってその通りだ。毎年年末には、作者のような思いで、ケーキ売り場を横目に通り過ぎる人は多いだろう。私も既に、その一人に近い。伊丹三樹彦、八十七歳。この淋しさ、如何ともなし難し。もう一句。「子が居る筈 この家あの家の門聖樹」。『知見』(2007)所収。(清水哲男)


December 18122007

 かまいたち鉄棒に巻く落とし物

                           黛まどか

会的センスを求められがちな作者だが、何気ない写生句にも大きな魅力がある。通学路や公園の落とし物は、目の高さあたりのなにかに結ばれて、持ち主を待っているものだ。それはまるで公園のところどころに実る果実のように、マフラーや給食袋などがいつとはなく結ばれ、またいつとはなくなくなっている。ひとつふたつと星が出る頃、ぽつんと明かりが灯るように鉄棒に巻かれた落とし物が人の体温を伝え、昼間鉄棒にまといついていた子どもたちの残像をひっそりとからみつかせている。また、かまいたち(鎌鼬)とは、なにかの拍子でふいに鎌で切りつけられたような傷ができる現象をいう。傷のわりに出血もしないことから伝承では3匹組の妖怪の仕業などとも言われ、1匹目が突き飛ばし、2匹目が鎌で切り、3匹目が薬を塗る、という用意周到というか、必要以上の迷惑はかけない人情派というか、なんとも可愛らしい。この妖怪じみた気象現象により、夜の公園でかまいたちたちがくるくると遊んでいるような気配も出している。〈春の泥跳んでお使ひ忘れけり〉〈ひとときは掌のなかにある毛糸玉〉『忘れ貝』(2007)所収。(土肥あき子)


December 19122007

 ポストへ行く風尖らせる冬の月

                           岡本千弥

い冬の夜。そんなに急ぐなら、明朝早々にポストへ投函に行ったらよかろう、と言う人がいるかもしれない。しかし、朝早くといっても、人にはいろいろ事情がある。寒いとはいえ今夜のうちにポストへ、という人もあって当然。気が急いている手紙なのかもしれない。この句は「ポストへ行く」で切れる。凍るような月が、冬の夜風を一段と厳しく尖らせている。あたかも刃のように尖って感じられるのだろう。満月が耿々と照っているというよりは、刃のごとく月は鋭く尖っているのかもしれない。中途半端な月ではあるまい。どんな内容の手紙かはわからないが、この句から推察すれば、穏かなものでないほうがふさわしいように思われる。手紙の内容も、それを携えてポストへ向かう人の姿も、風も、月も、みな一様に尖っているように感じられる冬の夜。ポストも寒々しい様子で寒気に堪えて突っ立っているにちがいない。ファクシミリやインターネットの時代には、稀有な光景となってしまった。「春の月」や「夏の月」では、手紙の内容も「冬の月」とちがったものとして感じられる。そこに俳句の凄さがある。「冬〇〇」とか「冬の〇」という季語はじつに多い。普段、手軽に使っている歳時記には77種類も収められている。もっとも「冬の・・・」とすればきりがないわけだけれど。千弥の場合は、岡本文弥が与えた新内節の芸名が、そのまま俳号になった。「12月、透きとおる月の女かな」という句もある。句集『ぽかん』(2000)所収。(八木忠栄)


December 20122007

 肉買ひに出て真向に吹雪山

                           金田咲子

ずこの俳句を読んだ私の頭に思い浮かんだのは肉を買いに出た作者の顔へ直に吹雪が吹きつけてくる景だった。だが、落ち着いて最後まで読み下してみれば「真向に吹雪」ではなく「真向に吹雪山」であり、吹雪いているのは、作者のいる場所ではなく、遠く雪雲に曇る正面の山であることがわかる。しかしそう理解した後も今度は暖かい家から吹雪の山へ飛び出していく作者の姿が見えてしまい、なかなか言葉通りの遠近感が戻ってこないのはなぜだろう。肉を買いに出る行為は日常の些事ではあるが、肉と吹雪がくっきりしたコントラストを形作っている。生々しく赤い肉には冷たさと同時に熱を呼ぶ力があり、吹雪には全てを白く覆いつくす暴力的なエネルギーがある。俳句では只事に思える出来事が言葉の組み合わせによって思わぬ像を結ぶときがある。言葉によって喚起される連想が意外なイメージを形作ることは、句会などでよく経験することだ。この句の場合は「肉」と「吹雪」の取り合わせの妙と、末尾の微妙な切れ方が読み手の想像力を刺激し、肉を買いに出るという日常的な行為が激しく吹雪く遠くの山へ肉を買いにゆくような不思議な距離感を感じさせるように思う。『現代俳句の新鋭』(1986)所載。(三宅やよい)


December 21122007

 掘られたる泥鰌は桶に泳ぎけり

                           青木月斗

鰌と鰻の違いはどこかなどというと、奇異に思われるかもしれない。山陰の田舎では田んぼの用水路なんかで釣りをしていると三十センチくらいのやつがかかって、釣ったばかりは鰻か泥鰌かはたまた蛇かわからない。もっとも蛇は水中にいないので選択肢はふたつだ。髭があるのが泥鰌だよと釣り友達からあらためて教わったものだ。持って帰ると父が蒲焼にしてくれた。うまかった。山陰と泥鰌と言えば安来節。ヘルスセンターなどいたるところでやっていた。安来節名人がいて、割り箸を二本鼻の穴に挿して、泥鰌を取る仕草が実にリアルで大うけにうける。小学校の学芸会でもひょうきん者がよく出し物にしていた。加藤楸邨に「みちのくの月夜の鰻遊びをり」がある。楸邨は鰻が大好きだった。幼時、父親の転勤で東北地方に居たときなど、川でよく鰻を捕ったとのこと。小さいものをめそっこと言ってよく食べたとエッセーにもある。めそっこなら泥鰌とほとんど変らない大きさだろう。冬の田の土中を掘って入り込んだ泥鰌を捕ったあと、桶で泳がせて泥を吐かせる。そのあとは鍋か唐揚か。それもいいが、あの泥鰌の蒲焼をまた食べてみたい。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


December 22122007

 シリウスの青眼ひたと薬喰

                           上田五千石

星、天狼星、とも呼ばれる、最も明るい冬の星、シリウス。オリオンの三つ星の東南に最後に上り、青白く強い光を放つ恒星である。青眼は正眼であろうから、正面にシリウス。真夜の凍った空気と薬喰(くすりぐい)。肉食が禁じられていた頃、特に冬に体を温める目的でひそかに獣肉を食べたことから、冬に獣肉を食べることを薬喰と呼ぶ。中でも鹿肉は、血行をよくするというので好まれたという。先日、鹿肉の刺身をいただく機会があった。魚はもちろん、鳥肉、馬肉、鯨肉、と刺身は好きなのだが、鹿は初めて。小鉢に盛られたその肉は、鮪のような深い赤であり、ほの甘く癖もなく美味だったのだが、「鹿です」と言われた瞬間、まさに鹿の姿が目の前に浮かび、一瞬たじろいだ。それも、何年か前に訪れた奈良、夜の公園近くの道端の茂みから、突然飛び出して来た鹿の姿が浮かんだのだ。昼間見たのんびりとした様子とは一変し、月に照らされた鹿は、まさに獣であった。それでも結局食べたんでしょ、いつもあれこれ肉を食べてるんでしょ、まさにその通りではあるのだが、あの鹿肉の瑞々しい赤が、月夜の鹿の黒々とした姿と共に脳裏を離れない。そして、掲句の、青眼ひたと、の持つ静謐で鋭い切っ先に、再びたじろいでしまうのだった。「新日本大歳時記」(1999・講談社)所載。(今井肖子)


December 23122007

 短日や電車の中を人歩く

                           河合すすむ

つか新聞で読んだのですが、「冬の鬱」という病気があるそうです。眠気がひどく、食欲が増すということで、普通の鬱とは違うのだと書いてありました。日が短くなるのが原因なのだそうです。個人的な事情や悩みからではなく、季節がもたらすこのような病に、しらずしらず私たちは抵抗していたのかと、思ったものです。クリスマス、大晦日、正月と、この時期に賑わしく人々が集おうとするのも、心を明るい方向へ向かわせたいというけなげな願いからきているのかもしれません。さて、本日の句です。季語はまさに「短日」。たしかにこのごろは、私の働くオフィスの大きなガラス窓も、午後も4時半を過ぎれば早々と暗くなり始めます。これほどの日の長さかと、仕事に疲れた顔を窓に向けては、時の過ぎるのを惜しく思います。句の中の人は、電車に乗っていてさえ、かぎりある「時」を大切に使おうとしているようです。電車の中を歩いているのは、到着駅で降りる場所を、少しでも改札の近くへ持って行きたかったからなのでしょうか。あるいは、なにか気にかかることでもあって、移動する車両の中でさえ、いてもたってもいられなかったのでしょうか。どのような理由であれその歩みは、過ぎ去る「時」を追いかけているように、思われます。『観賞歳時記 冬』(1995・角川書店)所載。(松下育男)


December 24122007

 立読みの女が日記買ひにけり

                           長谷川和子

者は書店員なのだろう。そうでなければ、「立読み」が気になるわけがない。句意は明瞭だが、なんとなく可笑しい句だ。店に入ってきてから、「女」は相当に長い時間しつこく立読みしている。店員としては、かなり苛々させられる「客」だ。そんなにその本が読みたければ、買って帰ればよいものを。よほど懐がさびしいのだろうか、それとも……などと気になって、ときどきちらちらと視線を送っている。早く出ていって欲しいな。営業妨害とまでは言えなくとも、とにかく邪魔っけだ。と、なおも苛々が募ってきた矢先のこと、件の女性がぱたっと立読みを止め、日記帳のコーナーからさっと一冊を取り出すや、真っすぐにレジに向かって買って行ってしまったと言うのである。おそらく、安くはない一冊だったのだろう。作者はそんな彼女の後ろ姿に、口あんぐり。ほっとしたような、してやられたような、なんとも言えない妙な気分がしたはずである。小さな職場での小さな出来事にしかすぎないけれど、大袈裟に言えば、この句は人間という生き物のわかりにくさを実に的確にスケッチしている。まことに、人は見かけによらないのである。ところで、日記帳は多くこのように書店で売られているが、果たして日記帳は「本」なのだろうか。私には「ノート」と思えるのだが、だとすれば何故文具店にはあまり置かれていないのだろう。なんてことがそれこそ気になった時期があって、そのときの私なりの一応の結論は、博文館日記全盛の頃からの名残りだろうということだった。つまり昔から、日記帳は流通の経路が文具とは別のルートを通っていたので、それがそのまま現代に及んでいるというわけだ。そう言えば、書籍の流通業者には、本の中身なんぞはどうでもよろしいというようなところがある。『現代俳句歳時記・冬』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


December 25122007

 石蕗の花母声あげて吾を生みし

                           本宮哲郎

日クリスマス。これほどにクリスマス行事が浸透している日本で、今や聖母マリアと神の子イエスの母子像を見たことのない人はいないだろう。聖母マリアの像の多くは、わが子にそそぐまなざしのため、うつむきがちに描かれる。伏し目姿の静かな母とその胸に抱かれた幼子を完璧な母子像として長い間思い込んでいたが、掲句を前に一変した。石蕗の花のまぶしいほどの黄色が、絶叫の果ての母の喜びと、健やかな赤ん坊の大きな泣き声にも重なり、それは神々しさとは大きく異なるが、しかし血の通う生身の母子像である。絵画となると美しさに目を奪われるばかりの母子像だが、落ち着いて考えてみれば、大木あまりの〈イエスよりマリアは若し草の絮〉にもある通り、マリアには肉体の実感がまったくない。しかし、どれほど美しく描かれようとも、処女でいなければならず、また年を取ることも許されず、わが子の死に立ち会わねばならなかった聖母マリアの悲しみを、今日という日にあらためて感じたのであった。『伊夜日子』(2006)所収。(土肥あき子)


December 26122007

 下駄買うて箪笥の上や年の暮

                           永井荷風

や、こんな光景はどこにも見られなくなったと言っていい。新年を迎える、あるいはお祭りを前にしたときには、大人も子供も新しい下駄をおろしてはくといった風習があった。私たちが今、おニューの靴を買ってはくとき以上に、新しい下駄をおろしてはくときの、あの心のときめきはとても大きかったような気がする。だって、モノのなかった当時、下駄はちびるまではいてはいてはき尽くしたのだもの。そのような下駄を、落語のほうでは「地びたに鼻緒をすげたような・・・」と、うまい表現をする。私の地方では「ぺっちゃら下駄」と呼んでいた。♪雨が降るのにぺっちゃら下駄はいて・・・と、ガキどもは囃したてた。さて、「日和下駄」で知られる荷風である。新年を前に買い求めた真新しい下駄を箪笥の上に置いて眺めながら、それをはきだす正月を指折りかぞえているのだろう。勘ぐれば、同居している女の下駄であるかもしれない。ともかく、まだはいてはいない下駄の新鮮な感触までも、足裏に感じられそうな句である。下駄と箪笥の取り合わせ。買ったばかりの下駄を、箪笥の上に置いておくといった光景も、失われて久しい。その下駄をはいてぶらつくあらたまの下町のあちこち、あるいは訪ねて行くいい人を、荷風先生にんまりしながら思い浮かべているのかもしれない。あわただしい年の暮に、ふっと静かな時間がここには流れている。「行年に見残す夢もなかりけり」も荷風らしい一句である。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 27122007

 太箸に飼犬の名も加えけり

                           清水凡亭

日は御用納め。週末から年用意を始められる方も多いだろう。太箸は新年の雑煮の餅をいただくのに、折れては縁起が悪いので柳などで作られるという。赤や金のふち飾りのある箸袋へ墨をたっぷり含ませた筆で家族一人ひとりの名前を書いてゆく。娘や息子も別世帯を持ちいまや家族は夫婦のみ。あまった箸袋の一つに飼い犬の名前を書いてやる。昔は犬を人間なみに扱う飼い主をどうかと思っていたけど、身近に犬を飼うようになりその温もりに慰められている今となっては作者の気持ちはよくわかる。家族が共に過ごす時間はずっと続くかのように見えて限られているもの。いつもテーブルの下にいる犬の名前を書き添えた太箸をテーブルに置いてお雑煮をいただく。これが猫の飼い主なら箸袋に飼い猫の名前を書くだろうか?何となく猫派は書かないような気がするのだけど、どうだろう。作者凡亭は清水達夫「戦後雑誌の父」とも言われた編集者。初代編集長をつとめた「平凡パンチ」「週刊平凡」を百万部雑誌に育てあげたと、その略歴にある。「生涯一編集者かな初暦」「本つくる話はたのし炉辺の酒」これらの句にあるように最後の最後まで編集に意欲を燃やし、新しい雑誌の企画を仲間と練り続けた人だったらしい。『ネクタイ』(1993)所収。(三宅やよい)


December 28122007

 猟犬は仲居の顔に似てゐたり

                           中岡毅雄

居の顔を見ていて猟犬に似ていると感じたのではなく、犬の顔を見ていて仲居を思ったのである。ユーモアがあるけれど、そこを狙った句ではない。結果的に面白くなっただけだ。冬季、猟、そのための猟犬というつながりで猟犬は冬の季題に入るのだが、日常で猟が見られない今日、季節感は感じられない。そこにも情趣の狙いはない。猟犬と言えば西洋系の犬が浮かぶ。柴犬も猟に伴う犬だが、どうみても仲居はイメージできない。柴犬のような仲居は宴席に向かない。どうしてもラブラドール種やセッターやポインターなどの優雅な風貌を思い浮かべてしまう。ユーモアも季題中心の情緒にも狙いがないとすると狙いはどこか。それは直感にあると言えよう。作者は波多野爽波創刊主宰の「青」で学んだ。爽波は「多作多捨」、「多読多憶」を旨とし、スポーツで体を鍛えるように俳句も眼前のものを速写して鍛えるべきとして「俳句スポーツ説」を唱えた。計らう間も無く、写して、写しまくっていく中で、浮かび上がってくるものの中に「写生」という方法の真髄があるという主張である。この句も計らう間もない速写の中に作者の直感がいきいきと感じられる。『青新人会作品集』(1987)所載。(今井 聖)


December 29122007

 枯園でなくした鈴よ永久に鈴

                           池田澄子

立はその葉を落とし、下草や芝も枯れ、空が少し広くなったような庭園や公園、枯園(かれその)は、そんな冬の園だろう。そこで、小さい鈴をなくしてしまう。鈴がひとつ落ちている、と思うと、園は急に広く感じられ、風が冷たく木立をぬけてゆく。身につけていた時には、ときおりチリンとかすかな音をたてていた鈴も、今は枯草にまぎれ、どこかで静かにじっとしている。やがて、鈴を包みこんだ枯草の間から新しい芽が吹き、大地が青く萌える季節が訪れて、その草が茂り、色づいてまた枯れても、新しい枯草に包まれて鈴はそこに存在し続ける。さらに時が過ぎ、落とし主がこの世からいなくなってしまった後も、鈴は永久に鈴のまま。土に還ることも朽ちることもない小さな金属は、枯れることは生きた証なのだ、といっているようにも思える。枯れるからこそまた、生命の営みが続いていく。永久に鈴、にある一抹のさびしさが余韻となって、句集のあとがきの「万象の中で人間がどういう存在なのかを、俳句を書くことで知っていきたい。」という作者の言葉につながってゆく。『たましいの話』(2005)所収。(今井肖子)


December 30122007

 改札に人なくひらく冬の海

                           能村登四郎

つて、混雑した改札口で切符の代わりに指を切られたという詩を書いた人がいました。しかし、自動改札が普及した昨今では、もうそのような光景を見ることはありません。掲句、改札は改札ですが、描かれているのは、都会の駅とはだいぶ趣が異なっています。側面からまっすぐに風景を見渡しています。冬の冷たい風が吹き、空一面を覆う厚い雲が、小さな駅舎を上から押さつけているようです。句が、一枚の絵のようにわたしの前に置かれています。見事な描写です。北国のローカル線の、急行の停まらない駅でしょうか。それほどに長くはないホームには、柱に支えられた屋根があるのみで、海への視界をさえぎるものは他にありません。改札口には、列車が来る寸前まで駅員の姿も、乗客の姿も見えません。改札を通るのは、人々の姿ではなく、ひたすらに風だけのようです。冬の冷たさとともに、すがすがしい広さを感じることができるのは、「ひらく」の一語が句の中へ、大きな空間を取り込んでいるからなのでしょう。『現代俳句の世界』(1998・集英社)所載。(松下育男)


December 31122007

 どこを風が吹くかと寝たり大三十日

                           小林一茶

のときの一茶が、どういう生活状態にあったのかは知らない。世間の人々が何か神妙な顔つきで除夜を過ごしているのが、たまらなく嫌に思えたのだろう。なにが大三十日(大晦日)だ、さっさと寝ちまうにかぎると、世をすねている。この態度にはたぶんに一茶の気質から来ているものもあるだろうが、実際、金もなければ家族もいないという情況に置かれれば、大晦日や新年ほど味気ないものはない。索漠鬱々たる気分になる。布団を引っかぶって寝てしまうほうが、まだマシなのである。私にも、そんな大晦日と正月があった。世間が冷たく感じられ、ひとり除け者になったような気分だった。また、世をすねているわけではないが、蕪村にも「いざや寝ん元日はまた翌のこと」がある。「翌」は「あす」と読む。伝統的な風習を重んじた昔でも、こんなふうにさばさばとした人もいたということだ。今夜の私も、すねるでもなく気張るでもなく、蕪村みたいに早寝してしまうだろう。そういえば、ここ三十年くらいは、一度も除夜の鐘を聞いたことがない。それでは早寝の方も夜更かしする方も、みなさまにとって来る年が佳い年でありますようにお祈りしております。『大歳時記・第二巻』(1989・集英社)所載。(清水哲男)




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