写真家集団「MAGNUM」の60周年記念写真集が出る。欲しいけど、23,200円也。(哲




2007N122句(前日までの二句を含む)

December 02122007

 床に児の片手袋や終電車

                           小沢昭一

業柄、決算期には仕事を終えるのが夜遅くなり、渋谷駅で東横線の終電車に飛び乗ることも少なくはありません。朝の通勤ラッシュには及ばないまでも、終電車というのはかなりの混みようです。それも仕事帰りの勤め人だけではなく、飲み屋から流れてきた男女も多く、車内はがやがやとうるさく、本を読むこともままなりません。それでもいくつかの大きな乗換駅を過ぎるころには、車内の混雑もそれほどではなくなってきます。それまで、大きな体のサラリーマンの背中に押し付けられていた顔も、普通の位置に戻ることができました。前の席が空いて、ああ極楽極楽と座った目の先に、小さなかわいらしい手袋が落ちています。そういえばあの混雑の中に、子供を抱いた女性がいたなと、思い出します。もうどこかの駅で降りてしまったもののようです。おそらく、子供だけが、手袋が落ちた瞬間に「あっ」と思ったのでしょう。「おかあさん」と知らせるまもなく、母親は人ごみに押されるままに、電車を下りてしまったのです。終電車という熱気のなかの雰囲気、抱かれた子供の、落ちてゆく手袋への視線、子供を抱きかかえて乗り物に乗ることの不自由さ、などなど、さまざまな思いがない交ぜになって、この句は感慨深いものを、わたしに与えてくれます。『新選俳句歳時記』(1999・潮出版社)所載。(松下育男)


December 01122007

 人間はぞろぞろ歩く浮寝鳥

                           田丸千種

えよう、と意識したわけではないのに、なんとなく口をついて出てしまう句というのがある。この句は私にとって、そんな一句。出会ったのは、昨年の十二月十七日、旧芝離宮恩賜庭園での吟行句会にて。芝離宮は、港区海岸一丁目に所在し、昔は海水を引き入れていたという池を中心とした庭園で、毎年水鳥が飛来する。十二月も半ばの冬日和の池の日溜りには、気持よさそうな浮寝鳥が、さほど長くはない首を、器用に羽根の間に埋めて漂っていた。日が動くと、眠っているはずの浮寝鳥達が、つかず離れずしながらいつのまにか、日向に移動。ほんとうに眠っているのか、どんな夢をみているのか、鳥たちを遠巻きにしつつ、それぞれ池の辺の時間を過ごしたのだった。たくさんあった浮寝鳥の句の中で、この句はひとつ離れていた。師走の街には足早な人の群。何がそんなに忙しいのか、どこに向かって歩いているのか。命をかけた長旅を経た水鳥は、今という時をゆっくり生きている。ぞろぞろとぷかぷか、動と静のおもしろさもあるかもしれないが、浮寝鳥に集中していた視線をふっとそらして、それにしてもいい天気だなあ、と空を仰いでいる作者が見えた。(今井肖子)


November 30112007

 真白なショールの上に大きな手

                           今井つる女

ョールは女のもの。大きな手は男のもの。二つの「もの」には当然のように性別が意図され規定される。ショールの上に手が置かれる間柄を思うと、この男女は夫婦、または恋人同士。ショールは和装用だから男もまた和装であってよい。「もの」しか書かれていないのに、その組み合わせはつぎつぎとドラマの典型を読者に連想させる。上原謙と原節子、佐田啓二と久我美子、はたまた鶴田浩二と岸恵子。こんな組み合わせのカップルだろうか。オダギリジョーとえびちゃんではこうはならない。つまりこのドラマには、恋愛や夫婦の在り方や倫理観や風俗習慣など、明治三十年生まれの「女流」から見たコンテンポラリーな風景と意識が明解に映し出されている。時代に拠って変化するものは、後年みると古臭く見える。それは当たり前だろう。だからといって草木や神社仏閣の情緒に不変のものを求めるのは現在ただ今の自己への執着を放棄することにならないか。現在ただ今の、流動しかたちを定めない万相の中にこそ時代の真実があり、自己の生があり、その一瞬から永遠が垣間見える。「写生」とはそういう特性をもつ方法である。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)




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